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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」4
ところが、おれの後ろについてきたのはあなたではなく、彼女のほうだった。あなたは母に捕まっていた。おれは助けにいこうかと、つまり割って入るべきかと考えていったん身を翻したが、あなたとよく似た黒い瞳に捕捉された。目を合わせると、
「邪魔しちゃ悪いよ」
そう言いながらおれの横をすりぬけていった。おれはその場で頭をかいた。まったくもってそのとおりだ。
おれはお茶の用意をする彼女の横で冷蔵庫をあけた。先ほど示された通りの惨状だった。冷凍庫にはおれが入れておいた炊き込みご飯が残されたままだ。あなたはそれを処分することすらも出来なかったのだろう。あなたはひとからもらったもの、してくれたことをとても大切にする。だからおれが、あとでこっそりこれを廃棄しようと心中で呟いた。そしてまた、ことあるごとに飲んだくれたおれと違い酒類は何ひとつ減っていなかった。
「先生はわたしが〈外れ〉るかも、て伝えたときも驚かなかった。いつもどおり冷静だった。あのとき、わたしは自分のことに手いっぱいだったから……」
おれはお盆をもった彼女を見おろした。いまは清々とした顔つきだった。だからあとに続く言葉を尋ねなかった。あなたはあなたであった、ということがわかれば十分だ。
教授はダイニングテーブルで父と大学行政管理について語り合っていた。おれはそこには介入しないことにして、あなたの口に栄養があって消化のよさそうなものを抛(ほう)りこみたくてあちこち漁ったが成果は捗々しくなかった。吐息を押し殺しつつ、見慣れない銘柄の牛乳をミルクパンに流しこんで温めた。それからたっぷりの蜂蜜を入れたマグカップに注いでかきまわす。ついでに蜂蜜の壜をかかげた。これも減っていない。
その頃になってようやくあなたがやってきた。おれの手からありがとうとマグカップを受けとってすぐに口をつけ、それと同時に眉を顰め、甘すぎる、と文句をいった。飲んでみるといいと突き返されたカップを受けとるのも忘れ、おれは笑った。どこをどうとってみても、あなただった。あなたでしかなかった。しかもおれのよく知っている、おそらくはおれだけがよく知り抜いているあなただった。何事につけてもじぶんの流儀、好みというものがあり、その玄妙さに驚きつつも深い慕わしさを感じた暮らし始めのひとときを思い出さずにはいられなかった。
あなたはおれの馬鹿笑いに訝しげな視線を向けてきたが、おれはさっきのように不機嫌なあなたの顔をみるのが嬉しくて愉しくてしかたがなかった。みなの前であんなに愛想よくひと好きのする笑顔をふりまいていたのに、そう思うと余計におかしくて、笑いの衝動で身体全体が揺れてしまう。
あなたはあなたでそういうおれに付き合いきれないといった様子で呆れていたが、マグカップの残りをごくごくと喉を鳴らして飲んでから、まずいとは言ってないと憮然とした表情で告げた。おれはもう、立っているのもむずかしくその場にしゃがみこんだ。あなたのそばにいるのだと、ここに戻ってきたのだと、こんな他愛無いことでこれほど感じ入るとは思いもしなかった。もっと、そう……なにか、もっと違う何かを想像していたような気がする。それなのにおれは今、腰が抜けそうなくらい悦んで全身を突き上げるよろこびに震えていた。
そんなふうだったので、たぶん、あなたなりに何かを察したのだろう。おれのとなりに、そうっとしずかに片膝をついた。おれが泣いているとでも思ったかのように、神妙な顔をして。
そのとき閃いた。この位置なら、あなたにくちづけても誰にも気がつかれない。
身体が勝手に動いてあなたの頬をこちらへと引き寄せていた。心得たように、あなたは目を伏せて顔を傾けてきた。
たしかに、すこぶる甘かった。あんな顔をするのも無理はない。だがおれは、それを思う存分味わいたくてあなたの頭を両手で抱え寄せた。おれの性急さにあなたは一瞬目を見開いておれの腕をそっと掴み、突き放すかと見えてすぐに強く、縋りつくようにして握りしめてきた。あなたはおれの愛撫に身を震わせて、ほとんど喘ぐような声を漏らした。けれどすぐ、あなたは意識をリビングに向けようとして無理やりにおれの胸を押しやった。
そんなふうにされたら止まれない。
そう思った瞬間のことだ。
あなたはおれを突き飛ばして立ちあがった。転がらなかった自分を褒めてやりたい。
目の前に、母が立っていた。
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