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第3話 新しい茶碗

 辛夷沢の一帯では、井戸のポンプは大事な水の供給源だ。山から染み出した地下水は、海に近い東京と違って、清くおいしい。 廣沢が働くことになった別荘では、台所や、風呂、洗面所にはそれぞれ蛇口がついているが、裏庭にあるポンプ式の井戸も使っている。 夏場なら、そのポンプをがしゃがしゃと動かして冷たい水で顔を洗うのもいい眠気覚ましになるが、今はまだ、あまりに寒い。 水野は、朝起きるとすぐにストーブに火をおこして、土間を暖め始める。 「廣沢さん、夜は寒くなかったですか?」 「布団をきてる首から下はいいんだけど、顔が冷たくてまいったよ。夜中に、一度目が覚めてしまった」 「慣れるまで、少し大変ですね」 「そんなの、すぐさ。さ、風呂を沸かそう」 別荘の風呂場は、薪で沸かす五右衛門風呂だ。主人家族も使用人も、同じ風呂を使う。 廣沢が、風呂場に入って中を確認し始めると、水野は外に出て風呂焚きの準備を始めた。 「ところで、朝飯はどうしよう?こんな時間から開いてる店なんて、あるかい?」 格子窓の向こうから、蛇口から水の流れる音と一緒に、廣沢の声が水野の頭上に落ちてきた。立ち上がって見ると、格子のすぐ向こうに眉間に皺をよせた廣沢がいた。 大変重要な問題だと唸る廣沢を宥めるように、水野は大丈夫ですよと答えた。 「ばあさんに、頼んであります」 「昨日の?握り飯の?」 はいと水野がしっかり頷くので、助かったと、廣沢は安堵の溜息をつく。 「本当は、駅前で駅弁を買ってくるつもりだったんだけど、実は、雪に圧倒されて忘れてしまったんだ。ありがたい」 「もう少ししたら、仕度をしに来てくれると思います。先に風呂に入ってしまいましょう。お先にどうぞ」 風呂の順番は、きちんと決めようと思っていたのに、先手を取られた。 廣沢は、しゃがんだ水野の頭のてっぺんを見下ろしてみる。振り返って湯船の蓋を持ち上げると湯気があがりはじめている。これは、さっさと入ってしまったほうがいい。 着替えを取りに戻らなければと、階段を駆け上がった。 ☆  今朝の空は、どんよりと曇っていて風はない。そのおかげか、昨日ほど寒くない。 水野は、火かき棒で燃えた薪を崩して、次の薪をぽいと放り込んだ。 その薪にも、あっという間に火が燃え移る。直に、湯が沸くだろう。 薪の燃える音に耳を澄ませながら、立ち上がって空を仰いだ。煙突から立ち上がる白い煙は、灰色の雲に向かって、真っすぐ伸びている。上空で風が動くのか、時折ふわりと西から東に煙が流れる。そんな様を見ると、まるで家が生きているようだと思う。 そこに人がいるという事だけでなく、家そのものが拍動し呼吸をしているような気がして、なぜか嬉しくなる。 だから、空を漂っていく煙を見ると、つい見上げて目で追ってしまう。 振り返ると、窓格子の向こうの廣沢と目があった。火の加減を見ようと、慌てて釜の前に戻った。 「湯加減、どうですか?」 「熱いくらいで、よく暖まりそうだ。何を見ていたのか、後で聞いてもいいかい?」 水野は、また少し驚いたように目を開いて、それからしっかりと頷いた。 廣沢は、それを見て、目尻をくしゃりとさせて笑った。 ☆  「それで、さっきのは?」 風呂を終えた二人は、ストーブの前で白湯をすすりながら、朝飯の到着を待っていた。 「煙を、見てました」 「煙?」 「はい。煙が流れていくのを見るのが、好きなんです。家が、生きているような気がして」 伝わるだろうかと、水野は困ったように眉尻をさげる。 廣沢は、にっこり笑ってわかるよと頷いた。 「火を起こせば、暖かくなるしね。人と同じだ。空気を吸って、燃やして、体を温めて、また空気と煙を吐く。君が下準備をしておいてくれたおかげで、この家も機嫌よく呼吸を始めたようだよ」 「煙草の煙が流れていくのも、面白いです」 「君は煙草を喫うのかい?」 「修行中ですから。廣沢さんは?」 「仕事の合間にね。今はちょうど切らしてるんだ」 苦笑いをしながら、空の胸ポケットをぽんとたたいて見せた。 それなら、大通りで買い物をする時に煙草屋によろうと水野は言った。 「大通り?ああ、ここに来る途中の上り坂か。でも、店は皆閉まっていたろう?」 「別荘客相手の店は閉まっていますが、地元の人間が買い物をする店は、やってます。