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第2話 暖を分け合って
水野の背中を見送っているうちに、陽はどんどん傾いていく。春の彼岸を過ぎたとはいえ、山の日没は早い。
土間に戻った廣沢は、すっかり暗くなる前に、天井の梁から下がる電球の根元をひねって明かりをつけた。
少々暗いが、土間と奥行きのある上がり框の様子が見えるようになった。
框に上がって数歩先にある引き戸の向こうには、台所がある。引き戸のすぐ左には二階に続く階段が壁沿いに伸びている。どんな様子かと床に触れても、指に埃が付いてこない。奥にしまってあったはずの薪ストーブもだしてある。きっと、水野がしてくれたんだろうと、ありがたく思う。
とりあえず、上がり框の縁に腰をかけて待っていようと思ったが、ぐんぐん空気が冷えてくる。
廣沢は、薪ストーブは使えるだろうかと、框にあがってみた。
ストーブの小さな扉を開くと使った様子がある。マッチは持っている。薪は、土間の入り口近くに積んである。後は、反故紙か新聞紙があれば、ひねって火を点けるだけだ。
さて、どこにあるだろうと土間をうろうろしていると、水野がもどってきた。
「どうしました?」
「ストーブに火を点けようと思って」
「冷えてきましたね。そっちは俺がやります。これ、どうぞ」
そう言って、水野は廣沢に綿入れ半纏を手渡した。
「え?」
「馬を返してきたんですけど、そこのばあさんが貸してくれました。都会の人にここは寒いだろうからって。あと、握り飯もあるんで食べましょう」
「ありがとう」
早速袖を通すと、すぐに背中がじんわりと暖まり始めて、すっかり体が冷えていたことがわかる。
「これは、助かる。ストーブは君に任せるとして、私は」
何かできることはないかと、目を斜め上に向けて思案していると、水野はヤカンを見つけてほしいと言う。
「多分台所にあると思うんですけど、勝手に入るのは憚られて探してないんです」
確かに、寒い夜には熱い湯が欲しい。
廣沢は、わかったと、やっぱり少し大げさに笑顔を見せた。
今までは、こうやって初対面の人とうまくやってきた。すこし、いい恰好しすぎているかなと思わないでもないが、なるべく良好な人間関係を築きたいと思っているのは、嘘ではない。
その証拠に、大抵の人は笑顔を返してくれるし、不愛想な人でも嫌な顔をされたことはない。
なのに、水野は少し違う。ちょっとだけ眉間に皺を寄せて、口元をゆがませる。
何か気に入らないのだろうかともう思うが、相手の人となりも立場もよくわからない。廣沢は、ストーブをまかせて、台所との間の引き戸を開けた。
案の定、台所も暗い。土間からの明かりを頼りに電球のスイッチをいれると、以前ここへ来た時に見た記憶がおぼろげに戻ってくる。
壁面に作り付けになっている戸棚が、三つある。その内二つは、ガラス扉のついた食器棚。もう一つは、扉のない木枠だけといった棚で、鍋釜ヤカンといった道具類が重ねて置いてある。
ヤカンはすぐに見つかったが、湯飲みも必要だ。食器だなの一番下の扉を開けた。
中には、使用人用の食器が雑多に積み上げられていた。手前の皿を動かすと、すぐそこに白地に紺色の輪模様の湯飲みと揃いの急須を見つけることができた。
台所の蛇口をひねると、水がすぐに出た。指を濡らすと、覚悟したほどには冷たくない。
山の井戸水らしいなと思いながら、ヤカンにたっぷり水をためた。
重いヤカンと湯飲みを持って戻ると、空気がほんのり暖かい。ストーブの火が燃えているのだ。
カランと乾いた音がして、少し間を置いてパチパチと薪の燃える音がしてくる。
暖かいほうに視線を向けると、燃える火に明るく照らされて、水野の横顔がくっきりと浮かび上がっていた。付け根からぐっと高い鼻の先は意外に丸い。
少しとがったような上唇の先と合わせて、表情の見えにくい顔立ちに愛嬌を添えている。
「ヤカンを、乗せてもいいかい?」
声をかけると、水野は振り返ってすいと立ち上がった。
「お願いします。廣沢さんも、火にあたってください」
大きく頷いて、廣沢はストーブに近づく。
「暖かいです。こちらは、まだまだ冬なんですね」
そう言いながらヤカンを乗せると、きちんと目を合わせて、また目じりを少しさげて見せた。すると、今度ははっきりと眉をしかめた。
