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第三部『夢の花綵(はなづな)』「その夢、咲き初めしころ」喪服

 制服をきてくるべきだった。あたしは一瞬だけ後悔した。みな制服をきていた。高校のクラスメイト、そしてクラス委員同士、そのご両親の葬儀でのこと。  あたしは本来ならまとめ役をしないとならない立場だったけどその日はお稽古の発表会があった。それで仕方なく従兄に車で送ってもらい母のいうとおり喪服をきてお通夜にでた。  ひとの視線には慣れている。あたしはこの土地の全域をおさめていた一族の末裔だ。家屋は文化財に指定され近くの社は我が家の先祖が奉献し裏山にある山城もかつて豪族であった証のひとつだ。今でさえ父は議員をしているし、あたしの名前を知らなくともあたしの名字はみな、知っている。  けれど彼はあたしを見なかった。一揖(いちゆう)してそれきり。  無理もない。  あたしは、あたしだけは、彼の秘密を知っていた。  事故のあった日、年上の美女と逢引きしていたことを。それと同じく、あたしも年上の男とホテル街にいたのだけれど。それはまた別のはなし。あたしと彼ではその「経験」も違う意味をもつ。そういう理屈は察していた。彼は「夢使い」になるのだから。一人前になるには性体験が必須なことを昔きいた。  いま彼の傍らにはその師匠がいた。長い黒髪と黒紋付。まるで鴉のようなひと……。  こちらの視線に気づいて会釈する。あたしも軽く頭をさげる。式場すべてに目配りがきいていて、なんだか少し空恐ろしい。  七つの夢見式でお世話になって以来、特にその後も仕事の依頼をしたわけではなかった。本当は頼みたかったのだけど、母がああいう古めかしい儀式のようなものを嫌った。伝統や因襲を守るのが好きなくせに呪(まじな)いじみたものだと忌避した。あたしはそういう母に逆らわなかった。  あのひとには初仕事だと後で聞いた。それが随分と素晴らしいものであったとか。あたしは酷い風邪をひいていたのが翌日には治ったことしか憶えていない。それから、あのひとの背中の印象と。それに心魅かれたことは秘密にした。言う相手もいなかった。  彼には、ああいう物馴れた師匠がいるのだからこの先のことはなにも心配しなくていい。  ひとのことより自分のことだ。  あたしはあたしで面倒事を抱えていた。付き合っている男が高校生のあたしと結婚したいと言い出してうんざりした。先日も帰したくないと拘束されて蒼褪めたばかりだ。  友人のご両親が亡くなったというのに、あたしは自分のことばかり考えていた。そんなじぶんがいちばんにいやらしかった。  どうせもう清くはなれない。みなと同じ制服をきて畏まって座ってもいられない。  ならば闇をまとうのも一興か。  あたしは顔をあげて写真を見た。  うちの子といっしょにクラス委員なんですってね、どうぞよろしくね、といった彼の母親の顔を。学校の先生だといっていた。いかにもそれらしく生真面目なふうで、顔に化粧気はなく服も流行のものではなかったけれど、とても清潔な感じがした。そのせいなのか、夢使いになる息子を扱い兼ねていたのがあたしにすら見てとれた。それだけでなく、こういう子が彼女だったらよかったのに、という無遠慮な想いが後ろに透けて見えたのを彼の視線に遮られた。母親は慌てたように言葉をとめて部屋を出た。あたしではなく、彼が羞恥と怒りに赤面していた。あたしは礼儀正しくそれを見ないふりをした。彼に好かれたいがために。  けれどあたしは羨ましかった。ぎこちないながら意思の疎通がそこにちゃんとあることに。思いやりと呼ぶにはいささか曖昧なそれが交わされている事実にうっすらとした嫉妬を抱いた。引き比べて、うちの母は家にきた彼に値踏みするような視線を投げてきた。あたしはそれを止めることすらできなかった。  それに、彼の枷になっているものが何か、彼がいちばんに気づいていなかった。あたしの苛立ちはそこにある。でも、気づいているひとはいる。  そのすぐ隣に。  あたしには、そういうひとがいない。  誰も、いない。  そんなことを思いながら踵のある靴に足をいれた。みなと同じ形の靴も履かず同じバスにも乗らず、喪服をきて独り、そこを後にした。  弱い雨が降りだしていた。  了

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