あとで行ってみましょう」 「それはありがたい。手持ちの金は少ないけれど、石鹸や歯磨き粉なんかも必要なんだ」 まったく困っているんだよと、廣沢は口をへの字にしてかくんと首を倒す。 その顔を見て、水野は思わず笑みをこぼした。つられるように、水野も目じりと頬をゆるめた。 すると、ガラリと音がして、引き戸が開いた。逆光の中に、小さな人影が見える。 「はい、おはよう」 「ばあちゃん、おはよう」 水野が、すいと立ち上がって、素早く土間に降りた。それに遅れないように、廣沢も急いで立ち上がるとぺこりと頭を下げた。 「おはようございます。昨日からこちらに参りました、廣沢悟と申します」 片手に鍋、片手に包みを抱えた小柄な老婆は、水野と目をあわせて、瞬きを繰り返した。 「こちらが?」 「うん。廣沢さん」 合点がいったと、老婆は、明るい笑顔を見せた。 「まぁ、都会の人は、やっぱり垢ぬけてるねぇ。初めまして。小林ツタと申します。政文とは親戚で、これは孫みたいなもんです。どうぞ、よろしく」 「ばあちゃんが、しばらく手伝ってくれます」 水野は、受取った鍋をストーブに乗せながら、二人の間を交通整理し始めた。 「しばらく?それは助かります。昨日も、握り飯と綿入れをありがとうございました」 「綿入れはそのまま使ってください。家族の着てたもんの御下がりですから、お気になさらず。さ、鍋が暖まったら、食べて食べて」 「ツタさんも一緒に」 廣沢は、座布団を用意しようとしたが、断られた。 「いやいや」 座るように誘ってみても、ツタは首を左右にふるばかりで、どうしました?という廣沢の視線を避けるように、水野に近づいていく。 「どうした?ばあちゃん。一緒に食えばいいに」 「なぁ、政文。こちらさんには、洗濯機があるって、本当かい?」 「洗濯機?あ、ああ、確かにある。それがどうした?」 よくわからんと水野も問い返す。ツタは、廣沢と水野の顔を交互に見やった後で、口を開いた。 「電気屋さんに聞いたんだよ。最新式なんだろ?一ぺん見せて欲しいんだよ」 「ばあちゃん」 水野は、困ったと眉を下げているけれど、ツタの気持ちもわかる。ツタは、新しもの好きなのだ。もしかしたら、噂を聞きつけてすぐに見に来たかもしれない。けれど、この家では外ではなく土間の端っこに洗濯機を置いているので、外からでは見えないのだ。 「あ、あの、廣沢さん、もし」 「いいよ。そもそも私の持ち物でもないけれど、見るくらいなら構わないだろう」 思いの外すんなりと許可されて、水野はほっとしてツタはわっと喜んだ。 「さあ、こっちです」 廣沢は、ツタを風呂場の隣に置いてる洗濯機まで連れていった。思う存分眺めていいと言って、水野の元に戻った。 「申し訳ないです。ばあちゃん、新しいものに目がなくて」 「気にすることはないよ。折角だから、温かいうちにいただこう」 二人は、遠くで洗濯機にしきりに話しかけているツタの独り言を聞きながら、熱い味噌汁と漬物と握り飯を食べた。 「いやぁ。大したもんですねぇ。あの最新式の電気洗濯機!」 ツタが興奮気味に戻って来た。 「綿入れのお礼ができて、良かったです」 廣沢はそう言いながら、ツタの分もお茶をいれた。今度は、ツタも素直に框にあがり、いそいそと水野と廣沢の間に座った。 「新し物好きなんだそうですね」 その言葉をきっかけに、ツタは廣沢に沢山質問をしはじめた。廣沢も、問われるままに東京の様子を話して聞かせた。水野は、それを聞きながら、漬物とを相手にのんびりとお茶を飲んでいた。 ☆  しばらくすると、外からゴトゴトと重たい音が聞こえてきた。その音は、次第に近づいてくる。 水野は、ちょっと様子を見てくると言って、外に出た。 裏から表にまわってみると、生垣の向こうに軽トラックが見える。その車が門の前に止まると、運転席から男が一人下りてきた。 背の高さは、水野と同じか少し高いくらい。見たところ、水野たちよりは10歳以上年上だろう。姿勢が良くて、分厚いコートと重そうな編み上げブーツを履いている。 「やぁ。朝早くから悪いな。君は植木屋?それとも、波多野が東京から呼んだ子?」 撫でつけられたくせの強そうな黒髪ときりっとした尻上がりの眉毛の下には、何を考えているのかわかりにくい垂れ目がにやりと笑っている。そのくせ、声音はずいぶんと優し気だ。 「俺は、植木屋です。あの、どちら様でしょうか」 「君が水野君か。