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第1話

 静まり返った高級ホテルの一室に、フルートグラスのかち合う澄んだ音が響き渡る。 「かの偉大なるイルメール・ウルヴァン閣下の麗しき弟君、エミリオ・ウルヴァン閣下との出会いを祝して。乾杯!」 「乾杯!」  目の前に腰かけた男の熱意みなぎる口調に合わせ、一度は同じように続けたエミリオは、上等のシャンパンを一口含んで微笑んだ。 「うん、とてもおいしい。ちゃんと毒味をしてよかったな。なんの憂いもなく飲める」 「こちらこそ、事前に確認いただけて幸いでした。おかしなものが混ぜられていないかと疑いながら飲む酒はまずいですからね。やはりあなたは聡明な方だ、エミリオ閣下」  そつなく持ち上げてくる男に、エミリオはくるくるとグラスを回しながら肩を竦めた。 「大袈裟に褒めてもらえるのも嬉しいよ、ジョン。どうせ偽名だろうけど。だけど正直、神話再生主義の先鋒たる君に、こんなふうにもてなしてもらえるとは思わなかったな。この間のデモだって、お互いにかなりの被害者を出したのに」  少し癖のある金色の髪に縁取られた美しい顔は、血の通わぬ男として知られた兄に酷似している。だが堅物の兄と違って軽薄な遊び人で知られた青年だ。与しやすく見られがちであるのだが、あからさまに水を向けられたジョンは、探るような瞳でエミリオを見据えた。 「こちらも意外でしたよ。あなたはどうして、我が同士をお兄様率いる『ドミニオン』に突き出さなかったのです?」  先日エミリオにすり寄ってきた若い女性の話である。最初のうち、エミリオは世間に流布した噂どおりの対応で彼女を歓迎した。 『わあ、君みたいなきれいな女の子に声をかけてもらえるなんて光栄だなぁ。よかったら、僕の行きつけの店に行かない?』  思うツボだ、とほくそ笑んだ女性は会員制のバーに連れて行ってもらい、楽しい時間を過ごした。ところが、どれだけモーションをかけても、エミリオは噂と違って最後まで手を出さなかった。 『だめだよ、自分を安売りしちゃ、なーんてね。誤解しないで、君は魅力的だよ。でも、僕ってば相手に不自由していないからさ。すてきな人とほど、じっくりと時間をかけて関係を深めていく余裕があるってわけ。ねえ、また会えるよね?』  さては、こちらの差し向けた刺客だとばれたのか。盗聴していた神話再生主義の面々は冷や汗を覚えたが、意外なことにエミリオは彼女の正体を看破していてなお、逮捕しようとはしなかったのである。神話再生主義からの正式な招待も平然と受け、今に至る。 「決まってるさ。あんな美人であっても、僕の兄さんはオメガというだけで毛嫌いする。まして、オメガの権利を主張していると分かれば、なおさら」  七大陸が一つ、エウロペ・コンチネントの治安維持部隊「ドミニオン」。その副官であることを示す、白を基調としたコート仕立ての制服に包まれた足を、エミリオは意味ありげに組み替えてみせた。  オメガ。それは、この世界から消された存在の名だ。  男女とは別に存在する第二の性。あらゆる分野の才能とリーダーシップに恵まれた「支配の性」アルファ。アルファほど傑出した部分はないが、数が多くアルファの補助を担う「支援の性」ベータ。定期的に発情し、男女問わず出産能力を持つ「繁殖の性」オメガ。  人類の黎明期、産めよ増やせよの時代には、「繁殖の性」にも意義があった。しかし科学技術が発展しきった現在、妊娠以外に能がなく、発情フェロモンによって優秀なアルファさえ惑わせるオメガは不要と判断され、殺処分が進んだ。そのため、表向きこの世界にはオメガは存在しないことになっている。 「……彼女がオメガだと、認めるのですね。あなた方のような組織の奮闘により、オメガは根絶されたはずですが」 「お互いに回りくどい言い方はよそう。『ドミニオン』を含め、各大陸で活動中の治安維持部隊の仕事には、今もなお生まれ続けているオメガの排斥が含まれている。君たち神話再生主義の面々はそれを知っているから、僕や兄さんを目の仇にしている」  そうだろう? と営業用の笑顔でにっこり微笑まれ、ジョンはぎちりと椅子に爪を立てた。怒れるアルファの力は強く、高級な革に消えない傷が刻まれた。 「……そう。排斥。もしくは、高位のアルファの愛玩用として調教するか、ですね」 「うーん、そこはノーコメントで」  愛想笑いで流そうとしたエミリオのグラスを持った手を、ジョンは出し抜けに掴む。細かな泡が浮いた水面が波立ち、グラスの縁ぎりぎりまでせり上がってきた。 「……危ないなあ。せっかくのシャンパンが零れてしまうよ。制服が少しでも汚れると、兄さんもうるさいし。