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第三部『夢の花綵(はなづな)』「夢うつつ夢うつつ補遺」13
その結果、あなたは今おれの横で肩を揺らし荒い息をついでいる。たんに列車の時間に間に合うよう走らなければならなくなっただけなのだが。
あなたは、俺はこういうギリギリは好かないと言ってあるだろうと、途切れとぎれに言っておれを睨んだ。おれはおれで、あなただってあんなに夢中でねだったくせにと言い返したいのは山々だったけれど、あなたにしても本気で腹を立てているわけではないのだし、これでまたしばらく離ればなれになる愛しいひとを別れ際に不機嫌にさせるのも大人げないと素直に謝った。するとあなたが視線をずらし、俺もきっと欲張りすぎたと、聞き取れないくらい低い声でもらした。走ったせいばかりではないだろう。その頬に朱が散っていた。それを見たおれは苦笑でうなずいた。つられてあなたも照れくさそうに笑った。ここが駅でなければ力任せに抱き潰していたに違いない。
それから特にしめしあわせたわけではないけれど、改札を抜け列車の乗り換え口までは二人してゆっくりと進むことになった。あなたと一緒に歩く、ただそれだけのことが、何か途轍もなく素晴らしい奇跡のように感じられるくらいに嬉しかった。昨日の朝、おれはあなたの足許が心配で思い至らなかったのだが、あなたがあんなに熱心に歩きたがったのはきっと、こんな気持ちになるとわかっていたからだったのだろう。
そのことを言いたいような気がしてあなたのほうを向いたときのことだった。あなたは時計を見て、手土産を買う時間はないな、と呟いた。依頼人のところに持参するものだろうか。あなたはいい加減な間に合わせを選ぶような振る舞いを断じてしないひとだった。だからおれはひとりで浮かれきっていた自分を反省し立ち止まって、見送りはもういいから、と口にした。
それを聞いたあなたが振り返り、怪訝そうに首をかしげた。おれがその理由を尋ねようとした瞬間、あなたは目をみひらいておれを押しのけるようにして先ほど通り抜けてきた改札口を見据えた。
あなたの視線の向こうには、大きなスーツケースを片手に歩み去る男の背中があった。
「依頼人?」
おれの質問に、あなたはかすかに頭をふった。その唇に、なんともいえない微笑が浮かんでいる。今度はおれが首をかしげる番になった。
「依頼をされたことは一度もない。俺がこの街に出てきて仕事に恵まれず、それでも自分の腕を腐らせたくなくて何か月もずっと、頼まれもしないのに、ただ隣りに住んでいるからと香音をおろしつづけた相手だ」
それを聞いて、おれも理解した。
おれは一度も会ったことがないが、それがあのアパートに住んでいた起業家だということを。
「しかし、よくわかったね」
感心して呟くと、あなたは何のこともない様子でこたえた。
「あの起業家の夢によくあった、アーモンドに似た甘い匂いの香景がはっきり視えたから」
懐かしそうに細められた瞳に、おれは微かな嫉妬を感じた。おれたちがあそこを出て何年たっただろう。そのあいだ、いや、あそこで一緒に暮らしていたときですら、あなたは一度もそんなことを口にしたことがないのに。
さらにあなたが続けた。
「俺が依頼されもしない相手にタダ働きをしたのは後にも先にも彼だけだ」
そんなことを今さらここで聞かされて黙っていられるはずもない。
「あなたがそんなことをするほどあの起業家にご執心だったとは知らなかった」
おれの嫉妬交じりの揶揄(からかい)に、あなたが思わぬほど真剣な声で反論した。
「そんなことを十二年以上し続けてきた相手にそう言われてもな」
じぶんの耳を疑った。
あなたは、おれを見つめていた。まっすぐに、とてもあなたらしい真摯な表情で。
心臓が止まりそうだった。
あなたの唇がゆっくりとひらかれる。
「いっしょに暮らし始めてからずっと、晏をおろしたくてし続けてきたのにまだ一度も、叶えられていない。俺は魘使いだが、あの夜からその身に晏をおろしたいと願いつづけてる」
「それは……」
おれは何を言えばいいのかわからなかった。驚きと、それを上回り、この身を震わせるよろこびに絡め取られ、ただひたすらあなたを見つめることしかできなかった。
あなたは再び口をひらき、おれに言い聞かせるようにして続けた。
「勘違いしないでほしい。これは礼を言われるようなことじゃない。断じてそういうことじゃないんだ。
