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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」23
胃の中のものをもどしたが少しも楽にならなかった。十二年もいっしょに暮した相手と別れることが受け入れがたいだけでなく、彼が何故こんなふうに俺を辱めるのかがわからなくて苦しいのだと頭では想像できた。ちゃんとはなしをしたかった。いや、向こうには話すことなどないという理屈はわからないわけではない。
否、……俺はまだ、事態をのみこめていない。まるで頭が働かない。そこに在るものと、無いものの意味を読み取れないままでいる。
冷蔵庫には俺の好きな炊き込みご飯が冷凍されていて、食卓の上の籠にはグレープフルーツが堆くつまれていた。書斎に残された本の背を指先で撫でた。目につくのは、俺がこの家に引きこもっていた間に読んでいた彼の本だ。俺が面白いといったもの、またはそれに関連した作家の著作等が丁寧に選り分けられていた。ほとんど空になったウォークインクローゼットには、たまに俺が借りて着ていた革ジャケットがぶらさがり、それに合わせるといいと彼がすすめたシャツまで置いてあった。一事が万事そのとおりで、自分のものと看做したものすべてを単純に積み去ったわけではないのは見てとれた。
雑な仕事はしない彼らしいやり方だが、それは逆に俺がそれを見分けるとわかったうえでの行為だ。捨てていく相手にそんな礼儀正しさや思いやりは要らない。それともそれが彼のやさしさなのか、俺にはそれがわからない。今朝のことがなければ、たとえもう好きでない相手であれ長く共に暮らしたのだから、そういう繊細な心遣いで接するのが彼本来の流儀なのだろうと割り切れた。彼が今までどれほど気にかけていてくれたのかを、俺は知らないわけではないのだから。
だが……。
わからない。
わからないのは、わかりたくないからか。この、すっかり重みというものを失って隙間ばかりになってしまった家のなかにいてさえも、俺はまだ、彼と本当に別れるのだと、それがいったい何を意味するのかが理解できていない。ただその現実を拒絶するようにして吐き続けるのは、怠惰でしかないと頭の隅では勘づいている。
それでも。
彼が俺を欲しがっていた。その欲望だけは真実だと否応もなく教え込まされて、それは俺も同じだと知り尽くされて、なぜ離ればなれになるのかが、頭の悪い俺にはのみこめないでいるのだ。
彼の手に、俺の爪の残した跡があるはずだ。背後から乗りかかられ、快感をやりすごすのにフローリングを虚しく引っ掻いていた俺の手の甲に手を重ね、爪が傷むと囁いて俺を裏返して脚をひらき再び捩じこんだ。宙に浮いた手が行き所を失ってさまようと、その背へと導かれた。俺は、抱き合う形になるのが怖かった。口の端の切れたその顔を見るのも。顔を背けて逃れようとすると頭を抱えこまれて耳朶を噛まれた。背を反らした俺の腕を再び肩へとまわし、掴まって、と乞うた。爪を立てていいから、と。あなたも楽しんでるって教えて、と。
少しも楽しくなどなかった。
けれどそう口にすることもかなわなかった。けっして楽しくはないがどうしようもなく感じていた。嘘つきと罵られるのが恐ろしくて涙がでた。顔を覆った手を剥ぎとられ、汗に濡れた掌を合わせようとする相手に拒絶の声をあげたが無駄だった。もう残り何日もないんだから素直に欲しがって、と。目尻をつたう涙を舌ですくいとられていた。
背骨をおおう皮膚が擦られて痛い。床はいやだと言えなかった。以前は口にする前に抱きあげられてベッドへ向かった。でなければ笑いながら、じゃあ上に乗ってよとねだられた。
俺は……。
あたまを振った。
彼は、彼にとって一番いい道を選んだのだ。事情が事情とはいえ、三十半ばで副館長となるのは世間では間違いなく「栄転」にあたるのだろう。しかもそこは、この国の夢使いの歴史の中枢となる場所だ。
俺はそれを喜ばないとならないはずだ。別離を切り出されたからといって、相手の幸福を祝うことくらいして出来て当然だ。そんなことは、わかっている。
彼は、ほんとうに望んだ場所にいくのだ。彼の本当の想い人の生きた場所へと。
俺は、ただの身代わりだった。
知っている。
しって、いる。
だが、……想像するのが怖い。
彼がいなくて、俺は、ここで生きていけるのだろうか。
こわい。とても、怖い。
吐息が嗚咽に変わりそうで、まるい黄金の果実に爪を立てた。腹に何かおさめなければ。
夕方、送別会にでるので遅くなるというメールとともに、鍵の受け渡しに至るまでの撤収スケジュールとでもいうべきものが送られてきた。彼はかれでたんたんと仕事をこなすようにして別れの準備をしてきたのだ。俺はそれを知らず、かけらも察することも出来ずに彼に甘え、そのやさしさに溺れていただけだ。この差は果てしなく大きい。だから愛想尽かしされるのだろう。
それなのに俺は、彼がいつ、どういう理由で俺と別れようと思ったのか、そういうことを知りたいと考えた。理由はすでに示されていたのにもかかわらず、自分にもっとはっきり分かる形でと望もうとした。たぶん、やり直したい、チャンスが欲しいと口にしたくて。
愚かしい。
情けなく、どうしようもなくあさましくて恥ずかしい。みっともないどころのはなしではなく、そんなことをしようと考えるじぶんを消滅させたいくらいなのに、俺は本当にそう願っていた。
でなければ、
でなければ、せめて、せめて恋人でなくとも、友人として接してほしい。今までのように密な関係でなくとも致し方ない。ただ、もしこの街に来ることがあれば、連絡が欲しい。できたら、出来たらでいい、今すぐでなくともかまわないから、近況を互いに報告できるくらいの間柄をたもてはしないものか。これが都合のいい妄想だという弁えはある。だが、こんな濃やかな気遣いに満ちた家に残されてそう望まないでいられるものか。
まったくの他人になってしまうのが信じられない。そしてもちろん、信じられないのは俺だけで、彼はそうではない。そう計画し、着実に実行している。
俺はその通りにここに取り残される。
ひとり。
彼に逢うまで、ひとりでいたのだ。
ずっと、ひとりで。
さびしさ、というものを知らなかった。孤独はよく知っていた。けれどそこに隣り合わせにあったそれを、俺は知らなかった。知らないで、ずっと生きていた。それをそうと名付けずに、生きていられた。
彼に逢うまで。
何も手がつかない。家のなかを獣のようにうろつき歩く。ときどき発作に襲われたように声をあげて泣きたくなる。呼吸が浅く、息が苦しい。あわてて水を飲む。旅行鞄をあけることすら覚束ない。おそろしく無能な人間になりさがる。こういう俺の面倒をみるのに厭いたのだと頭ではわかる。仕事の邪魔をした。二年近く。海外研修という最高のチャンスのひとつを潰した。俺の失態のせいで。
愛されるわけがない。
俺にゆるされたただひとつの行いは、彼の新しい門出を祝い快く送り出すこと、それ以外にはない――
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