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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」4
丸い湾の遠くに釣船が行き来している。潮のにおいが淡い。波のない、とても穏やかな海だった。
砂浜に腰をおろして端末をとりだす。無事ついたと連絡を入れていなかった。彼は仕事だろうが列車の到着時刻は知らせてある。メールの着信履歴をひらくとご当地美味いもの尽くしで埋められていた。その手のことを何も下調べしていないとお見通しらしい。いや、たんなる土産の催促かもしれないと思い直し、依頼人は想像よりずっと元気そうだったことを知らせた最後にどれが目当てか、本当に美味いのか問うて端末をしまう。
その途端、着信音が高らかに耳を聾した。
なにか緊急の知らせでもあるかと見てみれば「あなた」とだけ書いてある。俺はがっくりと肩を落として後、派手な紅いマフラーに頤をうずめながら声をあげて笑った。
追伸は長かった。
読まないのも流儀だと思うと但し書きがついたうえで、依頼人の病気についての知識と一緒にその詳細な来歴が添付してあった。俺が依頼人の肩書を「忘れるようにしている」ことを彼は知っている。しかも前もってこれを用意して今のタイミングですいと差し出してくる。彼らしいとしか言いようがない。
以前は俺の夢使いとしての仕事に触れないようにしてきた。こちらが触れさせないできた、と言ってもいいのかもしれない。否、そう述べたほうが正しいのか。
わたしは……――
水平線を眺めてから旋回する海鳥を羨ましがるように仰向いた。
「死に損なったからな」
呟きは波音にかき消された。
俺の指は「ありがとう。よく考えてから読むかどうか決める」と綴った。
視線をあげると、鳥は海面に突進し小魚をまんまと口にしたようだった。翼のはためきを感じるほど近くを通りすぎていった鴎の行方を追うこともせず立ち上がる。
依頼人に会わなければ。
部屋に入っても依頼人はベッドに伏したままだった。深く皺の刻まれた顔をのぞきこむ。はじめて会ったときこのひとは幾つだったのだろう。あのときは御年だとは感じなかった。こちらもそれなりに年を取ったのだと思いをあらためる。あれから十二年。弟子が来年二十歳になるのだからそれで合っている。
じぶんの年はどうでもいいが、弟子のそれは忘れない。毎年ちゃんとお祝いをするのと、学校に通っているからだ。無事に父親と同じ大学にはいった。つまり彼の後輩になったわけだ。
窓際に備えつけられた簡易ベッドに腰をおろし添付された文書を読むことにした。病気の件はじぶんでも少しばかり調べてきた。依頼人からもはなしを聞いている。来歴は名刺を頂戴しているのだから知らないではすまされないのかもしれないが、社会的に身分が高い依頼人ほどそれに触れないほうが喜ばれることもある。そうした勘所については師匠がそれとなく示してくれた。仕事始めのころ、地元で独り暮らしをしながら師匠の上客に育ててもらった。夢使いはその〈技巧〉を習得すれば一人前になれるものではない。依頼人との関係においてはじめて「夢使い」足り得るのだ。
わたしはそれをいつの間にか忘れていた。
それゆえに危うく死にそうな目に遇った。今は、それがわかる。
死ぬのは別に構わない。そう思う瞬間もあった。だが、「夢使い」としての能力を失ってまで生きる恐怖には耐えられなかった。
腰を覆うほどに長かった髪がいま肩に散るほどなのは、それを斬られたからだ。潰されかけた爪は無事に回復し、支障はない。
恢復はゆるやかではあったが、わたしは無事に「夢使い」として生還した。彼のおかげで。
凌辱に耐え忍ぶわたしの胸中をよぎったのは、ここでわたしが死んだら彼はどうなるだろうという想像でもあった。まさか後追いするとは考えなかったが、どう想像してみても好い方向に転ぶとは思えなかった。彼はかれで素晴らしい未来へ踏み出す可能性をちらつかされながら、それはわたしが「生きていて」のはなしでしかないと感じた。
わたしはそのときに至って初めて、本当にはじめて、彼がわたしに会うまでどのような気持ちで生きてきたのか、ようやくおぼろげに理解したように思った。
依頼人が目をあけた。身体を起こすのを手助けし、近くの椅子に座り直す。
「君は、元気そうだな」
近況を報告するわたしを見る目が細くなる。このひとには、「事件」のあらましは伝えてある。その後一年ほど休業した。身体的にはそこまで差し支えるほどではなかったが歩くのにしばらく難儀した。何よりも依頼人と信頼関係を築く自信がなかった。けれど今はもう足を引きずることもないしご新規も受け付けるようになった。
今現在、わたしの依頼人の「履歴」は彼がすべて把握している。その件についてはずいぶんと話し合いをもった。最終的にはわたしが折れた。彼が、わたしの傷に触れないようどれほど気を遣って言葉を選んでいるのか、その背後にあるものが途方もなくやさしく、そして痛ましいほどの後悔に裏打ちされているのが理解できた。その息苦しさに、ほとんど敗北するかのように受け入れた。
そのはなしを委員長にしたとき、「配偶者だもの、当り前よ」と呟いた。
わたしは、そんな当たり前のことを何年もずっと頑なに固辞してきたのかと愕いた。彼女はちいさく肩をすくめ、変なところで強情を張るものね、と続けた。それから、彼も大変ねと吐息をついて物憂げに髪を肩へはらった。師匠は新しく弟子をとって以降、海外に出るようになった。紛争地帯へ、夢使いとその素養のある子どもたちを支援するために。
「君の可愛いお弟子さんは元気かい」
「元気もなにも、あちこち跳ね回ってます。来月はボランティアだとかでまた海外らしいです」
末頼もしいことじゃないか、と依頼人がわらうのに首肯した。彼女の未来の明るいことが、わたしと彼の楽しみと慰めになっていた。
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