まあ、この服には最新式の自浄作用が組み込まれているんだけど」  黒手袋に包まれた指先でバランスを取りながら、エミリオはとぼけて文句を言った。自主撤退勧告であることは明らかだ。大抵の相手は彼の地位、何よりバックにいる兄の存在を思い出し、このあたりで引き下がるのだが、ジョンは真っ向から「ドミニオン」に異を唱える存在である。 「そうやってヘラヘラと話を逸らすのがお得意のようですが、私には分かります。あなたは、他のアルファとはどこか違う。だからこそ、こうして私の誘いに乗ってくださったのですよね?」  なおも話を変えようとするエミリオの瞳。兄と違って温度を感じさせる、南国の海のようなブルーの瞳を縛りつけるように覗き込み、ジョンは畳みかけた。情熱を秘めた強い視線にエミリオの視線がわずかに揺れ、なぜかジョンの喉がごくりと鳴る。 「……失礼」  己の奇妙な反応を怪訝に思いながら、ジョンは仕切り直した。 「創世神話はご存知ですよね、エミリオ様」 「そりゃあ、一応ね」  かつてこの世界は人型の双子神、ネブラとルーメンという兄弟によって生み出された。彼等に憧れた獣たちがその姿を真似て獣人へと進化し、ついには現在の人の形を得たというのが広く知られた創世神話である。 「なら、この話はご存じですか。創世神は二人ともアルファとされているが、弟のルーメンは実はオメガだった。我らの世界そのものが、アルファとオメガの繋がりによって生み出されたのだと」  何度も演説している内容だが、「ドミニオン」高官の前で披露するのは初めてだ。ジョンの口ぶりは一層熱を帯びていた。 「しかし文明が成長し、一定の人口に達した我々はオメガを『繁殖の性』と蔑み、出産以外は能のない存在として排除を試みた。そのため現在、オメガという性は絶滅したと見られています。それが行きすぎた結果、出生率は年々低下する一方。即日で役に立たない者を切り捨てる思想が、オメガだけではなく、アルファやベータの出産も抑制」 「そういう危険思想を君たちが吹聴して回っているのは知っているよ。ところでさ、痛いから、そろそろ放してくれないかな? 例の彼女みたいな美人ならいざ知らず、僕には男に手を握られて喜ぶ趣味はないよ」  はぐらかそうとするエミリオとは裏腹に、ジョンは鼻息が荒くなる一方だ。放すどころか、逆に両手をしっかりと掴んで、 「いいえ、放しません! あなたは『ドミニオン』解体のために必要な人材だ、エミリオ副官」  ようやく捕らえた希望なのだ。逃がすものかとばかりに、ジョンはぐっと身を乗り出してくる。膝の上に両手首を押しつけられて、エミリオはかすかに顔をしかめた。  痛いからではない。痛みの先にある快楽を、想起してしまったからだ。  しまった、と思った時には遅い。体の奥がじんわりと熱を生み始めた。幸いなことにジョンはエミリオの説得に手一杯で、漂い始めた甘い香りにはまだ気づいていない様子だ。 「あなただって、いくら兄とはいえ、あの冷血漢の横暴ぶりには嫌気が差しているのではないですか? 聞いていますよ。身内なのをいいことに、散々に汚れ仕事を任されていると……」 「……何をどこまで聞いているか知らないが、兄さんにもあれで一応、優しいところはあるんだよ。本人は自覚していないだろうけど」  残酷なところは、それ以上に。無為な感傷を仕まい込んだエミリオは、周囲に、兄に期待される「軽薄ぶっているが案外有能な副官」の仮面をつけ直す。目の前の男が放つ強いアルファの気配を、それで遮断する。 「ところでさ。いくら時間を稼いでも、このグラスに塗られた発情剤なら効かないよ。効かないというか、そんなものは塗られていない」  ジョンの整った顔にちらちらと走り始めた焦りを読み取ってやると、手首を押さえつけた指がぴくりと痙攣した。 「なっ……!?」  反射的に身を引いたジョンの手を素早く掴み止めたエミリオの指からグラスが滑り落ち、床に落下して無残な姿になった。砕ける音さえ可憐なグラスの惨状を尻目に、部屋のドアを振り返る。  コートの裾に飛び散ったシャンパンは自浄作用により跡形もなく乾いた。こうやって何もかも消え失せる。「ドミニオン」が、兄が、アルファが望まぬものは、全て。 「このホテルには、とっくの昔に手が回っている。君が金を握らせたホテルマンには、全て『ドミニオン』の息がかかっているんだ。そうだよね? 兄さん」 「弟の言うとおりだ」  エミリオの呼びかけに合わせ、満を持して翻る漆黒のコート。エミリオと顔は酷似しているが、対照的な黒を基調とした制服を身に着けた長身が、部屋の奥から忽然と姿を現した。

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