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第6話

 十代の始めに避妊手術は受けている。摘出された子宮が復活した例は説明されてはいたが、一切を取り仕切る兄の横で、いつものように曖昧な笑みを浮かべていただけであるため、あまり詳しい内容は覚えていない。兄さんが問題ないと言うのだから、そうなのだろうと考えてサインした。自分はアルファとして生きていくのだから、抱くことはあっても抱かれることはないだろうと、のんきに考えていた。  施術を行った医者は術後の経過を確認後に始末されたため、相談することもできない。誰にも言えない。特に兄には、絶対に言えない。まさか、あり得ないと自分に言い聞かせ、時折腹の内側で動く「何か」に見て見ぬふりを続けた。  やがて出産が迫り、エミリオはついに体調を崩して意識を失った。ふと目覚めると、兄はいつにも増して冷たい顔でこちらを見下ろしていた。 『しばらく休暇を取れ。問題は片づけておいた』  意識を失う直前、誕生を願う真新しい命が外の世界を目指して降りていく感触を覚えている。麻酔が効いているせいか、痛みはないが、体の中に虚しい空洞があるのが分かった。あんなにもずっと、腹の中で蠢く存在に怯えていたのに。 『僕……の、子は?』  僕らの、と言いかけてやめたのは、盗聴の疑いを懸念したからだった。 『問題は片づけたと言っただろう。今度から、何かおかしなことがあれば必ず報告しろ。分かったな』  下らないと言いたげに繰り返し、イルメールは去っていった。彼の弟であり、副官を務める誉れを与えられた賢いエミリオは、もちろん全てを理解した。  僕らの子、などと口走らないで正解だった。兄にとってはただの「問題」だ。彼にとっての子供とは、誰もに祝福され当然の相手として受け入れられる、高位のアルファ女性との間に成すものだ。片づけて終わるようなものではない。  だから、飛び降りたのだ。本部の屋上で交わしたやり取りを思い出し、唇を噛み締めるエミリオを確かめたネブラの視線が鋭さを増す。 「個人的には、弟君だけでよかったのではないかと思いますがね。同じアルファとして、オメガを大事にしないアルファには虫酸が走ります」  一部の関係者以外は知らないはずの事実を指摘され、さすがにあ然としていたイルメールの表情が、根源的な秘密の暴露に引き締まった。 「貴様、エミリオがオメガだと言ったな」  最大の禁忌を看破されたと知ったイルメールの行動は早かった。オートマチックその他の武器は奪われていると確認済みだが、彼には奥の手がある。ウルヴァンの当主、「ドミニオン」の代表者たらしめている最強の能力が。  その気配がみるみる重圧を増していく。アイスブルーの瞳の奥に稲光のようなものが走り、エミリオは圧倒されて壁際に身を寄せた。ルーメンもかすかにみじろぐ。  しかし、肝心のネブラは小揺るぎもせず、イルメールの変化を観察していた。 「獣の力の発動ですか。なんと歪で強欲な……姿形は人を、力は獣を良しとするなど、生物として行き止まるのも当然ですね」  その声にはかすかな憐れみが混じっていた。 「抜かせ!」  聞きたいことは山ほどあろうが、まずは制圧が先だと判断した様子だ。ぐるる、と獣のうなりを発したイルメールは、長い腕を大きく振りかぶった。  姿形は人。力は獣。ネブラが指摘したように、それがエミリオたちの世界で求められる最上の在り方である。  自分たちの始祖は、創世の双子神に憧れていた獣だ。そこから獣人へ、やがて人へと進化したのだと神話は語ってきた。  そのため現代においては、先祖返りを起こして獣人の見た目の特徴――多毛、耳のとがり、尻尾などを発現させたものは蔑まれる。退化したと判断されるからだ。  特に地位の高いアルファにこの症状が出ると、それを理由にしてあっという間に権力の座から引き下ろされる。高度に捏造された映像によって失脚させられる者も少なくない。  反面、獣の力そのものは、神の遺産として珍重されていた。特にイルメールに備わった能力である「怪力」はシンプルかつ強力だ。