俺は波多野の連れで、大通りの向こう側にある古道具屋だ。津田幸彦。とりあえず、門を開けてくれ」 「古道具屋さん?」 まだ若い水野には、縁のない店だ。津田と名乗る男の言っていることも、本当かどうかわからない。そもそも、地元で店をやっているというのに、言葉にまるで訛りがない。 「早くいれてあげなさい」 「ばあちゃん」 躊躇っている水野の背中に、ツタの声がぶつけられた。 「おはようございます。銀しろがね屋さんですよね」 さっさとしろとツタが水野の肘をつつく。水野は、半信半疑ながら、門を開けて車を誘導した。 軽トラックは、正面の車寄せではなく、裏の土間近くに泊まった。荷台には母衣がかけられている。何か積んできているらしい。 「水野君、どうしたんだい?あれ……確か、津田さま?」 廣沢が、土間から出てきた。どうやら、見覚えがあるらしい。 「廣沢さんは、ご存知でしたか」 水野が少しほっとすると、廣沢は、いいやと首を振る。 「波多野様とご一緒にいるのを、見かけた事があるだけだよ。あの、廣沢と申します。今日は、どういったご用件でしょう?」 「その波多野の使いさ」 津田は、そういうと、ばさりと母衣を外した。 そこには、木箱がいくつか積まれていた。 「君たち同様に、俺もこの家を準備するために駆り出されたというわけだ。大通りの反対側で、銀屋という古道具屋をやってる。これから、よろしく。早速手伝ってもらいたい」 まずは、木箱を下ろして台所に運び入れたいというので、水野と廣沢も手伝うことにした。 荷台に乗った津田が、木箱を持ち上げるとすぐ、ほいと渡す。それを、廣沢と水野が交互に受け取って、上り框まで運んだ。 大きさの割に重たい木箱の蓋をあけると、中には、新聞紙にくるまれた食器が収められていた。 「この家は居ぬきで買ったんだが、波多野の趣味に合わないものが多くてね。まずは、食器の入れ替えだ。君たちがまず気に入った茶碗や皿を選んで、残りは客用の食器と入れかえておいてほしい」 「私たちの食器、ですか?」 何を言っているのだろうと、廣沢が目をむく。 津田は、何を驚くと、肩をすくめる。 「波多野がさ、嫌なんだと。君たちにはここで働いてもらいたいけど、やつと君たちは主人と召使じゃない。お仕着せの茶碗じゃなくて、自分で好きなものを選んでほしいんだと。ああ、当座の金と給金も預かってきてるから、気に入らなきゃ、俺の店で別の品を選んでくれても構わない」 廣沢は、唐突な展開についていけない。あまりにも、今までの彼の常識から逸脱している。 翻って、水野はどうかといえば、津田の話に違和感はなかった。 実際、親方の元で修行をしていたとは言え、一般的な家庭に育った水野にしてみれば、それぞれが自分の茶碗一式を持っていることは、ごく当たり前のことだ。 どちらかと言えば、廣沢の困惑の方がよくわからない。 お金持ちの家で働くということは、そんなにも違うことなのだろうか? 水野の疑問には気づかない様子で、廣沢は津田に質問をした。 「入れ替えた食器は、どうなさるんですか?」 「俺は古道具屋だ。また、売るだけさ。勿論、売り上げは波多野と折半だがね」 廣沢は、納得できないとでもいうような顔をして、いくつか新聞紙をほぐして茶碗を板の間に並べてみた。 どれも、毎日使うのに良さそうな、落着いた茶碗や汁椀だ。同じ柄で揃いの長皿、柄違いの豆皿、大小の湯飲み、そして真新しい箸が幾組もある。 「波多野様とは、どんな方でしょう。私の仕事は、ずっと早川様にお仕えすることでした。主人の命じるままに働く使用人でした。召使じゃないと言われても、どうしていいかわかりません」 廣沢は、茶碗をにらむようにして、眉間に皺を寄せている。 津田も、その様子に腕組みをして、水野をちらりと横眼で見る。 お前、どういうことかわかるか?と目で聞くけれど、水野は、困った様子で首を横に振るばかりだ。 ─── まぁ、相方と言っても昨日今日会ったばかりじゃ、わかるわけねぇか。 津田は、ぽんと廣沢の肩を軽く叩いた。 「どんなって、普通の男さ。羽振りはいいから、金の心配はいらねぇ。大学まで出た秀才で、きっちりしてる。御大層な契約書も送られてきただろう?あれを見りゃ、波多野が、お前らを使うっていうより仕事を頼んでるんだってことがわかるだろう?」 「確かに、あの書類には驚きました。