廣沢は、視線をストーブに戻しながら、困ったなと小さく息を吐く。
波多野が電報を打って自分の迎えにこさせたという事は、これからそれなりに付き合いがあるはずだ。できたら、友好な関係を作っていきたいけれど、どうしたらいいかわからない。
しばらく二人でヤカンを見つめているうちに、シュンシュンと湯気があがってきた。
「廣沢さん」
唐突に水野に名を呼ばれた。なんだろうと横を向くと、水野の眉間には皺が寄ったままだ。
「こちらの別荘の、管理人になったと伺っています」
その通りだと、廣沢はやはり頷く。
「俺も、波多野さんに声をかけていただいて、こちらの庭や造作の面倒を見ることになりました。あの、ですから、一緒にここで働くということになるんですが」
ここまで話して、水野は言葉に詰まったように黙ってしまった。
廣沢は、体ごと水野にむけて、困ったような横顔に穏やかな視線を送る。
「波多野様がそう決めたのでしたら、それに従うだけです。これから、よろしくお願いします」
「いや、だから、住込みなんです。俺も」
「はい。この真上に使用人部屋がありますし、部屋数もありますから寝る場所はありますよ?」
水野は何を心配しているのだろう。廣沢は、どうしました?と小さく首を傾げてみせる。
「はい。それは、そうなんですけど、俺とでいいんでしょうか?」
「はい?」
今度こそ、わからなかった。
廣沢にとって、雇い主と使用人の関係は絶対だ。雇い主が決めたことに、否やなどあるはずない。だからこそ、少しでも仕事環境をよくしようと人間関係には気を配ってきたのだ。
「波多野様のお決めになったことですから。それに、水野さんのことは、まだ何も知らないですけど、親切な方だなと感じています」
少しわかりにくいけれど、という部分は飲み込んだ。
だが、その部分こそが、彼の不安の種だったようだ。
「どうも、口下手というか、態度が良くないのかもしれません。近い年頃の男には、付き合いにくいと思われることが多いんです。仕事だけならまだしも、住込みとなると。ほとんどの時間を一緒にいることになります。ダメだと思ったら、波多野様に言っていただいて」
「ダメかどうかもわからないのに?」
俯きがちになっていた水野の顔が、廣沢の言葉ではっと持ち上がる。
「わからない、ですか」
「はい。私たちは、まだ自己紹介もしていない。住込みで二人っきりは、確かに最初は不安かもしれません。でも、時間は沢山あるということでしょう。まず、知り合いましょう?」
廣沢は、今度こそ届けと笑顔を見せる。目尻の皺と上げた口角がひとつながりになるように。
それを見た水野は、やっとほっと大きくひとつ息を吐いて、眉尻を下げて泣きそうな顔で笑った。
「はい。はい。そうですね。あ、握り飯、食べましょう」
水野は、やっと肩の力が抜けたのか、素早く動き始めた。
隅につみあげられていた座布団を二枚引っ張り出してきて、廣沢にすすめる。促されるままに座布団に座ると、水野はその目の前に握り飯を置く。廣沢も、負けじと互いの座布団の間に握り飯を置きなおす。
ヤカンから急須に移した白湯を湯飲みに注いできた水野は、その握り飯と廣沢の両方を見比べて、困ったように笑った。
廣沢は、少し肩の力が抜けた水野と、一緒に手を合わせて「いただきます」と頭を下げた。
「明日、握り飯や馬のお礼を言いにいかないと」
「何かと世話になっているので、そうしてもらえるとありがたいです」
これから一緒に働くと言っているわりに、水野は廣沢に対してへりくだった態度を崩さない。
廣沢は、早く水野のことを知らないといけないなと、自己紹介から始めることにした。
「改めて、廣沢悟です。先日まで、早川の家で働いていましたが、元は百姓の子です。今年23歳になります。君は?」
「俺の名前は、水野正文です。植木屋の息子で自分も植木屋になりました。今までは親方の下で働いていましたが、これからはこちらでお世話になります。年は、19歳です」
「19!?」
「はい」
廣沢は、驚いてしまった。同い年か、年上だとばかり思っていたのだ。
「どうも老けて見えるみたいです。中学を卒業してすぐ働き始めてるので、そのせいかもしれません」
「それにしたって、落着いてるというか」
本当はそうでもないのだとでも言うように、水野は眉尻を下げて困っている。
