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第3話
「グエンダルだ。ルシファーさまの配下で、魔王……」
「はっ」
その男があたりまえのように言った言葉に、思わずおかしな声をあげてしまった。彼の言ったことを遮ってしまったことに気づいて、慌てて口を噤む。
「えと、すみません……」
そしてまた謝ってしまった自分に、情けない思いをした。すぐ謝るのは日本人の悪い癖だなどと思いつつ、しかし目の前の彼はどう見ても日本人ではないのだから、そのようなことを気にする必要はないとも考えた。
(そんなこと、考えてる場合でもないと思うし……)
とにかく突然目の前で起こった異変に、啓介はついていけないでいる。それでも懸命に理解しようとして、聞いた言葉をもう一度繰り返した。
「ま、おう……?」
「ああ」
グエンダルと名乗る男は、煩わしそうにそう答える。目の前に現れたときから彼は怯むくらいに不機嫌そうな顔をしていたけれど、それが一段と極まったように感じて恐怖を覚える。啓介は腰を引いて、彼から離れようとした。
「私は魔王、グエンダルだ」
「は、あ……」
勝ち誇るようにそう言ったグエンダルを、啓介はじっと見た。いい大人がコスプレなどして、おまけに真面目な顔をして子供騙しを口走っている。目の前の光景を、そういうふうに理解することもできた。事実啓介にも最初は、そのような印象しかなかったのだ。
(で、も……この人、嘘ついてない)
なぜかそれだけは信じられた。なんの根拠もなく、ただ啓介の第六感とでもいうべきか。目の前の男は、嘘だけはついていない。
(この人がなにを言っても、どんなおかしいことでも……少なくとも、嘘じゃないんだ)
啓介は、ひとつ大きくまばたきをした。訝しそうな顔をしているグエンダルを、じっと見る。
(魔王、って……頭に山羊みたいな角が生えてたり、しないんだな)
今まで啓介が知っていた魔王の姿とは、まったく違う。もっとも啓介の知識は子供のころ読んだ絵本などからであって、作者の想像力で描かれたそれが『本物の魔王』を描写しているとは限らない。
(すっごく、きれいだし。イケメン……ってか、ものすごい、美形……)
戸惑いながら思考をあさっての方向にまわしている啓介をしばらく見つめていたグエンダルは、顔をあげた。金色の双眸で、あたりをきょろきょろと見やっている。その仕草は、なんだかかわいらしい。
「人間の……棲家か」
グエンダルはため息をついた。
「このようなところ……私が足をつけるようなところではない」
吐き捨てるようにそう言うグエンダルは、体を起こした。床に立って、ベランダに出るガラス戸にまで歩いていく。
「ここは……」
啓介に問うとも、独り言ともつかない口調でグエンダルは言った。外の景色に、何度目かになるため息をついた。
「ギュスターヴのやつ……私をこのようなところに飛ばしおって」
「……ギュスターヴ?」
思わず訊き返した啓介を、グエンダルは鬱陶しそうに見やる。金色の目が、きらりと光った。それを「美しい」と思う余裕が、啓介には生まれていた。
「それは……どなたですか? やっぱり、魔王?」
グエンダルは啓介を睨む。そのまなざしは確かに恐ろしいけれど、この短時間で何度も同じような視線を投げかけられて、もう慣れてしまった。
「そうだな。私の……縁ある者だ」
「友達とか?」
啓介がそう言うと、グエンダルの視線はますます厳しくなった。
「いたずらで私に術をかけ、このような場所に飛ばすような者が友人なのならばな」
「いたずら?」
魔王、という不可思議な存在に、友達がいるとは。それにいたずらされるとは。理解できない話とよくわかる話が混在して、啓介はますます混乱した。
(いたずらで、異世界? に飛ばされるとか。ギュスターヴさんと、いったいどういう関係なんだ?)
