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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」5
あなたはもうホテルだろうか。シャワーを浴びてすぐ端末に手を伸ばす。ひとりだと風呂に入らない。食事も適当になる。なにもかもが味気ない。そして、不安だ。
海外研修中に文字通りの意味であなたを失いそうになった。
始まりも不穏だった。ひと月という約束だったため相談もなくOKした。はなしを切り出してすぐ、あなたは眉をひそめた。それまでおれの仕事に何一つ文句をつけないひとだった。きゅうに出張しようが何日も家をあけようが不機嫌になったことはない。さびしいくらいだった。だがそのときは、海外のせいなのか一言あってもいいのに、という顔をした。いま思えば、当時から気がかりがあったのだ。でもあなたはそれを言わなかった。
互いの仕事の邪魔はしない。なにも詮索しない。そういう不文律があった。あなたは顧客の個人情報をおれに漏らしてしまった失敗を強く悔いていた。そしてまた、おれはおれで事の始めに同じくやらかしていた。その失策は後々までおれたちを縛りつけた。
今ならわかる。けれどあのころはふたりとも理解できていなかった。
あなたはおれのいる大学の学生に拉致された。研究センターで将来を嘱望されていた優秀な男だった。つまり、あちらからはこちらの情報はすべて筒抜けだったのだ。
端末を虚しくいじる。まだ少し早い。電話をかけては迷惑になる。
家を探していたとき、あなたはなるたけ治安のいいところをと希望した。夢使いはろくな死に方をしないからと真顔で言ってすぐ、ことに魘使いは、となんでもないように付け足した。おれが背筋を凍らせたのにあなたはそのまま続けた。覚悟はできていると。決然とした瞳でおれを見た。
事件の後、思っていた以上にじぶんは弱かったとあなたはわらった。覚悟も何もなかったと呟いた。それからおれの肩に額をつけて、本当にすまないと口にした。シャツの胸が濡れるのを感じながら、すっかり髪が短くなってしまったあなたの頭を掻き抱いた……いまだ癒えない傷に触れないよう気をつけて。
おれも、
あなたも、
互いの抱える闇の深さを知らなかった。
端末で古文書をひらく。秘蔵されてきたものがこうして状態を気にすることなく危なげなく閲覧できる。便利な世の中になったと思う一方で、どうしようもない焦燥を抱くこともある。
あなたは、警察には届けないと言い張った。わたしの依頼人を犯罪者にする気はないと。
「わたしの依頼人」
おれは、
おれはいったい何を見てきたのだろう。
あなたの何を……。
古くは依頼人を「あがない主」と呼び、夢使いの仕事そのものを「あがない」とした。
一般に「供犠」には祭司と捧げられるもの、主体と客体の関係があるはずだが、夢使いたちはそれを一様に否定する。おれが海外研修に臨んだのはその件もあった。
あなたは言う。夢使いは祭司でも供犠でもなく「立ち合い人」、または「媒介者」だと。でなければ単なる「機能」と言い切ったのち、精確にいえば「共犯者」だと呟いた。
たしかにそれは「犯す」ことに似ていなくもない。
夢秤王、視界王と名乗る視界樹の主に「あがない」を捧げるのは人間だ。その「あがない」は視界王(視界樹)が自らの一部を香音として《誓》におろす行為と対になる。この上下運動を滞りなく廻らすのが「夢使い」だという。
ひとと視界樹が互いに互いを《滋養》と《香音》として受け取り合う「あがない」という行為の仲立ちとなるのが夢使いの本義だというのなら、実はそれこそが供犠であり祭司であること、つまり「あがない」そのものに他ならないのだろうか。
端末から閲覧できる古文書は、おれの初恋のひとの生まれた家のものだった。そして海外研修におれを誘ったのは、あのひとの姪にあたる人物だった。
彼女と寝たのか、とあなたは問うた。
あなたが「依頼人」に監禁され暴行を受けていたとき、おれはじぶんが結婚できるのかどうか考えていた。
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