その様子ではたぶん自分では気づいていなかっただろうが、出逢ったときからずっと、その身にうつす香景は魘の重いそれだった。今さら言うのもなんだが、きっと俺はそれにも魅かれたに違いない。けれど夢見式のはなしを聞いてからは、俺はそれを取り除こうとしてそうしてきただけのことだ。
だからこれは、けっして喜んでもらうようなはなしじゃない。もっと言えば、これは本来なら許してもらえるようなことでもないと俺は考えている。これは俺のこころない、どうしようもなく身勝手で醜い行いについてのはなしだ」
おれはあなたの言葉に耳をかたむけた。あなたは今、それこそ十二年以上その胸に抱えこんできた想いをこのおれに伝えてくれようとしているのだと。それをおれがどんなにか嬉しく感じているのかすら、もしかするとあなたの邪魔になるかもしれないと想像し、おれはなるたけ表情を変えないように気をつけながら、いまのあなたの声の調子、その息継ぎの音すら聞き逃すことのないように、またあなたの俯き加減の面にうかぶほんの些細な変化さえおれが見忘れることのないように全神経を注いで、あなたの全てを感じとろうとしていた。
「いっとうはじめに、つまりあの告白のときに、俺は「北の夢使い」のはなしを聞かせてくれと言ったはずだ。その身に夢見式をほどこし、この視界のあがないを識らしめた「夢使い」について教えてほしいと……」
おれの喉が鳴った。鳴って、しまった。
まさか、今ここであのひとの存在をあなたから思い知らされるとは考えもしなかった。
あなたはおれの驚愕に気づいたのだろう。いったんそこで言葉をとめた。それからふと雑踏に目を向けた。この都会の大きなターミナル駅のひとごみへと、こんな朝早くだというのにこれほどのひとが足早に行き来するその様へと、視線を投げた。
あなたの立ち姿は美しかった。
あいもかわらず、おれはそのことに感動した。
しかも、あなたはただ立っているだけではなかった。あなたは今、この駅にいるひとびとの香景をつぶさに感じとっているのだと気がついた。
むかしは苦手だと言っていた。大勢のひとびとの雑多な動き、そこに漂い、またはまとわりつく香景を拾いあげるのが。混じり合い、薄まって、ひどく微かで弱いものになってしまった香音、その各々の揺曳を感受して香音を必要とする依頼人をそうと見分けるのはむずかしいと口にしていたはずだ。けれどその、あなたの苦手なことこそが、ある意味では至極「夢使い」らしい振る舞いなのだと。つまり、ひとびとに慰藉をもたらす香音を爪弾くには必要な「ちから」だから――。
あなたがそれをいつ、どのようにして会得したのか、おれは知らない。けれどあなたはそれをやり遂げたのだ。
我知らず吐息をつくと、あなたはおれに視線をもどした。
「本当に長いこと、俺は酷いことを強いてきてしまったと悔やんでいる。謝って許してもらえることではない。それは重々弁えてはいるつもりだ。それでも、どうしても謝罪させてほしい。
その身に夢見式を施してくれた大切なひとの想い出を、あがなってくれた香音の揺曳を、ないことのようにしてきた俺のあやまちを。本当に、申し訳ないことをしてきたと……そして、あのときの約束通り、こういう俺でもよければ、そのひとのはなしを今度こそ、ちゃんと、語って、もらえたらと……」
あなたの声がきれぎれになったのを、おれは最後まで聴くことができなかった。もうそれ以上たまらずに、あなたを自分の腕のなかに抱きこんでしまっていた。あなたの声を遮り、もういい、もういいから、わかってる、ありがとうとくりかえして。
ところがあなたは、よくない、と掠れ声をあげて抵抗した。
「俺は、じぶんの嫉妬と独占欲で、他の夢使いのあがないそのものをないことにしようとしてしまったんだ。それはその身におりた《滋養》を失わせ、奪いとってしまったに等しい」
あなたは必死の形相でじぶんのおもう過誤を語っていた。このおれに、わからせようとしてくれていた。けれどおれは、まったく別のことを考えていた。
おれはあのひとから何かを奪い続けただけだと思っていた。特別に与えられたものは何もないと。勝手におれが掠め取ったのだと。
事実はそうではなかった。
あのひとは、おれに夢見式をほどこしてくれたひとだ。おれはそれに拘り、その研究をしてきたくせに、じぶんがそこで何を得たのか本当には理解していなかった。
それをあなたから、教えてもらえるとは……!
