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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」12

 目が覚めて、腕のなかにあなたがいない現実に軽く恐慌をきたした。あわてて隣りに手をすべらせたが温かみもない。身体を起こして顧みると夢秤もなかった。  依頼人のところ、か……。  確かめもしないおれが迂闊だった。  まだ外は暗い。  例の女優があなたを呼び出したものか。電車ではない。歩いてか、タクシーか。朝食からランチ、そして午睡をとるといってあなたを独り占めしているのかもしれない。  おれは半身を起こしベッドのうえで頭を抱えた。  間が悪すぎる。  こんなことなら休みになんてするんじゃなかった。何故おれは昨日のうちにただそれだけのことを確認しなかったのだろう。  あなたは付き合いはじめからずっと依頼のスケジュールだけはきちんと知らせてくれていた。変更があれば、その都度ちゃんとおれに伝えてくれた。だからおれは気を抜いてしまったのだ。  自身の端末を手に取った。  生真面目なあなたのことだ。何かしら連絡が入っているものと思ったが何もなかった。では書き置きがあるかとベッドから足をおろしたところでドアがひらいた。  あなただった。 「よかった。いま起こそうかと思っていたところだ」  おはようと言いながら歩み寄ってきたあなたはもうすでにスーツ姿で出かける準備は終わっているようだった。おれは挨拶を返すのも忘れてあなたを見つめた。ただひたすら嬉しかった。  その気持ちのままあなたを抱え寄せた。あなたは少しおどろいたようだったけれど、おれの抱擁に素直に身を委ね、おれをきつく抱き締めてきた。  おれたちはしばらく無言で互いの肉体の熱を、その存在自体を確かめるように抱き合っていた。おれはけれどそのうちそれだけでは足りなくなって、あなたの耳に唇を寄せて囁いた。 「もう出かけないと駄目な時間? ここに何時に帰ってくる、それとも外で待ち合わせして食事したほうが都合いい?」  立て続けに質問すると、あなたはおれの両肩に手を置いて突き放すようにして言った。 「すまない。始発なら資料館の開始時間に間に合うだろう。今日は帰ってくれないか」  それを聞いたおれは息を止めてあなたを見た。あなたはおれの様子に慌てたそぶりでつけたした。 「もう二度と、迷惑をかけたくない。俺のためにじぶんの仕事を犠牲にしないでほしいんだ……」  心臓が凍りついた。  それは、おれが別れ際に残した言葉だった。  まさかこの瞬間に、それを聞くはめになるとは思いもしなかった。否、それはおれの心得違いだろう。おれがそれだけ深く、あなたというひとを傷つけたのだ。  おれはあのときあなたに呪いをかけた。殺していってくれと言われなくともそう口にするつもりでいた。あなたの矜持、その自尊心のつよさに訴えかけた。おれはそれが最善の策だと信じた。それがどれほどあなたを痛めつけ苦しめるものか想像したうえで、あなたの生命(いのち)を守れるものはおそらく、それ以外ないだろうと考えて。  そして今、その言葉に自ら復讐されていた。  おれは、おれの前で頭をさげたあなたを見つめた。愚かなじぶんと、そんなところだけ素直で潔癖なあなたに対する瞋恚で破裂しそうだった。けれど、あなたのおろした手が固く握りしめられていて幽かに震えているのを見て、おれはそれをどうにかおさめた。  愛するひとの危機を、その苦悩を、いったい誰が「迷惑」だなどと思うものか。そうくりかえし、あなたを説得したいと願うのはおれの傲慢だと感じた。  あなたも、わかってはいるのだ。恐らくはこのおれ以上に。 「……わかりました」  おれはそうこたえて、正確に時間を見るために明かりをつけた。そういうふりをしながら、本当はただ、あなたを眺めたかった。あなたが今、どんな表情でうなだれているのか知りたかったし、いま目の前にいるあなたをおれの何もかもで確かめたかった。  あなたはおれを見ていた。ようやく安堵したというよう顔つきで。そしておれの視線に気づき頬にそっと唇を寄せて、ありがとう、俺も一緒に出るからと囁いて続けた。朝ご飯は俺が用意した、と。 「あなたはちゃんと食べたの?」  おれの質問にあなたは律儀にうなずいた。それから、すまない、さすがにおなかがすいてさっき腹におさめたと申し訳なさそうに謝ったあと、美味しかったと、あなたは照れたように微笑んだ。  たぶんあなたは昨夜おれがひとりで食事をとったことについても謝罪するつもりだったのだろう。おれはでも、その言葉を唇で奪いとった。  あなたはその強引さに目をみひらいた。その顔へ決然と言い放つ。 「おれは、あなたが欲しい」  朝飯よりも。  そう耳に流しこむと、あなたは笑った。  おれはその笑顔を見つめながら、あなたの襟もとに手をかけた。あなたは抵抗しなかった。しないどころか、おれのいきりたったものに躊躇いなく手を伸ばしてきた。嬉しいが、少々おどろいた。というより情けないことに、ちょくせつ触れられただけで弾け飛びそうだった。それを悟られたくなくてあなたを抱えてベッドへとおろした。 「お願いだから、今は時間までおれの好きにさせて」  そうあなたの形のいい耳に囁くと、あなたはしかとうなずいて、二度と離れないとでもいうようにおれを力強く抱き寄せてくれた。

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