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第2話
「貴様……、イルメールだと!?」
イルメール・ウルヴァン。名門ウルヴァン家の現当主にして、一族を象徴する「神の似姿(イコン)」の二つ名を体現するアルファ。エウロペ・コンチネントの治安維持部隊「ドミニオン」の長官の名を、ジョンはわななきながら口にした。
「そんな……、くそッ」
全てを悟ったのだろう。彼は渾身の力でエミリオを突き飛ばす。
逃げても無駄だ。本来の計画であれば、部屋の外も買収したホテルマンによって手引きされた同志たちが固めていたはずなのだ。だからこそ安心してエミリオと二人きりになり、発情させた彼を捕らえて逃げるはずだったのに、イルメールは易々と入ってきた。
その意味するところが分からないほど愚かなら、こんな手の込んだ方法で始末する必要もなかったが、追い詰められた人間は錯乱するものだ。放っておけば部下たちが処分を終える。イルメールだってそれは理解しているだろうが、なにせエミリオの兄は冷血漢で横暴な上に、仕事には完璧を求めるのだ。
「エミリオ」
「――はい、兄さん」
兄が差し出してきたオートマチックを流れるようなしぐさで構える。「ドミニオン」の紋章である、錫杖を抱く一対の翼が刻まれた銃は、「ドミニオン」に所属する者全てに配給される代物だ。エミリオの銃はこの部屋に入る際、親愛の証として逃げていく男に預けていた。
ためらうことなく、引き金を引く。一発目で太股を撃ち抜き、ドアノブに手をかけたジョンの逃亡を阻止。動きが止まったところで近づき、二発目で確実に仕留めるために耳に銃口を押し当てた。
「あなたは、オメガだろう。甘い、悲しい匂いが、した」
その声はひどく小さかったが、エミリオの動きを止めるには十分だった。はっと息を飲んだエミリオを見つめる瞳は不思議なほどに優しく、ジョンが心からオメガを冷遇する世を憂いていることが伝わってきた。
「実際に会ってみて分かった。アルファ用の発情剤なんて、そもそも効かないんだ。聞いてくれ。我々は、あなたのような人のために」
ごき、と神経に障る音にジョンの声は取って代わられた。あり得ない角度で後ろ向きに折れた彼の目からは光が失われ、永遠に蘇ることはない。
白い手袋に包まれた指先が男の頭から離れる。人形の首でも折るようにしてジョンを始末したイルメールの目は、恒星のように強く輝いていた。たった今失われた光まで奪い取ったかのように、強く。
罪深い輝きに知らず見惚れていたエミリオの肩に兄の手が触れる。一瞬背筋が冷えたが、もちろん首を折られるようなことも、別の無体を働かれるようなこともない。ただ、ぐいと部屋の奥へ押しやられた。
「ま、待って、彼に銃を預けてある」
「聞いていた。回収はさせるので問題ない」
防音加工は完璧なはずだが、素っ気なく言ったイルメールが連絡したのだろう。「ドミニオン」の下位構成員であることを示す、濃緑色の制服に身を包んだ部下たちがすばやく中に入ってきた。
「処分は任せる」
彼等を一瞥し、イルメールが簡潔に命じる。長官直属を許された優秀な部下たちは、用意していた担架にただちにジョンを乗せ、その懐を探ってエミリオのオートマチックを取り出した。そして苦悶と驚愕の表情に白い布を被せて隠し、何処かへと連れ去った。
あの女性オメガも、今頃捕まっているはずだ。殺されて終わりか、それとも――彼女を待ち受ける運命について深く考えるのを避け、イルメールを経て戻ってきた銃をしまいながら、エミリオはいつものように浅い笑みを浮かべた。
「ごめんね、兄さん。手間をかけさせてしまって。でも、これで今日のお仕事は終わりっと。いやー、僕もナメられたもんだねぇ。兄さんでなければ、懐柔できると思われちゃったかな」
入れ替わりに自分のオートマチックを受け取ったイルメールの、アイスブルーの瞳が鋭い光を放った。先の男を始末した時のような、「能力」を使ったためではない。
「そうだな。それは、お前に責任がある」
