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プロローグ

 池谷(いけや)啓介(けいすけ)は、生まれつきのお人好しだ。  まわりの者たちには、優柔不断とも断れない性格とも言われる。それらの言葉は、決して褒め言葉ではない。そのことは啓介も重々承知だけれど、だからといって二十年そこそこしか生きていないのに、生まれ持った性格を変えることなどできない。性格を変えることができるくらいなら、そもそも優柔不断などという不名誉な肩書を抱えてはいないのだ。 「ふぅ……」  啓介は大きく息をついた。腕に大きな段ボールを抱えて、研究棟の廊下をよたよたと歩いている。声をかけられて、啓介は肩越しに振り向いた。 「……勇希(ゆうき)」 「なんだよ、その大きな荷物」  ただでさえ大きな目をさらに大きく見開いているのは、友人の高崎(たかさき)勇希だ。彼の視線を受けて、啓介は肩をすくめた。 「先生に、運んでおいてって頼まれたんだよ」 「はぁ……」  勇希は呆れたように、啓介を見ている。その同情的な視線に少しむっとして、そのまま啓介はまた歩き始めた。 「そんなの、断ればいいのに。おまえだって暇じゃないんだろう?」 「それは、そうだけど」  目的の研究室にまで歩いていきながら、啓介は言った。なぜか勇希は後ろをついてくる。 「先生、大変だろうなって思って」 「あああ、いいやつだよ。本当に、おまえは」  勇希はうたうようにそう言って、そして啓介にぱたぱたと手を振った。勇希の後ろ姿はすぐに消えてしまい、啓介はため息をついた。 (そんなふうにクールでいられるおまえが、羨ましいよ)  啓介とて、好きで荷物運びを引き受けたわけではない。バイトの時間が迫っているから、いつまでもこうやって人の手伝いをしている場合ではないのだ。しかし頼むと言われて断れる啓介ではなかった。 (あんなふうに頼まれて、どうやって断ればいいんだよ……)  改めて自分のお人好しに呆れてしまうが、しかし引き受けてしまったものは仕方がない。目的の研究室のドアをノックし、無人だった室内に段ボールを置く。見かけよりもかなり重かった荷物を前に、大きく息をついた。  研究棟から離れ、正門をくぐって最寄り駅に向かう。歩いていると、ポケットの中のスマホが鳴った。取り出して液晶画面を見ると、着信は姉だ。 「……はい」 『なによ、景気の悪い声』  案の定、きんきんと響く姉の声が耳に届いた。挨拶もなにもなく、いきなりこのような言葉をぶつけてくるのが姉らしい。 『今度の日曜、たっちゃんが来るんだ』 「ふぅん? たっちゃん? 今の彼氏だったっけ?」 『やだぁ、彼氏なんて!』  目の前に姉がいれば、遠慮なく背中をばしばし叩かれていただろう。姉にはいつも容赦がなくて、叩かれるのは本当に痛い。そうはならなかったことにほっとしたが、姉の一方的な話は続く。 「彼氏じゃないの?」 『彼氏よ』  姉は「なにを言ってるの?」という口調でそう言った。しかし「たっちゃん」とやらが彼氏なのか、訊いたのは啓介のほうだ。 (照れてるわけ? 柄でもない)  しかし啓介も弟として、この姉との付き合いは生まれてからずっとだ。それ以上よけいなことは口にせず、姉の言葉を待った。 『だから、部屋の片づけするの。土曜日、手伝いに来て!』 「えええ……」  啓介は、腹の奥から拒否の声をあげた。 「土曜は、バイト入ってるんだけど?」 『バイトなんて、いつでもできるじゃないの。あたしの用事のほうが、大切に決まってるでしょう?』 「えええ、そんなぁ……」  姉はあたりまえのようにそう言って、一方的に来てほしい時間を告げた。啓介の抵抗は虚しく、さっさと通話は切れてしまう。 (……姉ちゃんの横暴さは、いつものことだけどさ)  スマホの画面を見ながら、啓介は大きくため息をついた。 (いつまでも俺って、姉ちゃんのパシリなのかなぁ?)  また息をついて、スマホをポケットにしまった。駅までの道をとぼとぼと歩き始める。 (そりゃ、あっちから一方的に言い出したことだし? 俺は了承してないんだから、行かなけりゃいいことなんだけど)  しかし姉の命令を無視するのは、なによりも怖い。それは理屈ではなく、啓介の魂の根本に刻まれている恐怖だ。あの姉の怒りの形相を見るくらいなら、姉にこき使われるほうがましだと啓介は大きく身震いした。 (俺の人生って……)  何度目になるだろうか、啓介は大きな息をつく。再び顔をあげて歩き出して、しかし胸に宿ったもやもやは消えない。 (俺の人生、こういうことばっかりなのかなぁ……? 雑用を押しつけられて、断れなくて……器用な人に利用されて)  胸ポケットから定期券を出して、改札を抜けようとすると大柄な男性にぶつかられた。男性は啓介を振り返ると、不愉快そうな顔をして大きく舌を鳴らす。 (なんか、こんなことばっかり)  よくあることとはいえ、舌打ちなどされて気分がいいはずがない。すっかり落ち込んでしまった啓介は、いささかよろよろとしながら帰宅のための電車に乗るべく、ホーム階段を登り始めた。

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