おれはあなたの頬に手をやって目を合わせて告げた。
「それをいうなら、おれもあなたに同じことをしました」
あなたはわななく唇をひらきかけ、すぐに閉じ、おれの眼のなかのじぶんを覗うような顔をした。おれはそういうあなたによく聞こえるようにゆっくりと、それでいながらたたみかけるようにな勢いで言葉を重ねた。
「おれはあなたに惨いことをした。おれはあなたが好きだから、あなたが欲しくてしかたなくて、じぶんだけのあなたでいてほしくて、あなたのまわりの誰もが呆れて厭うようなことをいくつも仕出かした」
あなたはおれを射抜くようにまっすぐに見た。その、闇そのもののような双眸につよいひかりが宿っているのを見ると、おれがどんなに心躍るのか知らないように。
「だから、あなたがおれにしてくれたことはおれにとって、それと同じことだ」
そう言い切ったおれに、あなたはひとみを伏せた。その静謐な面差しを前にしておれはあなたからそっと手をはなし、名残り惜しさにあなたの形のいい耳にかかる黒髪を撫でつけるようにしたあとでその身体からもしずかに腕をはなした。
そうすることであなたを自由にできると勘違いしたわけではない。けれど、この腕のなかに繋ぎとめておきながら口にしてもいいこととはおもえなかった。
あなたはほとんど無防備といっていいほどの姿をおれの前に晒していた。おれはあなたの内側に、どう言い表しても事足りないほどに複雑な、夥しい想いが溢れているのを感じとる。あなたがそれらに翻弄され、けれどそれに流されることを好まず、ひたすら理性的に対処しようとして目をとじて、または身を凝らせて、どうにかその奔流を治めようとしているのをおれはずっと長いこと見守ってきた。
だからこそおれは、このおれだけは、あなたにそれを伝えてもいいかもしれないと、あなたをおどろかせないように気をつけながら、あなたに一歩寄り添って、ごく低い声で囁きかけた。
「……それに、こういう気持ちそのものに添うのが魘使いであるあなたのあがないの本義で、そしてあのひとがおれに教えてくれようとしてくれたことではないですか」
それを聞いたあなたは泣くのを我慢するかのように唇を歪ませた。おれは顔を傾けて、その表情の変化を見届けようとしたところで、あなたの手が、おずおずとおれの腕に触れた。
おれはもう我慢しなかった。
あなたをこの胸に抱きとった。
ようやく、この今になっておれはあなたをほんとうに取り戻したようにおもった。あなたの手がゆっくりとおれの背にまわり、おれはそれが嬉しくて、と同時にほっとした気持ちになり、あなたをぎゅうぎゅうと締め付けるようにして抱きながら気がついた。いま、あのはなしをすればいいのだと閃いたのだ。
「おれも、あなたに大事なはなしがあって」
あなたはそれに深くうなずいたけれど、さすがに周囲の状況が気になりはじめたようで居心地悪そうにおれの腕のなかで身を捩った。忘れていたわけではないが、あなたは人前で抱きつかれたりするのを嫌うひとだった。
とはいえここは長距離列車の改札口だ。長の別れを理由に抱き合うひとびともいないわけではないはずだ。おれは身勝手にそう考えながらあなたの耳に囁いた。
「ふたり一緒に、海外に行こう」
「え」
ところが、あなたが聞き返したのはおれの言葉ではなく、駅構内に流れるアナウンスだった。あなたは、もう出発時間じゃないか、とおれを突き飛ばすようにして離れた。そして案内板を見あげてから、唖然として立ち尽くすおれの手を掴み、ほら早く行かないと、と引っ張って大股で歩きだした。
おれはさすがに冷静になった。
「おれはもうここでいいから。どうせ一週間しないで戻ってくるし。それよりお土産買わなくていいの?」
「は?」
あなたは振り返って声をあげた。
「あなたさっき手土産買うって」
「いや、たしかにそうは言ったが。というか、俺が、言わなかったのか……」
あなたはそこで一瞬、頭を抱えるようなそぶりをしてからおれを見据え、怒ったような声で口にした。
「だから、俺もいっしょに資料館に行く」
「え」
おれが頓狂な声をあげたのを見たあなたは堪えきれない様子で吹き出した。そして、あとで資料館のみなさんにはお中元を送ることにするよ、と口にしておれの目の前に入場券でなく回数券を翳してみせて、ということだ、この国の夢使いの歴史を学ぶならあそこが一番なんだろう? そう笑って言いながら踵を返した。
黒髪が綺麗に弧を描き、おれは、こんなときだというのにそれに見惚れた。
本当に、あなたというひとは!
