1 / 16

第1話 別荘管理人

 汽車が、大きな音を立てて辛夷沢駅こぶしさわに止まった。ボーっと汽笛が鳴って、乗客がばらばらと降りてくる。都会から田舎の避暑地へと伸びた線路も、ここが終着点だ。 客は皆、一様に疲れた顔をして大きな荷物を携えている。その中に、地味な身なりの若い男が一人いた。ひょろっとした体を折り曲げるようにして大きなリュックサックを背負っている。 ホームに降り立って見上げた空はどんよりと曇り、あちこちに雪が残っている。三月とは言え、山はまだ冬のようだ。 男は、寒さに驚いたように首をきゅっとすくめた。厚手のコートを着てくるんだったと、後悔しているのだろう。追い打ちをかけるように、駅前広場は、踏みつぶされて溶けた雪でひどくぐずついていた。改札を抜けて駅舎を出てすぐに、ゴム長靴も履いてくるべきだったと肩を落としたそうだ。  この男の名を、廣沢悟という。つい先日まで、早川寅蔵の東京の家で働いていた。 早川は、いわゆる戦争成金だ。田舎から一人飛び出して苦労の葉てに財を成した。そのまま数度の戦争をくぐりぬけ、戦後もうまく切り抜けて財産を膨らませ続けている。 人は、大金持ちになると、次に上流階級の暮らしが欲しくなるらしい。早川は、没落華族の家や別荘、美術品、調度、衣装にいたるまで、沢山買い集めた。その一つが、この山の避暑地にある別荘だ。戦前に建てられた、和洋折衷の大きな屋敷だ。  廣沢は、子どもの頃から早川の家で働いていた。 財産が膨らむのにあわせるように、早川の住む家はどんどん大きく豪華になっていく。その家を切り盛りするための人手が、必要だったのだそうだ。親にとっては体のいい口減らしだったのだが、廣沢悟にとっては、運が開けたも同然だった。田畑で働かなくていい上に、学校にも通わせてもらった。 他の使用人たちにも可愛がられて、恩を返そうと身を粉にして働いてきた。 状況が変わったのは、数ある別荘の中から一つを売ることにしたと聞いた時だ。 娘たちのために買った別荘ではあるが、戦後交通の便が良くなる気配もなく、冬は寒くてとても行く気になれない。そこで、価値のあるうちに売って、新しい別荘を買うことにしたのだそうだ。使用人たちも、家令からその話は聞いていた。とはいえ、主人の道楽について、使用人が何かを言うことなどありはしない。決まったことを、ただ受け止めるだけだ。なのに、廣沢は主人に呼び出された。そして、売った別荘の管理人になれと言う。しかも、住込みで。 「住込み、ですか?」 事情がよく呑み込めず、主人に問い返した。 早川は、心配ないと鷹揚に笑うばかりだ。別荘を売った相手、波多野修治という人間が、自分を別荘管理に欲しいと言っているという。 廣沢は、去年の夏に一度だけ行った事のある別荘を思い浮かべた。と、同時に、豪邸で見かけたことのある波多野の面影を思い出す。涼しい避暑地に似合う、白っぽい背広とソフト帽。ネクタイと帽子に巻かれたリボンの焦げ茶色をくっきり覚えている。だからといって、自分自身が波多野の記憶に残るような関わり方をしたとも思えない。何故自分なのかと問うと、主人もわからないという。小さく肩をすくめて、決まったことだと言うだけだった。  こうして、長年働いた早川の家を出て、主人を変えた別荘に行くことになった。しかし、あまりに突然で、どんな準備をしたらいいかわからない。 家令に相談すると、波多野から連絡があるまで、今まで通り働きなさいと言ってくれた。仕事がないよりもずっといいと、今まで通りに働いた。 すると、十日ほどたって、手紙が届いた。そこには、これからの事が、細々と書いてあった。 別荘住込みの管理人になってほしい、給金は毎月いくら、別に管理費がいくら、5月には別荘に泊まりに行きたいので、使えるようにしておいてほしい、と。 そして、条件を清書した契約書も別便で送られてきた。 やはり家令にそれを見せると、きちんとしたものだと太鼓判を押してくれた。ここに判を押して、新しい主人と交換しなさいと教えてくれた。 判子など持っていないというと、餞別だと言ってきちんとした印鑑作ってくれた。 