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第三部『夢の花綵(はなづな)』「その夢、咲き初めしころ」若い男

 秋晴れの連休の日、せっかく大学生活を満喫してたのに母が帰って来いとうるさいから地元に戻ってきた。なんのことはない。お茶会の手伝いをさせられただけ。地元の人気取りに使われた。ご機嫌伺いにどうせこのあとあたしの好きな店が予約されてるし何か買ってくれるにちがいない。それは構わない。けど、いちど好きだといったら父はそこばかり。美味しいけど、今日みたいな日は気の張る店で食事より、家でゆっくりしたいのに。でもお店に悪くて断れない。母は母でじぶんの好き勝手に取り巻きと出かけて今夜は帰ってこないだろう。そしたらやっぱり父がかわいそうに思える。  化粧室にたつ。帯をチェックしようと鏡をみると、やたら顔色が悪かった。パウダールームへ向かうと先客にやけに後姿の綺麗な女性がいた。はっきりと顔はみえないけどきっと美人だ。こういうひとが美しくないはずがない。全体に色味をおさえた拵えではあるけれど裾模様の秋草の刺繍が凝っている。帯もいい。それより何よりうなじが白く目に痛いほどで、ひとめで素人さんではないとわかる。 あたしは綺麗なひとが好きだ。同じお席になれなかったのが悔やまれる。 「あら、お嬢さん。おひさしぶりです」  後ろからとはいえあまりにも見つめすぎてしまったらしい。おひさしぶりと挨拶されてしまったのに、あたしには覚えがない。それでももちろん、お久しぶりですと返す。そして今日はほんとうにいいお天気に恵まれてとありきたりの言葉を続ける。こまったな。あたしはこのへんで名前と顔を知られている。家でお付き合いのあるひとは忘れないようこころがけているんだけど駄目だ。年のころ三十くらいかしら。小柄で丸顔のちょっと目のつりあがった美人。こんなひとを見忘れることなんてないようにおもうけど……たぶん、あたしが思い出せないことを見抜かれた。 「もう一年以上前になりますか。お葬式のとき以来ですものね。彼、高校をやめたのでしょう?」  驚いた顔をしないでいられたかわからない。彼っていうのは夢使いの彼だ。おもいだした。あの日、つまり彼のご両親が事故で亡くなった日、このひとと一緒にホテルへ入っていく彼をみたのだ。あのときは髪をおろした洋装だった。傘の内で、それでも彼より年上の綺麗なひとだとわかった。お葬式にも来てたんだ。気づかなかった。  まあ、このひとなら気づかれないように振る舞えるだろうなとおもった。そして、わざわざこんなことを聞いてくるってことは、もう「切れて」いるのかもしれないと感じた。 「ええ、師匠のお宅で修行に励むそうです」 「いまどき、えらいわよねえ」 「そうですね」  頷きながら考えた。その件であたしたちの仲は決定的に壊れてしまった。思い出すだけで心臓がぎゅっと掴まれるような気がする。どうしようもなく後悔していた。すると、 「気になさらなくていいんじゃないんですか」  ふと、まっすぐに見つめられていた。  どう反応していいか戸惑った。先ほどまでの愛想のいい笑顔が消え失せていた。 「わたしも気にしません。あのひとたちとはもう、そういう関係じゃないんですもの」  それは、とても「正しい判断」に思えた。  引き摺ることのない、ぐずぐずしないひとの美しさに感じられた。  でも……あたしには、それが出来ない。 「ええ、そうなんですけど……」  甘えたものいいをしそうになって慌てて口をつぐむと、目の前のひとが艶やかに微笑んだ。 「あちらはもう忘れてるわ」  頬に血がのぼった。たしかにそうだ。気にかけているのは相手の気持ちではなく、じぶんの不始末、もっというと相手に酷いことをしたのに許してほしい手前勝手な期待だった。  そのひとはあたしの羞恥を嗅ぎとって、上品なそぶりで目を反らした。あたしはあたしで、ほぼ初対面のひとにこんなに無防備になってしまった自分をさらに羞じてうなだれた。いたたまれなくて顔をあげられなかった。 「……お嬢さんに勘違いさせちゃったみたいですね、わたしが捨てられた愚痴をきいて欲しかったのよ。あのひとたちは今、お互いしか眼中にないの」  おそるおそる彼女をみた。 「ご存じでしょ? わたしが師匠に入れ揚げてたこと。こないだとうとうはっきりさせました。弟子のためにはわたしがいたら邪魔だって。わたしと結婚はしないって。ほんとうに酷い男よね」  なにも、いえなかった。  ただ、この綺麗なひとが彼でなく師匠のほうを好きだったのだということはようやく理解できた。その顔をただ呆然と眺めていると、 「でも、酷い男だから好きになったのかもしれないわね……」  そうぽつりと囁いた。  なんとなく、なんとなくだけどわかるような気もした。いいひとじゃ飽き足らない。そういうのはわからないではない。あたしも、じぶんを好きだという同級生たちには惹かれなかった。たぶんなんとなく、それは察しあった。  ふと、彼女の紅を引いた唇が美しく弧を描く。 「若い男に乗り換えてって言ってやればよかったわ!」   ね、と同意を求められたのであたしは素直にうなずいた。すると彼女は晴れやかな声で、来月結婚します、わたしはこの街を離れますがうちの旅館をどうぞよろしくお願いします、お茶会にもお使いくださいと名刺をさしだしてきた。あっぱれな営業術に感服し丁寧に受けとった。お互いに笑顔だった。  その凛とした後姿を見送って吐息をついた。  若い男、ね。  自罰的に高校をやめて厳しい修行へ入ってしまった彼、そんなふうに思っていた。それもあたしの思い上がり、彼に疎まれた傲慢のひとつかもしれない。  彼は視界でいちばん尊敬できるひとのところにいったのだ。そこで一緒に暮らしている。女蕩しの師匠があんな綺麗なひとを遠ざけるくらい夢中になって向き合ってるなんて、それはとても凄いことのような気がした。  あたしが彼にしたことは思いやりのない行為だったのかもしれないけれど、でも、それとはべつに、彼はかれの人生を歩いてて、しかも着実で確かな「道」を選んでいる。そう感じた。  自分が彼の人生をゆがめたかもしれない、なんておもうのは、ただ彼にとって自分が価値のある人間だと思いたいだけの卑しさだ。みっともない。でも、そもそもみっともないのが恋なのかもしれない。  それにしても。  なんだ、けっきょくあたしがちっとも進歩してないのか。  親の言いなりに地元に帰ってきて手伝いをさせられてる場合じゃない。  そうは思ったけれど、今日のところはそれでいいやと考えた。ここに来なければ、いまのはなしは聞けなかった。  物事にはいいことも悪いことも両方ある。禍福はあざなえる縄のごとし。人間万事塞翁が馬。  そのくらいの気持ちで、今日のところは楽にいく。父とお店にいったあと、友だちと飲みに行こう。    あの綺麗なひとを見習ってきちんと紅を刷く。  鏡に映ったあたしは、さきほどよりはずっと明るい顔をしていた。  了

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