おれは慌ててじぶんのチケットを取り出して改札を抜けた。先をいくあなたを追いかけて横に並ぶ。あなたはちらと視線をよこし、あなたらしい余裕のある笑みを送ってきた。おれはそれが妙に可笑しくて、笑い転げそうになるのを我慢するのに苦労した。
「弁当を買う時間さえないな」
あなたが、朝食をとっていないおれに苦笑で告げた。
「なかで買う」
「食堂車はもうないしな」
あなたは昔を懐かしむ顔つきで呟いた。そういう贅沢な列車の旅もしたいと口にしようとした瞬間、出発のベルが高らかに鳴り響く。おれたちは顔を見合わせてエスカレーターでなく階段をかけのぼる。
列車に飛び乗ってすぐ、おれたちふたりの背中で列車の扉の閉まる音がした。
あなたが過ぎ去るホームを見ながら少し乱れた息のまま、間一髪だったな、と呟いた。おれはそれに深く頷いて、すっかり夜の明けた街を離れがたそうに眺めるあなたの横顔を見守った。
五月晴れの名に恥じない、雲一つない素晴らしい青空だった。
おれたちが昨日、あのコンビニのあるビルの屋上で再会してから、ちょうど丸一日がすぎたのだと気がついた。この列車から、あのビルが見えないのが残念だった。おれたちふたりが出逢った場所、あなたの叔父と、そして店長の想い出のビルはきっと、今ごろこの輝かしい朝日を浴びて煌めいていることに違いない。
そのことを告げたいような気持になったおれに、ふいにあなたが振り向いた。
「そういえば、さっき海外に一緒に行くとかいう話しをしたよな?」
そう、ふたりで海外に行く。
一緒に行こう。
あなたの叔父さんが、つまりあの会の発起人であるあのひとが、おれとあなたのために道を用意してくれていて、教授からも推薦をしてもらっている……。
おれはすぐにはそう口に出せなかった。どうしてか、ただ、胸がいっぱいで、おれは荷物から手をはなし、あなたの両手を握った。
強く、握りしめた。
一緒に海外に行く。
ふたりで大学の研究施設で過ごす。
あなたがあのとき言ったように、「夢使い」の全てについて、またこの視界そのものについてもっと理解するために。お互いについても、わかりあうために……。
そういう言葉を続けたいのに、つづけることができなかった。
おれにはわからないことばかりだ。
十二年以上も一緒にいて、あなたのことを、あなたのしてくれてきたことを何一つ、ほんとうに何も、理解してなどいなかったのだから。
それでもおれは今日、あなたがおれの「夢使い」だと、ようやくにして識ることができた。本当に、こんなに嬉しいことはない。
おれはあなたを、この生の限り、あがないつづける。
おれはあなたが夢使いであると知ったその日からずっと、密かにそう願い続けてきたはずだ。恐らくあなたはその言葉をよろこんでくれることだろう。もしかすると、無上の歓びとして受け止めてくれるかもしれない。
けれどおれは、あなたから一度はなれた。あなたをひとりにしてしまった。否、そういう問題ではない。そういう問題だけではない。おれは、あなたが夢使いであることに対して、どうしようもない気持ちを抱いた。恐らくこれからも、あのときと同じ気持ちではないかもしれないが、あなたに対して口にすることが許されない想いを抱えこむこともあるに違いない。
だから、そういうおれが、あなたのようなひとにその決意を口にすることはできない。してはならないと感じた。それはあまりにもはかなすぎる。
それこそ、夢のようなものだ。
それでも、先ほどああいったおれに、あなたはその手をさしのべてくれた。だからこそ今、おれは賢しらに何かを言ってはならない。そう、考えた。おれのそうした抑制はきっと、間違ってはいない。間違って、いないはずだ。
おれは、言葉をのみこんだ。あなたは待っていてくれているようだったけれど、言葉をのみこんで目をとじた。たぶん、先ほどのあなたのように。
切なかった。
ほんとうは、あなたの手、晏と魘をあつかうこの両の手にくちづけしたかった。あなたへの慕わしさと敬愛の情をそうしてあらわしたかったけれど、あいにくここは列車の通路だった。
おれの気持ちをそうと察したのか、あなたはおれを見た。
おれは、あなたの双眸にじぶんがうつっているのを見つめた。
たぶん、あなたは今のおれの気持ちをきっと理解してくれている。
それが、わかった。
それでもおれは、今の気持ちをあなたに言いたくてたまらずに、言葉を探しあぐねることにも厭いて、ただおもうところのそれを、あなたの耳にしずかに告げた。
あなたは少しおどろいたように肩を震わせて、それからおれの耳に囁いた。
俺も、愛してる、と。
おれたちふたりは手をつないだまま席を探した。お互いに、話したいことが山ほどあることに気がついて。
目的地に着くまで数時間。
この花綵列島の何分の一かを横断する列車のなかで、この視界を一緒にめぐる話しをするために。
あなたは夢使い。
この星を廻らすあなたを、おれが書き記す。
すべてとは言わないまでも、
あなたの手が奏でるその夢と、
おれの手が記すこのうつつ、
そのあわいにあるものから視えてくるものも、何か少しはあるだろう。
あなたが夢のようにおれのところにおりてきてくれたように、この拙いものがたりが、誰かの《滋養》となって、この視界を廻らすことがあるように――……
視界樹の主に、
そしてまたこの視界のすべてへ、
おれたちふたりともつよく深く、
祈っている。
了
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