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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ」24

 遅くなるという言葉どおり零時をすぎて帰宅した。俺は起きていた。酔って帰ってきた後は苦いコーヒーを飲みたがったので好きな銘柄を買ってきた。彼はそれを補充していなかった。  お帰りと出迎えたあと栄転おめでとうと言い添えた。ついで、すぐにそれを口に出来なかった気の利かなさと手をあげたことを詫びた。彼は黙って靴を脱ぎ、コートと上着をかけた。それでも話しを聞いていないようではなかった。無視されてはいないと安堵する自分を憐れみながら、コーヒーを飲むか尋ねた。もしかすると、テーブルについて向かい合い、何かそれらしいことを話しあえるのではないかと期待した。  すると彼は、俺のほうへ大股でまっすぐに歩いてきた。無意識に、一歩退いた。 「おれの機嫌をとってどうしたいの。今朝、そんなによかった? おれ今は酔っててご期待にそえないから。それとも何、セフレにでもなりたいの?」  目を見開いて首をふると、俺の頬を乱暴につかんだ。ひとみが赤く、酒臭い息が頬に触れた。 「ああ、そうか。あたなには他の男がいるから。おれとしなくてもいいね」  声も出せず、その手を払う。ところが彼はおれの肩を掴みよせて言った。 「かわいそうだとおもってしゃぶってよ。いやなら手で扱いてくれるだけでもいいから」  手首を掴まれて押しつけられた。わけがわからなかった。いや、わけがわからないのは俺だけなのか。腰を抱き寄せる腕を引き剥がすが、今度はテーブルの角が邪魔をした。そのまま迫られて危うくのけぞりそうになった俺は彼の腕を掴んで声をあげた。 「頼むから、もうこれ以上ふざけるのはやめてくれ」 「ふざける?」  彼の声が不穏に裏返った。それから俺の頭を両手に挟みこんで顔を近づけた。 「あなたにはこんなことはただのおふざけかもしれないが、おれはあなたみたいに引く手あまたな夢使いと違って、すぐにも相手を見つけられないんですよ」 「そんなはず」  ない、という言葉は相手の口のなかへと消えたが、俺は仰のいて唇から逃れた。 「おれは男としか寝られないし、違う土地へうつる。しかもお堅い職業だ」  俺は彼の言葉に何かを嗅ぎとったが無視して忘れようとした。けれど彼は俺の顔色をしっかりと読んだ。 「あの男以外にも、あなたと寝たいと申し出た依頼人はいたはずだ。まして魘使いのあなたを男娼同様にうけとった依頼人は男女ともにいたでしょう、いえ、今も大勢いる」 「俺はっ」  彼の左手が、俺の口を覆った。 「あの男の連絡先はちゃんと保存してますよね」  俺はその手を払ってこたえた。 「消した」 「まさか見もしないで?」 「当たり前だ」  頭をふって声をはりあげると、彼の手がはなれた。そして肩を揺らしてわらった。 「あなたはいつもそうだ。おれが、どんなに苦労してそれを得て、どんな気持ちであなたに渡したのかも知ろうとしないで」  俺は項垂れたままの彼へと頭をさげた。 「……それは本当にすまない。申し訳ないことをして、心無いことをしてすまない。だが、俺は」 「あなたはおれの欲望をふざけてると斬り捨てて、じぶんのそれはなかったことにする。おれのはなしをまるで聞いていない。いや、依頼人のそれについてだって、あなたは情け容赦なく契約の一点張りで撥ねつけてきたんでしょう」 「それは、」 「違うの? 悩みを親身に聞いてもらって、その夢を、憧れを、未来をあなたにとつとつと話したひとがあなたに情を移すのは当然でしょう。あなたはきっと恋人よりもとてもやさしい。しかも駆けつけるようにして来てくれる。食事も一緒にしてくれることもある。やもすれば同じ部屋で一晩過ごす。あがないが終わればすぐに帰るけれど、仕事の出来栄えを確かめるために電話する。もしかしなくとも、あなたにご執心な依頼人からは待ちきれなくてすぐ連絡がくる。次の依頼のはなしをする。あなたに逢いたいがために」  俺は言い訳をしたくて、でなければ誤解をとくために何か言い返すべきだと思いながらも、彼の言葉を黙ってきいた。