抗う暇もなく、引き寄せられた。嫌な予感におののくエミリオの顔を、よく似た顔が冷ややかに見つめている。
「分かっているな。お前はあの男に触発されてフェロモンを出した」
エミリオの両耳に嵌まったピアスにはカメラや盗聴器だけでなく、エミリオ自身の体調を兄に知らせるシステムが組み込まれている。あれはたまに調子を崩すが、周囲にそれを知られてはウルヴァンの沽券に関わる。私にだけ報告が来るようなシステムを作れ、と命じて作成させたものだ。
「……ご、ごめん、なさい。僕……じ、自分でも、どうしてなのか……」
ジョンの比ではない、完全無欠のアルファを前にしては、薄っぺらい道化の仮面に意味はない。呆気なく剥がされたその下から覗くのは、情けなく怯えた表情だ。
分かっていた。死にかけの男による、かすれ声の告発もイルメールは聞き逃さない。部下たちが入ってくる前に自分を遠ざけたのは、少しでもフェロモンを嗅ぎ取らせないためだ。この後何をされるかまで分かっているから、震えが止まらない。
「あいつはオメガなどに情けをかけた以外は、非の打ち所のないアルファだったからな。まだ、教育が足りないか」
己と作りだけは近い顔の輪郭を、白手袋に包まれた指先が辿る。その感触に一瞬陶然となったエミリオを、イルメールは乱暴に突き飛ばした。さっきまでジョンが座っていた椅子に倒れ込んだエミリオの腰を掴んで引き上げ、固定する。
「そこに手を突いて、下を脱げ」
「……そんな」
思わず瞳を巡らせたエミリオであるが、室内に自分たち以外の人影はない。トラブルの片づけは終わったが、優秀な部下たちは長官と副官が出てくるまで犬のように外で見張っているはずだ。分かっている。兄は、自分たちの関係が漏れるようなヘマはしない。
「早くしろ」
「……はい、兄さん」
イルメールがやれと言っているのだから、逆らう術などないのだ。長年飼い慣らした諦めに従ってうなずいたエミリオは、不自由な姿勢のまま器用にベルトを外し、コートをまくり上げ、下半身の衣服を足首まで落とすと引き締まった臀部をさらした。
すらりとした長い足には適度に筋肉が乗っている。「ドミニオン」を代表する一人として、兄や同僚に負けぬ鍛練を積んできた。外見も能力も周囲の期待に応じていると自負しているが、その中心は本人の意思に反してじくじくと熱を帯びている。
「もう、こんなに濡れているのか」
粘液にまみれて妖しく光る縁を見下ろして、イルメールは冷たく嘲笑った。
「……ッ」
ひどい屈辱を受けている。それは分かっているのに、エミリオが奥歯を噛み締めたのは浅ましい期待を隠すためだった。
右手の手袋を外したイルメールの指が、ずぷりと乱暴に奥へと差し込まれた。痛みに眉をひそめるエミリオであるが、思わず漏れた吐息には甘さがにじんでいた。
「ん、ふぁ……、ん、ん……!」
目に見える穴のみならず、その先に秘められた子宮が口を開け、強いアルファを欲しがっているのが分かっていたたまれない。抱かれると察した時点で準備を始めてしまう体では、どう取り繕おうと無駄だ。
「やはり、先の男に反応していたようだな。嘆かわしい」
弟の反応を見逃すイルメールではない。兄の苛立ちと失望をエミリオも聞き逃さない。どうにかして挽回したいのに、イルメールはあまりにも自分の反応を理解しすぎている。揃えた指で前立腺をぐちぐちと捏ね回されては、声を殺すのがやっとだ。
「ん、あ、ぁ……にい、さ……ごめんなさ……」
切れ切れに謝罪するエミリオを蹂躙しながら、イルメールが深く覆い被さってくる。次に来るものを察してぎくりとした耳に、兄は淡々とつぶやいた。
「分かっているな? お前がオメガだと知られるわけにはいかないんだ。そんなことになれば、お前を側に置いておけなくなる」
呼吸が止まった。
まるで愛の告白だ。そうであったら、どんなにかいいだろう。
だがエミリオは知っている。これは兄の、もっとも残酷な部分の表出でしかない。
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