その後も、何度か手紙をやり取りして、出発の日取りが決まった。 こうして廣沢は、それほど多くない身の回りの品と手紙と印鑑を背中にしょってやってきた。 そして今は、暗くなる前に別荘にたどり着かなくてはならない。 それにしても、困った。 道順はわかっているが、徒歩でどの程度かかるのかわからない。駅前交番の巡査に聞いてみると、ここから徒歩で30分程度だという。地元の人間がそういうのだから、その倍はかかるとみていいだろう。 廣沢は、礼を言って交番を出ると、また深く溜息をついた。気持ちが挫けそうではあるが、とにかく歩くしかない。 そう思った矢先、道の向こうから馬を引いた男が歩いてくるのが見えた。あの馬が、荷物を乗せてくれたらどれ程楽だろう。そう思って、ぼんやり見つめていると、馬を牽く男が手を振った。 明らかに自分に向けて振られた手だとわかっても、どうにも心当たりがない。 首をひねっているうちに、男と馬は目の前にたどり着いた。 「廣沢さんですね?お迎えにあがりました。水野と申します」 そう挨拶をした男が、耳まで深くかぶっていた帽子をとった。短く刈った髪、横一文字に真っ直ぐな眉と並行する線のような目。廣沢は、途端に彼が誰かを思い出した。 「確か、別荘の庭木を手配してくれた方ですよね?どうして、ここに」 「波多野様から、迎えに行ってくれと電報が届きました」 そう言うと、水野は馬の背に括りつけておいたゴム長靴を、廣沢の足元に置いた。 「え、これ?」 「履き替えてください。まだ雪が残ってますから」 「ありがとう、ございます。じゃあ、別荘まで道案内を?」 「はい。荷物を」 水野は、廣沢が返事をするより早くリュックサックを奪い去ると、手際よく馬の背に乗せた。 その様子にぽかんとしていると、振り返った水野が廣沢の足元にしゃがんだ。 「え?」 「転ぶと濡れるんで、肩に手を乗せてください」 「あ、ありがとうございます」 廣沢は、口の中でもごもごと礼の言葉をつぶやきながら、そそくさとゴム長靴に履き替えた。 脱いだ靴も、あっという間に荒縄でくくられて馬の背にひっかけられた。 「じゃ、行きましょうか」 水野は、馬の首を叩いてから、綱を引き始めた。ポカンと見つめるばかりの廣沢も、その後について歩き始めた。  駅は、山の中腹にある。そこからまっすぐの道はゆるやかな上り坂になっている。ぐずついた雪の下には溶けかかった氷もいて、思いがけない時にすべりそうになる。ゴム長が重たいうえに、転ばないように力を入れて歩くので、すぐに息が上がる。 額に汗も滲んできて、おかしいと思うがどうしようもない。気が付くと、水野との間も離れ始めていて、廣沢はむきになってぐいぐいと前のめりで歩いた。 すると、水野がちょっとと言って、馬を止めた。 「もっと肩の力を抜いて、足はまっすぐ下ろします。つま先に力をかけると、すべります」 訥々とではあるが、水野は心配げに廣沢の様子を伺いながら、教えてくれた。 廣沢は、額の汗を手ぬぐいで拭ってから、ほっと息を一つはいた。 「歩き方が、あるんですね?」 そうだと水野は頷いて、手本を見せてくれた。 それから再び歩き出すと、さきほどよりもずっと体が前に進む。どうやら、やり方がまずかったらしい。 少しだけ歩くペースを落として、二人と一頭は、ゆるやかな坂道をのぼっていった。  廣沢が、教えられた通り律儀に雪道を歩いている隣で、水野は別のことを考えていた。 波多野は、廣沢に自分のことを伝えていないのだろうか。さっきの意外そうな顔からすると、きっとそうなのだろう。 植木職人の下っ端だった自分も、廣沢と同じように波多野に雇われた口だ。別荘管理などしたことがないと怯んでいると、君は君のできることをしてくれればいいんだよと言う。柔和な笑顔で押しが強い。 結局、庭木や垣根の手入れを中心にということで、波多野の別荘で働くことになった。 今日は、廣沢という人が到着するので迎えに行ってくれと言われて来た。名前を聞いてもピンとこなかったが、顔を見てすぐにわかった。去年の夏に一度だけ来た早川一行の中にいた。若い男は彼一人だったので、覚えていた。 