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第2話

 ポケットから鍵を出して、がちゃがちゃいわせながら啓介は自宅のドアを開けた。 「ただいま」  ひとり暮らしの家の中から、返ってくる声はない。習慣で声をあげただけで、啓介も応えを期待しているわけではなかった。手の上の黒い毛玉を落とさないようにしながら靴を脱ぎ、廊下の明かりをつけて奥へと歩く。 「ここらへんで、待っててな」  そう声をかけながら、毛玉をベッドの上にそっと置いた。毛玉は驚いたように少しだけ体を跳ねさせたが、すぐに身を落ち着かせた。高級ペットにはとうてい似つかわしくないけれど、居心地はよかったのかもしれない。  それを見届けて、啓介はキッチンに入る。浅い皿にミルクを半分ほど注ぎ、電子レンジにかけた。温めすぎてもいけないだろうと、すぐに取り出す。こぼさないように皿を持って、ゆっくりとベッドのある部屋に持って入ると、毛玉はその金色の目をくるくるさせながら、まわりを見ているようだ。 「おまえんちほど立派な家じゃないけど、ごめんな」  もちろん、毛玉が住んでいたのであろう家を知っているわけではないけれど。それでも啓介の想像の及ぶ限り、たった1Kのこの家よりは豪華なところだろう。啓介はテーブルの上に温めたミルクの入った皿を置いて、再び毛玉を手に乗せると皿の前に座らせた。 「これも、おまえの口に合うかどうかわからないけど……」  そう言いながら、ミルクの皿を少し動かしてみる。毛玉が金色の瞳を輝かせたように見えた。それはもそもそと体を動かして、皿に近づくとぺろりと赤い舌を出す。 「うわっ」  啓介は思わず声をあげた。毛玉は「なに?」とでも言いたげに目を動かして、啓介のほうを見た。 「そこが口なのか……」  今まで黒い毛に埋れている目しか意識していなかったので、驚いた。そんな啓介には構わず、毛玉は赤い舌を出してミルクを舐め始める。  実家でも今の家でも、ペットには縁がなかった。だから目の前の光景は珍しい。思わず啓介はしゃがんで、毛玉がミルクを舐めている姿をじっと見つめてしまった。 「きゅきゅ……」  見られているのが嫌なのか、毛玉は舌を引っ込めて目を動かす。その鳴き声が不満を訴えているように聞こえて、啓介は笑った。 「あはは、ごめん。なんだかかわいくてさ」  啓介は指を伸ばして、毛玉の背中に当たるであろう場所を撫でる。 「お? 嫌だった?」  毛玉がぶるりと身震いをしたので、啓介は指を引っ込めた。すると毛玉はねだるような、それでいて落ち着いたような目つきをする。また皿に向かって舌を出して、皿のミルクを全部舐めてしまった。 「早食いだな……こんな、小さいのに」  毛玉は何度か目をしばたたいて、そしてぴょんとテーブルを蹴った。 「うわっ!?」  啓介は驚いて、その場に尻餅をつく。驚くべき反射を見せた毛玉は、そんな啓介の足にじゃれついた。 「わわっ!」  一見すると、啓介の足にもこもこと黒い毛玉が擦り寄っているだけだ。しかし毛並みの奥に隠れて見えないだけらしく、小さいながらも手足の感覚がある。それが靴下越しの足をくすぐってきて、啓介は笑った。 「やめろよ、くすぐったい!」  そうは言ったものの、小さい生きものにじゃれつかれるのは悪い気分ではない。啓介は笑いながら、また手を伸ばして毛玉を撫でた。毛玉は先ほどのように嫌がる素振りを見せなかった。それどころかもっと撫でてくれとでも言わんばかりに指に体を押しつけてきて、それをたまらなくかわいいと思った。 「おまえは、どこの子なんだろうなぁ?」  啓介は両手を伸ばして、毛玉を持ちあげた。水をすくうようにした両手の中に、毛玉はすっぽりと収まってしまう。そこで毛玉は、じたばたとうごめいた。 「おまえの家を探す前に、病院に連れていったほうがいいかな? 食いものも、ミルクだけじゃだめだろうし……」  そもそも啓介は、この毛玉を見たことのない種類のハムスターだと思っているが、その確信はない。ミルクどころかとても高級な餌を与えなければならないかもしれないけれど、拾った以上それは啓介の負担するべき義務だろう。そのようなことを言うとお人好しだと、勇希あたりにはまた笑われるかもしれないけれど。 「ん?」  手の中の毛玉がぶるりと震えた。それがやけに大きな震えかたで、啓介はぎょっとする。 「おまえ、どうした……」  啓介は驚いて目を見開いた。 「……あ、ああ……っ?」  目の前が、まるで煙が立ち込めたかのように白くなる。それに包まれて、自分の手も毛玉もなにもかもが見えなくなった。それでも感覚は伝わってくる。