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第1話

 1  その日は、冷たい風の吹く日だった。  空は青く晴れているけれど、とにかく体にまとわりついてくる風が強く、体の芯までが冷え冷えとする。啓介はジャケットの前をかき合わせ、肩をすくめながら車道脇の歩道を歩いていた。 「さ、む……っ」  正面から冷たい風が吹いてきて、啓介の全身を包んだ。反射的に大きく身震いする。すれ違う人々も、同じように身を小さくしていた。いかにも寒そうな彼らの姿を見ているだけで、自分もますます寒くなるような気がする。啓介は、そちらから目を逸らした。 「……ん?」  歩道の脇には植え込みがある。常緑樹の葉は、長い間排気ガスを浴び続けて汚れていた。その根もとになにかが落ちている。  啓介は立ち止まった。じっと、その小さなものを見つめる。 (毛玉……?)  黒い毛皮のかたまりが、生垣の中にあった。艶のある黒だ。それがいったいなんなのかわからず、首を傾げながら啓介は近寄った。 (子猫、とか?)  歩み寄ってみても、それはぴくりとも動かない。子猫というのは違うかもしれない。毛皮のストールかなにかの端っこが、ちぎれて落ちているのかもしれないとも考えたが、しかしそれにしては形はきれいに丸いし、艶々した色はまるで生きているようだと感じた。 「大丈夫……?」  啓介は指先を伸ばし、そっと毛玉に触ってみた。伝わってくる感覚も心地よく、もう少し大胆に撫でてみると、黒い毛玉はひくりと動いた。 「わ、っ!」  思わず声があがった。とっさに後ずさりをしてしまった啓介の目の前、毛玉がくるりとひっくり返る。すると黒以外の色彩が現れて、その毛玉が生きているのだということがわかった。 「金色……目、なのか?」  毛玉には、ふたつのきらきらと光る目があった。それはきょときょとと動いて、あたりを見まわしているかのようだ。 「生きてるんだな?」  恐る恐る啓介がそう言うと、金色の目がこちらを見たような気がした。その瞳はまるで啓介の存在を意識しているかのようで、不可解な生きものと目が合うことに少し怯えながら、腰を折って視線を近づけた。 「猫、じゃないな……やっぱり」  これほど小さな生きものは、猫にしろ犬にしろ見たことがない。なによりも、啓介の手のひらに乗ってしまいそうなこの小ささは、触るだけで壊れてしまいそうで恐ろしかった。 「……ん?」  黒い毛玉が、ちょこちょこと動いた。啓介が反射的に手を差し出すと、毛玉が指先に触れてくる。黒いかたまりの端がむにゅりと動いただけだったけれど、まるでそれが手を出してきたようで、お手をしてもらったような感覚に啓介は少し笑い、触れられた指を猫の咽喉を撫でるように動かした。 「きゅっ」  毛玉が、鳴き声をあげたような気がした。小さな声だ。ますます笑いを誘われた啓介はなおも指をくすぐるようにして、すると毛玉は手に体を擦りつけてくる。 「かわいいな、おまえ」  思わずそう呟くと、毛玉の金色の目がくるりと動いたような気がした。ただ金色なだけではない、その中心には黒の瞳孔があって、それがじっと啓介を見つめている。その目からは、人間の知性に近いものが感じられた。 「おまえ……只者じゃないな」  こうやって埃っぽい道端に転がっているけれど、決して野良などではない。おそらくどこかの家で飼われていた、高級なペットだろう。啓介の知識の中、強いて言えばハムスターあたりに見えなくもない。たまにペットショップに立ち寄れば、小さなハムスターでも驚くような値段がついているものもあるのだ。艶々した毛並みや瞳の輝きからも、これは最高級のハムスターに違いない。 「ハムスターのこととか、全然知らないけどさ……」  そう呟く啓介を、毛玉がじっと見ているように感じた。 「おまえ、脱走してきたのか?」  そう声をかけると、返事のつもりなのかなんなのか、黒い毛玉は啓介の手に身を擦りつけてくる。そのまま手のひらに乗ってきた。毛並みの艶が心地いい。もうひとつの手で、啓介は毛玉をふわふわと撫でた。 「首輪とか、ないしなぁ……」  そもそもハムスターに首輪をつけることがあるのかどうかは知らないが。毛玉を手の上に乗せたまま、啓介はまわりをきょろきょろと見まわした。  目に入る人々はたくさんいても、啓介たちのほうを見てはいない。誰もが忙しそうに早足で、なにかを探しているようなそぶりの者は見当たらなかった。  通行人をしばらく見やり、また啓介は自分の手の上に目をやる。毛玉は小刻みに身を震って、その金色の瞳でじっと啓介を見つめてくる――ような気がする。 「とりあえず、うちんち来るか?」  毛玉が頷いたように感じられた。 「おまえみたいな高級そうなのに満足してもらえるかはわからないけど……おまえ、なに食べるんだ?」 「きゅきゅっ」  毛玉はまた鳴き声をあげた。それが返事のように聞こえて、啓介は微笑んだ。 「キャットフード、とかではなさそうだし。とりあえず、ミルクかな?」  独り言とも、毛玉に話しかけるともなく呟きながら、啓介は歩き始めた。毛玉は手の上でそわそわとうごめきながら、何度も啓介のほうを見ていたような気がする。

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