さて、うまくいくものだろうかと不安がよぎる。こんな田舎ものと、都会で大きな屋敷で働いてきた人とでは、同じ使用人といって身分が違うのではないかとも思う。その上、今までも自分の口下手がもとで、近い年頃の男とは揉めることが多かった。うんと年が離れているといいのだけれど。 そんな事を思いながらちらと横眼で廣沢を見ると、すぐ隣を一生懸命に歩いている。先ほどの助言に素直に耳を傾けてくれたところを見ると、田舎者と自分をバカにするような態度は取らないかもしれないと、少し安堵の気持ちも沸く。 額に汗が光っている。水野の視線に気づいたのか、ふと目を合わせて何か?と目で問うてくる。水野は、何でもないと首をふって、視線を前に戻した。 やや平坦だった駅前通りから商店が立ち並ぶ大通りに入ると、坂は急になる。そこをえいやと登っていくと、赤い郵便ポストが見える。 「ここを、右に入ります。……ここからは、道も平らです」 はいと頷いて、廣沢は水野についていく。 道を曲がってしばらくいくと、また道にぶつかる。さきほどの大通りと並行で走っているようだ。 「これも、越えます」 廣沢は、やはり頷いてついていく。 交差した道を渡ると右手に教会を見ながら細い路地を入っていく。去年の夏に車で通った時、一台分しか道幅がないと思ったことを思い出す。 この細い道を10分ほど行くと、とたんに目の前が開ける。 「着きました」 「うわ……」 一年ぶりに見る別荘は、屋根に雪が残って、夏とはまた違った美しさを見せている。 廣沢が雪景色の別荘に見とれている間に、水野は馬を連れて建物の裏手に回った。もちろん、廣沢は後についていく。 裏手には、井戸に面した土間がある。水野は、馬の背から荷物を下ろして、水を飲ませていた。それから、何か食べ物を口に運びながら、首や背中を撫でながら何か声をかけているようだった。 「あ、あの。連れて来ていただいて、ありがとうございました」 廣沢が声をかけると、少し驚いたように肩をぴくりと揺らしてから、水野が振り返った。 「ああ、すみません。馬を返さないといけないので、あなたが後回しになってしまった。こちらに」 そう言って、水野は土間の奥に廣沢を促した。廣沢は、すみませんと会釈をしてから、土間に入った。 暗い土間は、外よりは幾分暖かい。長い汽車旅の後、延々と歩いてきた。正直座り込んでしまいたいが、やっておきたい事がある。 廣沢は、縁側に下ろされた荷物をざっと確認すると、すぐに馬の世話をする水野の傍に戻った。 「お疲れでしょう?すぐに馬を返してきますから、少し待っていてください」 「はい。あの、私も撫でてもいいですか?」 水野は、何も言わずに場所をあけた。廣沢は小さく頭を下げて、それから、手のひらをそっと馬の背中に当ててゆっくりと撫でおろした。 「ありがとう。荷物、重かったろう。助かったよ」 馬は、聞こえているのかいないのか、耳をブルルっと回して鼻息を大きく吐き出した。 「大人しい子ですね」 廣沢は、そう水野に話しかけた。 「はい」 水野が、その通りだと返事をしたその時、二人の視線がふわりと絡んだ。ほぼ初対面ではあるけれど、そこには親しみに近い暖かな気持ちが行き交っている。 なんとなく。 理由もなく。 仲良くなれるんじゃないだろうか。 廣沢の心の中に、そんな親近感がわいた。 できたら、そんな気持ちを相手も感じてくれたら嬉しいと思う。 だから、水野に向かってにっこりと笑って見せた。 大きすぎると揶揄われるばかりの目がなくなるほど細くして、目じりにくしゃりと皺をよせて。 水野は、それを見て、数度パチパチと瞬きをした。それから、ごくわずかに口元を緩めて、首をかしげて帽子ごと髪をくしゃくしゃとかきまぜた。 「あの、馬を、あの戻してきますんで、その土間から中にあがって待っててください。その仕切り戸の向こうです」 それだけ言うと、水野は廣沢を置いて行ってしまった。 もう、陽が山際にかかりはじめている。 寒さがきつくなる前に、家の中にはいったほうがいい。 それはわかっているけれど、廣沢は、水野と馬の姿が見えなくなるまで、その背中を見つめていた。

ともだちにシェアしよう!