「子どもっぽいより、ずっといいと思います。これからよろしく。少しだけ私が年上だけれど、同じ仕事仲間だ。言いたいことはきちんと言い合っていこう。それから、私は山での生活について何もわからない。東京はもうすっかり春なのに、こっちはまだ冬だろう?さっきだって、まともに歩くこともできなかった。遠慮せずに、色々教えてください」
そう言って、廣沢が小さく頭を下げると、水野は慌てて胡坐の膝を正座に直して、深く頭を下げた。
「こちらこそ、どうぞ、よろしくお願いします」
がばっと上げた顔は明るくて、廣沢と目があうと、自然に笑いがこぼれた。
「ああ、廣沢さん、笑うとそんな感じなんですね。その方が、ずっといい」
「笑う?」
「はい」
「君と出会った最初から、なんとか仲良くなろうと笑顔を大安売りしてたつもりなんだけどな」
やはり通じてなかったかと、苦笑いがこぼれる。
「笑顔?あ。ああ。そう、そうですね。すみません。なんか、怖いなって思ってました」
「怖い!?そうか。君には、作り笑顔は効かないんだね。よく覚えておくよ」
決まり悪そうに眉尻をさげる水野を見て、廣沢は肩を震わせて笑った。
☆
大きな別荘には、主人家族が使う居間や寝室のほかに、使用人たちの寝泊まりする部屋もある。二人は、これからその部屋で寝泊まりをする。
台所と上がり框を仕切っている板壁沿いに、質素だが頑丈な階段がある。その階段を登ると、そこに廣沢たちが使う予定の部屋が、南北に二つ並んでいる。
「部屋に行ってみましょうか」
水野はそう言うと、先に立って階段を登り始めた。廣沢は、リュックを背負ってその後をついていった。
並んだ部屋の南側の扉を、水野は躊躇いなく開けた。
「良かったら、こっちを使ってください」
明かりをつけると、六畳程度の畳み敷きの部屋だった。小ぶりな衣装箪笥が一つ、それと、南むきの窓の下には小さな書き物机がある。水野は、押入れの襖を開けた。
「布団は、ここです。寒くないように、あるだけ使ってください。一昨日干しておいたので、黴臭くはないと思います」
「ありがとう。掃除も、君が?」
「隣を使わせてもらうんで、ついでです」
申し訳なさそうな廣沢に向かって、水野は事もなげにそう言った。
廣沢は、カーテンを閉めようと窓の側によった。外はもう、真っ暗だ。
「こっちが南?なら、こっちの窓が東か。君の部屋は北側で寒くないのかい」
「はい。慣れてますから」
「そう言ってくれるなら、甘えることにするよ。確かに、この土地の寒さに慣れるまでしばらくかかりそうだ。それにしても、一人で一部屋とは贅沢ですね。とても広い」
確かにと、水野も頷く。
廣沢は、本当にこんな使い方をしてもいいものかと首を捻る。使用人というのは、家令や女中頭以外は全員雑魚寝と相場が決まっているのに。
「もしかして、一人は、苦手、ですか?」
しばらく考えていたら、水野が恐る恐る様子を伺うように聞いてきた。廣沢は、小さく吹き出すように笑って、違うよと手をヒラヒラと振った。
「いや。そうじゃないよ。ずいぶん待遇が良いなと思ってね。ありがたく使わせてもらうよ」
「じゃ、荷解きをしておいてください」
廣沢の様子に、水野はほっとしたらしい。明るい様子で、また下に降りて行った。
それにしても、これからここで暮らすのか。彼と一緒に。
─── 親切な人だと思うよ
さっきはそう言ったけれど、どちらかというとお人よしな部類ではないだろうか。初対面のどこの誰とも知れない自分を迎えるために、部屋の掃除をして、馬や握り飯を隣家に頼み、長靴まで用意してくれる。何か訳ありなのかと勘繰りたくなるくらいだ。
でも、きっとそうではないのだろう。彼は、そういう質なのだ。自分のことはさて置いて、露払いのように先に先に動いてしまう。そういう人は、働き者だが気付かれにくい。だからこそ、波多野は水野を雇い入れたのかもしれない。
そう思えば、これからの毎日は、過ごしやすいものになると思える。
ここで、彼と働こう。
そう覚悟の決まった廣沢は、リュックサックから荷物を取り出し始めた。手回り品をは書き物机の引き出しに、衣類は箪笥にしまった。少し冬物を買い足さないといけないなと思いつつ。
そして、えいと掛け声をかけるようにして立ち上がると、押入れの襖を開けた。詰め込まれた布団に鼻を近づけてみると、乾いた太陽の匂いがする。
ありがたいと頬を緩めて、一組布団を引き出してみた。
