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第三部『夢の花綵(はなづな)』「視界樹の枝先を揺らす」9
己はいちばん大事なことを妻に言わなかった。そして言わなくていいことを口にした。まさかそれがあんなにあいつを縛り追いつめるものだとは考えもせず。
それだけならまだしも。
あいつにそんなにまで想われていたとは気づかなかった。己は家を出るための理由にすればいいと申し込んだ。周囲に文句は言わせない、己ならそれが出来ると。しばらく考えさせてほしいと言われたがそれから毎週押しかけた。嫌な顔をしなかったので家にもあがった。その間どこかでこの関係が長続きするはずもないと考えた。己は自惚れ屋ではない。愛人を何人も抱えてきたからこそそれなりに女というものを理解しているとおもっていた。他に好きな相手がいるようなそぶりもみせた。上の空なときもあった。己はそれに気づかないふりをした。こちらを向けといっても詮無いことだ。そうして欲しいと請われればしたがあいつが望まなかった。己はそれを好もしく眺めた。
三か月もたったころ結婚するかどうかはしてから決めても遅くないと口にされた。はじめ何を言われたのかわからなかった。一回り以上年が離れている。ギャップはあるものと心構えしてきたがまさかそんな場面で目の当たりにするとは考えもしなかった。
否、正直にいう。意識的に避けた。
己とあいつが口論したのはそれが最初で最後になるはずだった。互いに笑いの種にしたくらいだ。
二度目が離婚騒ぎになるとはまったく笑えないはなしだ。
ドアの開く音がする。あいつが戻ってきた。弾んだ足音に芳香が揺れる。なにかいいことがあったらしい。あいつは己が書き物をしているのを知っているので邪魔しない。そういうところは出来過ぎなくらいだ。
あのとき「試し」といった。本当は不安だと訴えたかったのだろう。己の気持ちがわからないと。どうして自分なのかと問うのは我慢ならなかったはずだ。
家を飛び出してから気がついた。何故その場ですぐ理解してやれなかったのかと呪わしかった。二度とそんなことはしないと誓ったはずがこのざまだ。
あの子から迎えに来てあげてと連絡があってほとんど担ぎ上げるようにして連れ帰った。事の始めに子どもが欲しいといったのはそうすればおまえが己のそばにいると思ったからだと告げた。複雑すぎる互いの家の関係も清算したかった。それでふたりとも安心できると考えていた。己が間違っていた。許してくれと頭を下げた。あいつは何もかかれていない紙のように白いかおでそういうはなしじゃないと首をふった。あなたに流れる夢使いの血が、あなたの誇りにするその能力が絶えてしまうのが辛い。昔ならお妾さんをつくってそれですんだかもしれない。でもあたしには出来ない。
うつむけた頬に涙の雫がひかっていた。
そんなことで、
まさかそんなことで別れを切り出されたのだとは思ってもみなかった。それこそ魘を頭上に落とされたような衝撃に腰が抜けそうになった。ついで危うく怒鳴りかけたが辛うじて踏みとどまった。
おれと弟子の関係をおまえが一番に理解しないでどうする。
さすがに顔をあげた。涙をぬぐってやりたかったが我慢した。
己と弟子のあいだに血の繋がりはない。得手不得手も違う。だが己たち夢使いは師匠と弟子という一対一の関係でこの視界の始まりからずっと視界を廻らしてきた。それが「継ぐ」ということだ。絶えてなどいない。決して。
清らかなひかりを取り戻した両目に深く頷いて微笑みかけた。ごめんなさいと泣きじゃくる妻に己が悪かったとくりかえして夜が明けた。ひさかたぶりに抱き合ったまま目が覚めるかとおもっていた己は甘かった。
悪いけど起きて。仕事なの、空港までお願いします。荷物はもう積んであるから。
髪をあげスーツを身にまとったあいつに揺り起こされた。送迎は慣れたものだ。すぐに車を用意した。その時点でも気づかなかった。
あいつの企みに。
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