啓介は思わず手を床についてしまい、毛玉を落としてしまったかと慌てた。 「え、ええっ!?」  立ち込めた煙らしきものは、驚く啓介を取り残して徐々に消えていく。啓介の手から毛玉の感触はなくなっていて、煙が晴れた視界には、もっと驚くものがあった。 「……あ、あ?」  思わず間抜けな声をあげてしまう。啓介は何度もまばたきをした。目の前に、今まではなかった壁がある。最初、啓介を襲ったのはそんな感覚だった。 「な、に……?」  繰り返しまばたきをして、しかし目前の光景に変わりはなかった。それでもそこにあるのが壁ではなく、人の形をしたなにかであることは感じ取れる。  思わずのけぞって後ろに手をついたまま、啓介は言葉を失っていた。目の前にいるのは、啓介よりもかなり背の高い人物だった――床に膝をついているけれど、見あげる位置に顔があることからそう推測できる。 (……顔?)  さっきまで啓介が見ていたのは、黒い毛玉ではなかったか。手のひらで包めてしまうくらい、小さい毛玉――それが視界を阻むほどに大きな人影になっているとは、どういうことか。 目の前の人物は、やたらに整った顔を歪める。彫りの深い目もと、形のいい鼻筋に口――薄く血色の悪い唇は酷薄な印象を与えるけれど、同時に奇妙なほどに視線を奪われた。 「なに……ごと?」  掠れた声でそう言って、繰り返しまばたきをする。そこにある姿が啓介の目にはっきりと映り、大柄な男性だ、と認識できたときに彼は少し、啓介の目の前から遠のいた。 「誰……?」 「ここは、どこだ」  男性はそう言った。低く響く、耳に心地いい声だと思った。思わずその声に聞き入った啓介は、はっとする。 「あ……え、と……俺んち、です」  うわずった声でそう言った啓介を、訝しむように彼は見た。金色に輝く瞳だった。どこの国の血を引けば、このような目の色になるのだろうか。啓介は、同時に彼が長く艶々とした黒髪であることに気がついた。 (あの、毛玉みたいな……?)  頭の中に、そんな連想が浮かんだ。しかしいくら同じ色であろうと、毛玉とこの男性に関連性があるなどとばかなことはあるまい。またまばたきをして、混乱する思考を整理しようとした。 「おまえの……?」  目の前の彼は、信じられないことを聞いたというような声をあげる。歪めた顔つきに目を奪われながら、啓介は必死にこくこくと頷いた。 「おまえの、家だと……?」 「は、い」  男は腑に落ちないというような憎々しげな声をあげる。しかしそれは啓介も同じだ。長髪の男だというだけで、啓介の日常においては異端であるはずなのに、妙にしっくりと目に馴染むのはその身につけている衣服がまるで昔の西洋の、騎士かなにかがまとっているもののようだったからだ。 (コスプレ? とかじゃないよな……?)  啓介は懸命にそう考えた。目の前に、日常ではあり得ない存在があることを自分に納得させようとする。しかしその姿には違和感がなさすぎた。彼が見慣れた自分の部屋にいることは理解できないけれど、その姿だけを見ると全体的にあまりにも嵌まっていて、むしろ背景になっている自室がおかしいのではないかと思ってしまうのだ。 必死に頭を巡らせている啓介はどのような表情をしていたのか、男が近づいて顔を覗き込んでくる。 「うわぁ!」  思わず妙な声をあげてしまった。日常に馴染みのないものが近づいてくる感覚は、美しいものであろうと醜いものであろうと、身動きを忘れるくらいに驚愕してしまうという点は同じらしい。 「なんだ、その声は」  男は不機嫌そうに言った。自分がその原因であるとは、思い及んでもいないようだ。 「おまえは……誰だ」 「え、と」  啓介は声を淀ませた。ここは普通に自己紹介をするべきシチュエーションだろうか。 「池谷啓介です……」  名乗る以外に言うべきことが見つからないので少し震える声でそう言うと、男はきらめく金色の目でじっと啓介を見つめてきた。 「あ、なたは……誰ですか……?」  男は少し苛立ったような顔をした。怒らせたのかと思ったが、しかしとりあえず名前くらい訊いておかなければ、話をすることもできない。 「グエンダルだ」 「……え?」  いきなり耳に入ってきた不可解な言葉を、思わず聞き返す。目の前の彼は、ますます煩わしそうに目をすがめた。 「知らぬのか? 我が名を」 「あの……すみません」  反射的に謝ってしまった。男は歪めた表情を緩めない。そのような顔をしても欠点が見つからないというのは、それ相応の美貌なのだろう、と頭の遠いところで思ったけれど、今の啓介にはそれを実感できるだけの余裕がない。

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