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第三部『夢の花綵(はなづな)』「視界樹の枝先を揺らす」10

 いま海外のホテルの一室でこれをかいている。実をいえば毎晩少しずつ書き溜めてきた。あの日いつもの倍の荷物をみた瞬間、嫌な予感に血の気が引いた。あいつは何食わぬ顔で搭乗チケットとパスポートをさしだした。高いところは死んでも嫌だと言っておいたはずだと囁いたが無駄だった。あたしのために命くらい賭けてよと微笑まれた。そうまでせがまれて昨夜あれだけ睦み合ったあとに尻尾を巻いて逃げ出せるはずもない。  はじめて海外公演を観た。海を背にした野外劇場に直線裁ちの装束と回転する鏡をつかった装置が性を逆転させたこむずかしい現代劇に不思議なほど合っていた。そう褒めたつもりがあいつは眉を寄せて「あれは古典劇の換骨奪胎なのよ、そのギャップが売りなのに!」と嘆いてみせた。己は高笑いでその肩を抱き、劇場に骨を埋めることを望んだ古代人の墓を眺めた。  脚本家兼演出の座長にも会った。己の半分の年になるかどうかの若い男はいわくありげに己を睨んだが気にもしなかった。あいつと一悶着あったのだろうがそれがどうしたとふんぞりかえった。  だがあの子は違う。  あいつと離れて泣いただろう。どれほど恋しく慕わしかったことか。どれほど欲していたか己にはわかる。否、己だけがわかると言っていい。今後もしや夢使いとして生まれた自身を呪うこともありえよう。戀(こい)という字の意味すら知らないであろう子どもが、それでも「相手」を想って手離した。雁字搦めの苦痛と陶酔をみずから解き、その源であるあいつを送り出した。あの子に会わなければ、あいつはあの男のところに行くほど思い詰めたことだろう。  こう記してその自尊心を挫くことはあるまい。我々は夢使いだ。ひとり嘆き悲しむものを慰藉するために我らがいる。その気持ちを知らずしてなれるものではない。  弟子に詳しいことは話さなかった。自身どう伝えるべきか悩んだ。ただその才質の豊かさと心映えを褒めた。すると電話口で、わたしの弟子ですからと言ってのけた。そういうお前をこの己が育てたんだと叱るつもりが先を越された。  わたしの師匠は貴方です。  随分と云うようになったと苦笑した。弟子の横でその恋人もまた微苦笑をうかべているのが見えるようだった。  記録は語る。  あの男の葬儀には大勢の人間がおしかけた。その一方あまり芳しくない噂も幾つかあった。あの男らしいとわらったが墓に花が絶えないといった記述には柄にもなく涙ぐみそうになって慌てた。  ここに、北の海を背景に建つ邸宅の写真がある。波音に身を委ねながらあの男が何をおもって生きたのか考えた。師である祖父については口にしたが両親のはなしをしなかった。それは己も同じで、記録には痛ましい過去があった。親族とも取り巻きとも切れたが歌の師匠とはその後も交流が続いていた。素人の己からみても十二分に技巧的で、あの涼しい貌に似合わぬ情熱的な歌詠みだった。  誰に詠んだのかはわかっている。  夢だ。香音への恋の歌だった。  隣の部屋へはいると妻は己の帽子をかぶって鏡の前にいた。鏡越しに今年こういうの流行ってるのよねと口にした。大きすぎたがよく似合っていた。貸してやるよというと照れ笑いしてうなずいた。  イベントの主催者が明日ご自宅に招待してくれるそうよと黒髪を揺らして振り返った妻の手を握る。己はこれからその帽子をかぶっていた男の話をしようとおもう。桜並木での出逢いから、木漏れ日のした白い手を高く掲げて立ち去った背の悠然を。その長い髪をさらった一陣の凉風を。  願わくば己の声が、語りが、視界樹の枝先を揺らすことのあるように。  この視界の主、夢秤王に祈る。  ああ、ひとつ忘れていた。  あいつは満面の笑顔で帰りは客船ツアーを用意してくれた。新しく弟子をとることを条件に。  己はきっと視界一の伴侶を見つけたのだろう。そういうことにしてくれ。                  了

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