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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」3

 依頼人はわたしの顔を見てすぐに笑顔になった。顔色は悪くない。ベッドの横にいたのはご家族ではなく、ご友人のようだった。お邪魔になっては悪いとかんたんな挨拶だけさしあげて後程また参りますと一礼した。  病院を出てどこに行っていいものかもわからず、自分はこの街のことなど何も知らずに来たのだと思い知る。いや、そもそものところ、名前しか知らなかった場所にいるのだと。 バス停の時刻表を眺めてみるが行く宛てもない。名所旧跡を巡る気分でもなかった。とりあえずホテルへと向かうことにした。  鴎が頭上をいく。冬空は高く、どこまでも澄んでいる。遠くの山並みをひとわたり仰ぎみて、海が近くだったと思い出す。  せっかくだ。歩くか。  マフラーを首に巻きなおしタクシーを呼ぶ手間を惜しんで歩き出す。  思い起こしてみれば、師匠はよく遠くまで仕事をしに出かけていた。依頼人に呼び出されると都合さえ合えば断らなかった。地元で仕事はいくらでもあるのに、わざわざ違う土地で香音をならし、そこに住む夢使いの賞賛を一身に浴びるいっぽうでたいそう煙たがられたりもした。わたしは詳しく知らないが、若いころはそれで危ない目にあったという噂も聞いた。何故そんなことをしたのか師匠に尋ねたことはなかった。じぶんのことをあまり話さないひとだった。  そういえば、師匠はこんなふうに陽気のいい日に紫煙を燻らせながら縁側に座り、ひとびとの午睡にむかっておりてくる薄い香音を指先で弾くようにして町のあちこちへ落としていた。わたしには触れられないくらい頼りないそれは師匠の指にはなんでもないように容易く掴まって、ときに幽玄に、ときに優しく、かぼそい雨のようにささやかな響きをふりまいた。  わたしはあれに憧れた。  幾重にも薄いヴェールを重ねたかのように町全体が香音の揺曳に抱かれてそこにある。それはわれわれ夢使いにしか視ることのできない、聞くことのできない、夢秤王の祝福に満ち溢れた姿だった。  師匠の一族はあの土地に長く暮らし、その妙なる力をもってよく晏をおろし《誓(ちかい)》を守護してきた。一般にわれわれ夢使いの云う《誓》とは視界樹が音をおろす場所そのものをさす。流浪の夢使いは必ずその家に立ち寄ったものだ。そして一族に賞賛の念を惜しまなかった。  あの地はとても豊かだった。むろんそこは豊かな米処であり肥沃な地ではあった。そしてまた土地の豪族であった委員長の一族、彼女の先祖の治世によるものであったかもしれないが、わたしはそれだけのことと思わない。  《滋養》、それの多寡は人心に関与する。少なくとも夢使いであるわたしはそう教わってきた。晏であれ魘であれ、それがよく齎される土地は総じて夢秤王の恩寵を受けて豊かなものになると。  この土地は……痩せている。  シャッターのおりたままの商店街をさすのではない。香音の残滓がほとんど聞こえないのだ。おそらくこの街に専業の夢使いは住んでいまい。だからこそ依頼人はわたしにあがないを任せたのだ。それが、肌身で知れた。  今後こういう土地がますます増えるのだろう。わたしも都会へ出た。それが師匠と叔父の深謀遠慮ゆえであろうとも、結果的にひとの多い土地へと移り住んだのだ。  夢見式の風習は田舎にこそ残るという予測もあったようだが現実そう決めつけられるものではない。彼が、そんな話をしてくれたこともあったはずだ。歴史の古い街だというのに残念なはなしだ。  観光など眼中になかったはずが歩き出すと欲が出た。たしかこの方向に史跡があったかと横断歩道で立ち止まって頭を廻らした。すると、買い物用の手押し車を押した老婦人がわたしの長髪が珍しいのか一瞥をくれた。会釈でこたえると足をとめて掠れ声が返る。 「海岸はあちらですよ」 「あ……どうも恐れ入ります」 「そこを進むと古い町並みをご覧になりながら海まで行けます」 「ご親切にすみません。歴史のある街ですからね」  わたしはそう言ったが、そのひとはこちらの目をじっと見て問うた。 「お見舞いですか」  それには頷くだけにとどめた。たぶん、このひとはわたしと同じようなひとたちをずっと見てきたのだろう。それが互いにわかった。  信号が青に変わる。  わたしは頭をさげて道の向こう側へと渡った。背中に視線を感じて顧みると片手を掲げて手をふっていた。同じように手を振りあげるとしっかりと首をたれた姿を見せられた。見知らぬ年長者の返礼に面映ゆいような気持ちで慌てて同じようにすると、今度は早く行きなさいというように破顔して手を海へのほうへと押しやった。  わたしは足取り軽く海へと向かう。

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