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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」11
俺はきっと半日以上は眠ったはずだ。文字通り四肢がばらばらになるほど全身が痛かったはずが、だいぶ調子が戻っていた。さすがに起き上がると尻や腰に痛みが走るだけでなく股関節に亀裂が入るように軋んだが、出歩けないほどではない。
彼が仕事に行っているうちに出かけなければ。
昨日の彼は俺の看病にあけくれた。それでも謝らなかった。謝らないと俺の目を見て口にした。当然ながら、あの男が彼に何を言ったのか漏らすこともなかった。
俺はといえば、のしかかられてありとあらゆることを言わされた。掴まれた頤に指の食い入る感触が残っていた。その間ずっと下肢は繋がっていた。
血走った目がまばたきもせず俺の顔を凝視した。俺を見ているはずが、俺を見ていないと感じた。そのことをどう伝えたらいいかわからなかった。どうしようもなく苦しかった。肉体を責められたことを恨んでいるのではない。俺が長いあいだ彼を苦しめ続けていたと気がついた。
仕事中は連絡をするなと断っておいて、朝は抱かれたがった。そういう自分の都合のよさを謝罪したときも、彼は俺をやさしく抱きしめて、あなたは夢使いだからと微笑んだ。おれはとても幸福だった。恐ろしいほどに愚かだったのだ。
ため息が出た。胸が痛い。喉が痛い。どこもかしこも痛い。だが、そのなにもかもが俺のせいだ。
そう、俺たちふたりのわだかまりはまだあった。夢見式の件だ。
俺は研究センターの企画展示が夢見式に偏るのを嫌った。彼の研究のひとつが夢見式であるのも正直にいうと喜べなかった。俺は彼と暮らしはじめて以降は成人の依頼しか受けなかった。もともと子ども相手は苦手だったのもある。けれどそれだけが理由ではない。
俺は、彼の初恋の相手を忘れなかった。
彼に夢見式を施した男、俺と同じ魘使いを。
かるい眩暈に襲われながらのろのろと服を着た。身繕いを調えて鏡をみると、我ながら幽鬼のような顔をしていた。
ケーキの箱がそのままゴミ入れに投げ込まれ、拾い忘れたのか、シェルフの影に檸檬がひとつ落ちていた。俺はそれをつかみあげて鼻先にあてた。あの男はこんな匂いをまとっていた。
事務所にすんなり通されるとは思っていなかった。マンションを出てすぐ見知った顔につけられていたのは気づいていたが、銀行から出たところを車に押し込まれた。金を奪われて埋められる可能性もあると考えた。だがもう、抵抗できるだけの体力もなかった。
案に相違して、俺は男の前に連れて行かれた。ホテルでも事務所でもなく、マンションだった。だが男の家でもない。それはわかった。若い男がさがってすぐ、切り出した。
「あなたのことを同居人に話しました。わたしの契約違反です。違約金としてこれをお返しします」
「こちらの違反は問わないつもりか」
「わたしの違反のほうが罪が重い。あなたが組合に訴えればわたしは夢使いをやめないとならない」
「やめればいい。〈外れ〉て」
「〈外れ〉にはなりません」
俺は男の顔をまっすぐに見た。
「わたしには弟子もいます。まだ一人前にしていない。その祖父であるわたしの叔父はあの会の発起人です」
「そして、あんたの叔母は〈外れ〉だった」
俺はそれをこの男の口から聞くと知っていた。予感があった。
「あの女(ひと)は、殺されたんじゃないのか」
「不明です。恐らくは自殺でしょう」
「子供にも恵まれ、裕福な政治家の妻におさまりながら」
「叔母は精神的に不安定なひとでした」
「知ってるよ。何度か寝た。いい女だった」
驚きはなかった。男はそこで煙草に火をつけた。
「腕のいい魘使いがいると聞けば遠くからでも呼び寄せた。この三十年、名の知れた使い手はあらかた試した。その中で、ムラ気はあったがあの女の香音は絶品だった。あんたの次だ」
ひとみが合った。男がなにか口にするかとおもったが、煙を吐いて苦笑しただけだった。首を傾げると頭をゆるく振ってもらした。
「酷いやつれようだな」
「おかげさまで」
俺もわらった。男が気遣うような面持ちで口を開きかけたので続けた。
「いえ、わたしの自業自得です」
心の底からそうおもっていた。
男はのぞきこむように俺の目を見つめた。
「今のあんたのほうが魘使いらしい。ここにいれば、こないだみたいに変な輩に襲われる心配もない。あとのことは任せろ。ここに住め」
「あの青年の監視つきで?」
「不満はそれだけか」
「叔母のように身投げしたくありません」
「何故そんなことを言う」
「あなたが好きだと白状すればわかってもらえますか」
男は息をとめた。
「あなたが好きだと言わされました。俺はそれだけは彼に言ってはいけなかった。もう駄目です。その役目はあなたがするはずだった。俺は赦されてしまった。だからもう、あなたといる意味はない」
俺はそこで立ち上がった。
男は座ったままだった。そして煙草を揉み消して呟いた。
「あれは頭のいい男だな」
頷くだけで十分だった。辞去の挨拶をしようとしたところへ、
「その金は持っていけ」
「そういうわけには」
「だったらやらせろ」
男は俺の顔を見ていなかった。
「……困りましたね」
「何が」
「今日の俺は、あなたを愉しませることができる自信がない」
そう言って、いつも俺を見おろしていた男の顔を眺めた。その特徴的な痣のある顔を。
「かといって、もうあなたに逢うつもりもない」
男は黙って俺を見あげた。そして、ゆっくりと腰をあげた。俺はその途中で男の頭を抱いて、そこにある痣に唇を押しつけた。
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