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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」12

 雪が舞っていた。  俺は金の入ったバッグを抱えて公園のベンチに腰をおろしていた。端末は家においてきた。書き置きも残していない。このまま俺が消えたら彼はどうするだろうと考えた。  いや、俺はもう何処へも行けない。  あの男と寝た。  数日前は泣いて拒み通したというのに、自分から誘った。好くしてやると囁かれ、俺はそのとおり狂ったように悦んだ。  相手が彼でなくとも、俺は楽しめるのだと知った。  信じられなかった。いや、あのときもソファに押し伏せられて本当に嫌ではなかったのだ。厭ではなかったどころか俺は感じていた。だから、これ以上したらもう二度と会わないと叫んだのだ。  俺は、いったい何をしたのだろう。  何を、仕出かしたのだろう。  わからない。  わかるのはただ、あの男は俺のことだけは他人の手をつかって調べなかったという事実と、俺の行く道の先には俺より優れた夢使いがいる、という虚しさだけだった。  俺よりひとつうえの二十一で夢使いになり、北の地へと飛ばされた男、  彼の初めての相手、  そして、あの男を魘使いへと傾倒させた……―― 「あの、大丈夫ですか。雪、だいぶ降ってきましたよ」  顔をあげると目の前に傘をさした痩せた若者が立っていた。一瞥すると、頬を紅潮させた。 「あ、その、余計なことかもしれませんが……さっきからずっといらっしゃるから」  構わないでくれと目で示すつもりが傘を差しだしてきた。いらないと首をふった瞬間、傘をほうりだして咳をした。気管支に難があるとわかる酷い咳の仕方だった。俺は立ち上がってその背をさすってやった。すみません、さっき病院に行ってきて、そのときもあなたがそこにいたのでと言われた。 「ならば早く帰って休むといい」 「あなたが帰るのを見届けたら帰ります」  そこで妙な意地をはられた。子どもっぽいものいいに聞こえたけれどそうではなかった。 「すみません、友だちが死ぬ前あなたみたいな目をしていたので」  俺は黙って傘を拾ってその手に握らせた。それからふと、なにげなくポケットに落とし込んだままだった檸檬をさしだした。  それが、その「依頼人」との出会いだった。    俺はその「依頼人」に見送られてマンションに戻った。雪のように都合よく消えるわけにはいかなかった。何故ここに戻ったのか考えることすら放棄して、自分のベッドで泥のようにひたすら眠った。彼が帰宅したことにも気づかなかった。  明け方に目をさますと、寒いのと問われた。こたえる前に彼がこちらのベッドにやってきた。そして丸まった俺の背中を抱いて冷たい足に足を絡ませた。縮こまってる、と首筋に声がかかった。いつもどおり彼の体温は俺のそれよりずっと高かった。互いの体温が交わってしばらくたつとからだがゆるやかに伸びた。彼は小さな声でそれを指摘して俺の耳に唇をよせて囁いた。教授に手を回してもらったから、もう心配ない。あなたの叔父さんの伝(つて)らしい。あなたは守られている。  何を言っているのか察しはついた。叔父はこういう事態を見越して政治家になったような人物だった。  胸の前にまわった彼の手が俺の手を握りしめた。  あなたを離さない。  俺は向き直ろうとしたけれど、彼は俺に眠るよう囁いた。いまは眠って、と。何ももう聞かない、という意味だと察した。俺は無言でその手を握り返した。それと同時に胸苦しくなるほど強く抱き締められた。  ここにいる、と俺は言った。ここにいるから、とくりかえした。彼の頷きが首筋をくすぐった。その柔らかな癖毛がうなじに触れていた。  翌朝から、俺たちは何もなかったような顔をして過ごした。  俺は仕事を減らした。主に、あがない料の高い特殊な依頼人たちを。あの日、あの男に迫られる隙をつくったのは、あやしい輩に絡まれたからだった。夢使いの〈階梯〉や〈夢秤〉が盗まれて非常な高額で売買されているのはその頃にはもうよく知られていた。むろん、それがある位置を我々夢使いは特定できる。つまり、夢使いはそのために殺されていた。  俺を狙ったのはそこまで凶悪な相手ではなかったようだが、俺を夢使いと知って道を塞いだ。安全のために移動の際は階梯も夢秤もバッグのなかに仕舞っているのに狙われた。あの男が助けに入らなければ殴られて昏倒していたかもしれない。  何かしら危険は感じていた。あの男とのことだけでなく、依頼人の〈筋〉が変わった現実の意味を考慮に入れたほうがいい。  あの男が違う島にうつったのも知った。  いきなり仕事を減らし過ぎてもおかしいと感じた。彼はいつもどおりにしているのに、俺だけ急に変わるのも妙だった。もうあれは無かったことになっているのに。  とはいえ、なにも変わらずにいるのもまた塩梅が悪かった。なので俺は昼間すこし出歩いた。そしてあの公園で「依頼人」に再会した。檸檬のお礼にとお茶に誘われた。互いに名乗り合った。祖父の本を読んでいた。俺が夢使いだとも知っていた。依頼を受けた。他愛無い、やさしい夢を。既定の額で。  身体が弱くていつも咳をしていた。彼女にふられてと相談を受けると、付き合っても自分がすぐ飽きてしまう、女はつまらないと不満をもらした。俺は笑顔ではなしをきいた。気が張らず、かといって面白くないわけでもなかった。頗る頭のいい青年だった。  貴方みたいな兄がいたらよかったのにと口にされた。ひとりっこだから兄弟のことはわからないとこたえた。僕は兄に比べられてばかりでと、そのときばかりは暗い顔をした。なんといって慰めていいかもわからなかった。  たまに、亡くなった友達の話をきいた。そして昼間に会って食事をした。映画にも出かけた。デートみたいですねと微笑まれた。俺もわらった。その間にもう新しい彼女をつくっていた。  彼が海外研修へ出て弟子もまた旅行にいってすぐ、俺は手もなく網にかけられた。そのころには「依頼人」の家で酒を飲む仲になっていたから。

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