たぶん、これは俺がもっとずっと前に、真摯に、真剣に聞かなければならなかった言葉だと感じながら。 「あなたはたとえ高額な依頼料を支払う相手であろうとけっして媚を売らない。あなたはとても清潔だ。そういうあなたを好もしくおもうひとは少なくはないでしょう。それと同時に、そういうあなたの態度が夢使いらしくないと憎むひともいる。あなたはあなたを欲したひとたちのほとんどを、たんに差別者として断罪するほどには高圧的で潔癖だったわけではないでしょう。それでもたぶん、あなたの判断は正しい。彼らはあなたの夢使いとしての伎だけを見てはいない。だからきっと、あなたはとても正しい。  けれど、だからこそあなたは夢使いらしくない。まして、けっして魘使いらしくはない」  俺は震えた。内臓が押し潰されているような感覚に怯えた。全身が冷えてしょうがなかった。彼の言っている言葉がなにを示すのかおそれた。  もしも、  もしも、彼の口からその名が出たら、  俺は、俺はもう……  彼は凍えて震え続ける俺の顔をのぞきこんだ。 「おれはべつにあなたに言い寄った依頼人たちを手放しで容認はしない。それでも、彼らの気持ちに同情する。あなたは冷たい。ひとの気持ちがまるでわからないひとだ」  くりかえされた言葉に俺は何を言おうとしたのかわからなかった。わななく唇を、彼がくちづけで覆ってから言った。 「あなたは、なにも言い訳しなくていい」  俺は首をふった。彼がなにを言っているのかわからなかったから。彼は俺の頬を指の背で撫でた。それでじぶんが泣いているのだと、ようやくわかった。 「あなたはあの男以外とは寝ていない。例の、あなたを攫った『依頼人』をのぞいては」  立っているのが不思議だった。今にも、膝のちからが抜けそうだった。 「あなたは悪くない。あなたは何も悪くない。悪いのはおれだ。あなたを守れなかった。あなたを救うこともできなかった。  おれはだから、あなたといるのがつらい。あなたといるのが苦しくてしかたがない。  だからもう、いっしょにいられない。ただ、それだけのことです」  膝から落ちた俺を、彼の手は支えなかった。俺はそのまま、テーブルの脚に寄りかかりながらしゃがみこんだ。  口をおさえたが泣き声を堪えることができなかった。全身が拒絶の叫びをあげるのを、涙がかわりに堰きとめて、勝手にとめどなく溢れ出しているようだった。  彼はそこに立っていた。俺は目の前にある脚にすがりついて行かないでくれと希うかわりに横隔膜が引き攣れるままに呻きつづけた。女子供ではないのだ。こんなふうに泣いたりすれば余計に煩わしいに違いない、逆の立場ならいたたまれないことだろう。思慮分別の何もかもを失っている。 「すみません……」  彼が謝った。何故あやまるのかわからない。いや、わかった。彼はそこで踵を返した。 「知らせた予定より早いですが、もうここを出ていきます」  ここは都会だ。ホテルでもなんでも、ある。それこそ研究センターにだって泊まりこめることを俺は知っている。引きとめる理由が何もない。  彼が荷物をまとめるのなら、俺はそれを手伝うべきだ。でなければ餞別ひとつも手渡すのが筋だ。それすら迷惑だというのなら、俺は部屋に閉じこもって姿をみせないほうがいい。  頭ではそう考えるのに、からだが動かない。泣きやみたい。せめて顔を洗い、みっともない恰好でなく彼を送り出したい。そう思えばおもうほど、あてつけと受け取られてもおかしくないほどの喘鳴がほとばしりでた。息苦しさそのものになっているようだった。  その間に彼が、すでに用意していた旅行鞄に残してあった必要最低限のものを仕舞い込んだのがわかった。うずくまったままの俺のところへと、彼は律儀にやってきた。鍵の鳴る音に耳をそばだてる。色違いの革のキーケースが翳された。テーブルの上にそれが置かれた音を聴く。目をあけたと同時に言葉がもれた。 「ここを出ていくなら、俺を殺していってくれ」

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