しばらく外を見やっていたグエンダルは、啓介のほうを見てこちらに戻ってきた。顔をじっと見つめられて、思わず全身で緊張してしまう。
「あ……なに?」
「顔は、悪くないな」
そう言ってグエンダルは、啓介の顎に指をかけた。ぐいと上を向かされて、どきりと大きく胸が鳴る。
「啓介とやら、気に入った。私の餌になる許可を与えよう」
「は、あ……?」
少しは彼の言うことがわかるような気がしていたのだけれど、やはりグエンダルと意思疎通を図ることは難しいらしい。彼の言ったことは理解不能で、啓介は大きくまばたきをした。
「わ、っ!」
グエンダルは大きな手で啓介の胸を押し、その場に押し倒した。敷物の上だったとはいえ、いきなりのことに床に後頭部を打ちつけてしまって痛みが走る。
「い、たた……」
啓介が自分の頭に手をやろうとすると、その手を掴まれた。ぎゅっと握りしめられて、痛みとともに戸惑いが走る。グエンダルが、そんな啓介の顔を覗き込んできた。
「美味そうな餌だな……なかなかどうして、悪くない」
「な、に……?」
啓介は、驚きのままグエンダルに問う。
「え、さ……? って、なんですか……?」
グエンダルは、にやりと笑った。あまりにも美麗なその笑みに視線を吸い込まれそうになったが、続けて聞かされたグエンダルの言葉に、思わず大きく目を見開いてしまう。
「私が魔界に帰るための、力になってもらうのだ」
「魔界……?」
また新たに、非現実的な言葉を聞いた。頭の上に「?」を乗せたままの啓介を、グエンダルが明らかに面倒そうに見やっている。
「そうだ。私の世界……私が住んでいた世界。私が本来、生きる場所だ」
「魔界、ですか」
目の前のグエンダルが幻ではなく、実在しているということはようやっと理解できたけれど、そんな彼は魔界からやってきたという。新たに非現実的な言葉を出されて、啓介はもう、どこからが信じるべきことでどこからが疑うべきことか、わからなくなってしまう。
「そうだ。このように空気の汚れた地には、いたくはないのだが……帰るための力が、不足している」
忌々しそうにそう言って、そしてグエンダルはじっと啓介を見た。彼のきらめく金色の目がすがめられる。赤い舌が、酷薄に薄い唇を舐めた。
(う、っ……)
背中にぞっと、嫌な予感が走った。それがなんなのかわからないまま、啓介は何度も身震いをする。
(な、んか……嫌なことが、起こりそう)
理解できないながらに、それだけは確かなことだと感じた。
(俺が、望んでないこと……絶対に拒否したいのに、拒否できないことが起こる)
そのような予感は、間違っていると笑い飛ばしたいのに。
「あ、あ……っ!」
反射的に啓介は声をあげた。グエンダルが顔を近づけてきたのだ。彼の薄い唇が、啓介に触れる。正確には啓介の唇に、だ。
「うあ、ああっ!?」
「ふん……それなり、だな」
グエンダルはそう呻くと、にやりと笑う。そのまま唇を深く押しつけてきた。
「ん、んっ!」
奇妙なほどに赤い舌が啓介の唇の上を這う。ぺちゃぺちゃと舐められて、たまらなくぞくぞくするものが背筋を走った。
「この程度で……反応しているのか?」
嘲笑うようにグエンダルが言った。そんな彼を睨みつけたいのに、しかしふたりの顔は焦点が結べないほどに近くにある。グエンダルの金色の瞳が、ぼんやりと見えた。
「こらえ性がないな……これくらいで反応するとは、この先が思いやられる」
「ん、な……っ……」
グエンダルから逃げたくて、啓介は精いっぱい体を動かした。しかし彼の体は少しも動かない。それどころかますます接触されて、啓介はまともに呼吸することもできなかった。
「あ、あ……あ、あっ……」
繰り返し唇を舐められる。するとそこは、まるで溶けたかのようにゆるりと開いた。
「いい子だ」
笑いながら、グエンダルが呟く。子供扱いされていることを怒ればいいのか、それとものしかかってくる彼を押し返すこともできない自分が悪いのか――啓介が身悶えすると、押しつけられるキスがますます深くなった。
「い、や……あ、ああっ……」
グエンダルの舌が、啓介の口腔をぐるりと舐める。彼の舌は熱く、触れたところが火傷しそうだと思った。今まで知らなかった衝撃が与えられるたびに、啓介の体はひくひくと動く。グエンダルはそんな啓介の肩を、腕を、そして手のひらを宥めるように撫でた。
「ん、あ……あ、ああっ……!」
「なかなか、いい味をしている」
感心するようにグエンダルが言った。啓介は、いつの間にかつぶっていた目を開ける。ぼやけた金色が見えて、思わず大きく息をついた。
「ふん……どうした」
「あ、あ……っ……」
吐息でさえ、グエンダルに舐め取られてしまう。歯列を、上顎を、そして頬の裏をくすぐられて、しかし伝わってくるのはくすぐったさではない。先ほど背筋を走った悪寒、それ以上に感じさせられて思わぬ声が洩れてしまう。
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