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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」5

 この距離と位置ならば母は何も見ていないと断言できた。ただし、あなたのその狼狽ぶりを前にしてはもう、誰であろうとおれたちふたりが何をしていたかは一目瞭然だろう。  母は微笑んであなたを見つめていた。おれはゆっくりと立ちあがった。 「夏休みはお有りなの?」  あなたは、自由業なので特にそういうものは、と言葉を濁した。母はおれにちらと視線を投げてから続けた。 「よかったら、うちに遊びにいらしてくださいな。なにもない田舎ですけど、海は綺麗ですし食べ物も美味しいし、自分の家だと思ってゆっくりしてくれたら嬉しいわ」  それは、おれの言う台詞ではなかったかと思ったが後の祭りだった。あなたは満面の笑みを浮かべて、はい、と深く頷いていた。今にも手帳を開いて日程を確認するような勢いでもあって、おれは正直面食らった。 いや、驚くことはなにもなかった。何もなかったはずだ。ただおれは、それを眼の前にして自責の念にかられているのだ。  母とあなたの会話を横で聞きながら、おれはこの十二年なにをしてきたのだろうと考えた。わからなかった。文字通り気が狂うほどに考え尽くしたはずが、今また、わからなくなった。  そういうおれをそっと窺うようにしてから、母がおもむろに口をひらいた。 「親の口からいうのもなんですが、この子は気持ちの優しいところもあるけれど、何を考えているのかわからなくて、気儘というか、好き勝手なところがあって、ふらっといなくなったりするでしょう?」  母の言葉に、おれはあなたの顔をみた。あなたはおれを見なかった。ただ母の様子を熱心に見守るような表情をみせた。 「よくこんなわがままな人間と一緒にいてくださると思って」 「それは、わたしのほうが御礼を申し上げないとならないところです」  あなたの声は、痛いほど真剣におれの耳に響いた。おれはほとんど飢えたようにあなたを見つめているというのに、あなたはおれを見ず、母の瞳をまっすぐに受け止めながら続けた。 「お話しどおり、ほんとうに気持ちが優しくて、じぶんの苦境を省みずにひとに手をさしのべることができるだけの勇気があって、しかもとても賢明な人柄です」  母はさすがに唖然とした顔つきであった。おれは、おれはというと、恐らくは母以上に我を忘れていたかもしれない。あなたはでも、ひとの気持ちに頓着せずにじぶんの言いぶんをしっかりと述べた。 「きっとこれからも、ふらっといなくなることはあるでしょう。彼にはどうしても必要な時間、場所がある。それはたぶん誰にでも、わたしにももちろんあることでしょうが、彼の場合その思索が深く、無限にも思われるほど広いので、余計に必要とされるものなのだと思います」  おれはそっと息を吐いた。母はあなたではなく、おれを見た。おれは、どんな顔をしたらいいかわからなかった。ほんとうに。  そこでようやくあなたはおれへと顔を向けた。そして真心のこもった声でこう言った。 「十二年近く一緒にいて今までまっとうなご挨拶も果たせず、帰省を促すこともなかったことを心よりお詫びします。至らないところばかりですが、どうぞ今後とも末永くよろしくお願いいたします」  あなたはいかにもあなたらしく、こんなときにほんとうに大真面目で、おれはもう、ほんとうに、いったいどうしたらいいのかわからなかった。そしてもちろん、母は母でおれの落ち着かない様子にこっそりと笑いをこらえていた。そう、おれはこういう母の息子だった。麻痺を抱えた娘と倒れた義母の世話を淡々とこなし、叔父の家の暗闇をさえ、じぶんが流されることのないよう知らないふりで努めて明るくふるまった。あのころはそれが許せないでいた。そのわりきりを、頭では認めても受け入れられなかった。だが母は、ただ感じやすかったおれと違ったのだ。今ならわかる。  あなたとおれを見守る母の笑い皺は美しかった。おれはそれを眼裏にとどめた。けっして忘れないように。  それからあなたはここにいるみなに何か美味しいものを御馳走したいと言いだして、北の海沿いの町に住むひとたちに寿司はあまり喜ばれないのではと心配し、おれがうちはそんなグルメじゃないから大丈夫だというのに耳を貸さず、弟子の家、つまり政治家であるその母親が利用しているケータリングサーヴィスへ予約なしでも可能なのか問い合わせるほどの無茶を披露しておれと弟子が互いに顔を見合わせる仕儀にいたり――。  つまり、その、なんだ。  あなたはやはり、とてもあなたらしかった、ということだ。  そして、父にすすめられた酒を律儀に煽り、幾杯も干しあげて、おれが気づいたときにはすっかり「おねむ」になっていた。

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