銃ほどの射程距離はないのと、発動に少し時間がかかるのがネックだが、人の身にあるまじき膂力によって繰り出される一撃は人体など易々と破壊する。  たまらず、エミリオは目を閉じた。ネブラどころか、ルーメンまで無残に引きちぎられる様を想像したからだ。必要な情報が出揃っていないので、最低でもどちらかは生かしておくだろうが、逃亡を防ぐための処置は迅速に行う。兄はそういう性格だ。  ところが、イルメールの振りまく闘気は唐突に消え去った。次に聞こえてきたネブラの声は、重傷者のものではなかった。 「私はネブラ。全てのアルファの祖にして、獣の神。同じ獣の血を引くアルファの力を抑えることができる」  そろそろと開いた瞳に映るのは、神を名乗るにふさわしい神気を放ちながら堂々と立つネブラの姿。そして、その手前で愕然としながら己の体のあちこちを確かめているイルメールの姿だった。ネブラ同様、無傷のルーメンは「さすがだね、ネブラ!」と楽しそうに笑っている。 「いかがですか、お二人とも。僭越ながら神であり、あなたたちの祖先である私たちの言うことを、信じる気になっていただけましたか」  有無を言わさぬ調子でイルメールに確認を取ったネブラは、続いてエミリオに視線をやった。獣の顔の表情は読みにくいが、イルメールに対するのと違ってその瞳には柔らかい光がある。 「あなたも、よろしいですね。エミリオ。最悪、お兄様には信じていただかなくても構いませんが、あなたには……」 「に……兄さんに、何をしたんだ!」  ネブラの問いかけを無視してエミリオは叫んだ。最上級のアルファに震える体を叱咤して立ち上がり、兄の様子を観察する。見た目の怪我や出血などはないが、次から次へとわけの分からないことばかりなのだ。不安は拭えない。 「ご心配なく。ただ、力の発動を抑えただけです。……あなたは心の底から、お兄様を慕っていらっしゃるのですね、エミリオ」  あんな目に遭わされたばかりなのに、とどこか呆れた色を交えてネブラがため息をつく。隣でルーメンも苦笑していた。 「分かった。信じよう」  解け始めた空気の中、イルメールが姿勢を正す。エミリオは反射的にその動きをチェックしたが、どこかを庇っているような不自然さはない。ネブラは本当に、「怪力」の発動を抑えただけのようである。 「私とエミリオは確かに十階の高さから飛び降りた。それを傷一つなく救い、ここへ移動させ、私の能力まで封じた。創世の神でもなければ、考えられないことだ」 「ありがとうございます。証拠が揃えば、さすがの判断力ですね」  物分かりの良さを皮肉るでもなく、ネブラも簡潔に礼を述べた。 「では、改めてお茶の席にご招待しましょう。そこで今後のことについて、ゆっくりと相談したいと思います」 「朝摘みのいい茶葉があるんだ。任せて!」  張り切ったルーメンとネブラが間仕切りの布をめくって歩き出す。逡巡するエミリオにイルメールが声をかけてきた。 「見た目は問題なさそうだが、大丈夫か」 「……う……うん、平気だよ、兄さん」  体感ではつい先程、飛び降り自殺を試みたのだ。しかも、その後を兄も追ったという。にもかかわらず、イルメールはすっかりと落ちつきを取り戻しているようだった。 「正直、まだ疑わしいが、反論の材料もない。ひとまずは、奴らの話を聞くぞ」  言うなり、イルメールはさっさと歩き出した。エミリオがついてくることを、その背中はまるっきり疑っていない。  身投げによる怪我はなくとも、この体と心には、つい最近消えない傷が刻まれたばかりだというのに。それを行ったのは、兄だというのに。  刹那、再び飛び降りたい衝動が込み上げた。しかしこの部屋の窓は小さく、オメガとしては体格のいいエミリオが通り抜けるのは容易ではなさそうだ。そもそも目線の高さからして一階である。外に続くような出口はなく、刃物の類も見当たらない。再びの悲劇を繰り返させないためだろう。  つまりは、兄の後を追う……いや、ネブラとルーメンの話を聞くしかないのだ。渋々とそう結論づけたエミリオは、立ち上がって歩き出した

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