すると、少し困ったことがわかった。真冬のように寒い夜に、布団の厚みが心許ない。それにしてもどうしたものかと思案をしていると、トントンと戸を叩く音がした。
はいと返事をすると、がちゃりと戸があいて水野が入って来た。
「風呂、どうしますか?」
「そうだね。ここは、風呂だけは薪だからなぁ」
廣沢は、早川の家のガス釜付きの風呂を思い出して、口をとがらせる。
「風呂は明日にして、ヤカンの湯を使いましょうか」
そう提案した水野は、手ぬぐいを持ってついて来てくれと言う。廣沢は、言われた通りに、また階下に降りた。
上り框では、ストーブの上に置かれたヤカンは、相変わらず湯気を立てている。水野は、土間の壁にひっかけてあった盥を下ろして、その中に湯を注ぎ込んだ。
「お先にどうぞ」
「ありがとう。君も使うだろう?」
「はい。次の湯も、すぐに沸きますから」
だから、心配ないと水野は細い目を少し撓ませる。笑っているのだろう。
実際、熱い湯に浸した手ぬぐいで旅で汚れた顔や首を拭うと、さっぱりする。盥の湯に手足を浸すと、強張った体が緩んでいく。たったこれだけの事で、全身が暖まったように感じる。
「色々本当にありがとう。助かるよ」
何度目になるかわからない礼を伝えると、水野は照れくさそうに、頭を下げた。
それから、交代で水野も手ぬぐいを使った。その間に、更に追加の湯をわかした。後で、湯たんぽにするのだそうだ。
湯でさっぱりすると、ストーブの火を落として、それぞれに湯たんぽを持って二階に戻った。
「布団、作ってしまいましょうか」
水野は、そう言いながら、引き出しておいた布団を広げはじめた。
廣沢も、水野を手伝ってシーツの両端を持つ。せーのと声をかけて敷布団にシーツをかぶせると、角を器用に折り畳んで、ぴしりと布団の下に押し込んだ。
「シーツの角は、そうやって折るといいんですか?」
「昔教えられて、それ以来ずっとこうなんだ。君もやってみるかい?」
水野は、勢い良く頷いた。廣沢は、水野の横にしゃがんでシーツの折り畳み方を教えた。
「覚えが早いね。こうすると、皺なくできあがるんだ」
褒められて、はにかむような水野の笑顔は、今日一番柔らかなものになった。
その顔を見て、廣沢は一つ提案をしてみることにした。
「君さえ良かったら、今日はこっちに布団を並べたらいいと思うんだ。もう少し君と話しがしたい」
どうだろうと小さく首を傾げてみせると、水野の細い目が、驚いたと少し開いている。
「もちろん、嫌なら」
「いえ!そんなことは、ないです。あの、本当に?」
廣沢の言葉を最後まで聞かずに、水野は畳みかけるように問い返す。だから、嘘じゃないよと廣沢は言葉を重ねた。
「さっきも言ったろう?もっと君のことを知りたいんだ。君は?」
言葉にならない様子で、水野は大きく頷いた。
「なら、君の部屋から布団を持っておいでよ。布団に入って、もう少し話をしてから寝ようじゃないか」
それから水野は、いそいそと布団を持ち込んだ。そして、枕を並べて、おしゃべりを始めた。
早川の家には、子どもの頃に引き取られたこと。それまでは、百姓の子で馬は身近だったこと。働きながら、夜間高校に行かせてもらったこと。
植木職人の家の末っ子だということ。最初に手ほどきをしてくれた父親とは折り合いが悪くて、別の親方の元で修行をしていたこと。中学までしか出ていないけれど、もし時間ができたら本を読んでみたいということ。
「きっと、そういう時間もとれるよ。街に本屋はあるかい?」
「はい。でも、どれを読んだらいいかも、わからなくて」
ならば一緒に行こうと、廣沢は言った。
「本の中には、知らない世界が沢山隠れてる」
「知らない世界……」
水野にとって、それはあまりに漠然としていて、ピンとこない。それでも、廣沢の道案内に心強さを感じていた。
☆
いつしか夜は更けて、落葉松の林が揺れる音が遠くに聞こえてきた。風が出てきたのか、窓ガラスもカタカタと鳴っている。
耳をすますと、スース―という小さな寝息が聞こえてくる。
ついさっきまで、開いていた大きな目は閉じていた。
緊張と期待と不安の一日は、あっけなく終ろうとしていた。水野は、快い疲れと安堵を胸に、静かに目を閉じた。
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