本当に、この二階に住んで、自分用の茶碗を持たせていただいて、給金の他に運営資金まで預けていただいて。そんな事が、本当にあるのでしょうか?」 廣沢は、茶碗を見つめたまま、まだ顔をあげられずにいる。それでも、体中の神経は津田の言葉を聞き逃すまいと集中しているのがわかる。 「あるんだよ。ぜんたい、戦争が終わってもう丸10年経ってるんだぜ?もう、ご主人様なんてどこにもいねぇんだよ」 「どこにもいない……。そう、でしょうか」 津田が請け合うという様子に、廣沢は小さく息を吐く。そして、見上げるようにして大きな瞳で水野を見つめた。 「水野君も、そう思うかい?私は、私たちは、ここで仕事をするんだって」 「はい。俺は波多野様には会った事がないですけど、廣沢さんと二人でならできると思ってくださったから、俺を呼んでくださったんじゃないかと思います」 淀みなく返事をした水野の背中を、津田がぽんとたたいた。まるで、よくやったなとでも言うように。 「私には、やっぱりよくわかりません。でも、とりあえず二人で力を合わせて、得意不得意を補いあってやっていくしか、ないんですね」 「もう、契約書を取り交わしちまってるしな。まぁ、最初の夏までは付き合ってやれよ。お前たちにとっても悪い話じゃねぇだろ?」 「はい」 廣沢は、疑問をふりきるように、明るく返事をした。 そして、手招きで水野を呼ぶと、茶碗を選び始めた。そんな二人を眺めながら、津田は煙草に火を点けると深々と煙を吐き出した。 ☆  それから二人は、自分専用の茶碗、湯飲み、汁椀、箸を選んだ。 廣沢は、白地に紺で青海波模様の茶碗と青磁色の湯飲み。水野は、やはり白地に紺で矢羽模様の茶碗に、白地で飲み口のぐるりに紺の線が一本入っているものを選んだ。 それらを乗せたこげ茶色の角盆は、台所の隅に定位置を与えられた。  残りの木箱を台所に運びこんでみたが、食器棚の食器を全部取り出して箱詰めする作業は、そう簡単に終りそうにない。津田が持ってきた分量よりも、遥かに沢山の食器が二つの食器棚を埋め尽くしているのだ。 「箱詰めが終わり次第、改めてご連絡するということで、いかがでしょう?」 廣沢が、ひどく申し訳なさそうに、津田に話しかけた。津田にとっては、特段急ぐ話しではない。 「そうしてくれ。店には電話があるから、電話をしてくれてもいい。まぁ、道向こうだから、歩いてきたって苦じゃねぇだろ?」 気にするなとでもいうように、津田の返事はあくまでも軽やかだ。 「ありがとうございます。なるべく早く、作業をすませます」 廣沢は、津田に向かって深く頭を下げた。水野も、慌ててお辞儀の角度を深くした。 すると、津田はふんと鼻を鳴らした。 「さっきも言ったけどな。お前らと俺の立場はそれほど変わらねぇよ。ちょっとばかり年上だってぇくらいさ」 「いいえ。違います。津田様は波多野様のご友人です」 「その、様ってのもよしてくれ。きっと波多野も嫌がるぜ?」 津田の願いが、どこまで廣沢に届いているか怪しい。現に、廣沢は笑顔のままで首を小さく横に振っている。 「まぁ、いいか。その辺はおいおいな。ところで、この家には何か名前はついてるかい?」 「名前、ですか。特にはございませんでした。早川では、辛夷沢の家、とだけ」 「なんだよ。金持ちのくせに、洒落っ気がねぇなぁ。特別な家を手に入れたら、名前を付けてやらなきゃなぁ。今は波多野の物だから、あいつに考えさせるとしよう」 「はぁ……」 津田は、友人の買った家を、ひどく楽しそうに見渡している。 一体、どのようなご友人関係なのだろうと、廣沢は首をひねるがそれ以上考えることはしない。旦那様のご事情については、詮索しないのが使用人のマナーだと教えられてきたからだ。 でも水野には、そんなマナーは関わり合いがない。 「津田さん、あ、津田様は、波多野様とかなり親しいんですか?」 なので、疑問に思ったことを、するりと聞いてしまう。 その質問に津田が答えるより先に、隣で目を剥いている廣沢が水野の腕を掴んだ。 「そういう事は、私たちから聞いたりしません!」 「す、すみません」 「何で?」 疑問を呈したのは、津田だ。ついでに、しゅんと謝る水野の頭を鷲掴みにして、顔を上げさせた。 「植木屋は悪くねぇよ。聞きたきゃ聞けばいい。答えるかどうかは、また別だがな」 「そう、おっしゃいますが……」 気にしていないと言っても、廣沢は頑固に眉間に皺を寄せている。このまま放っておくと、こいつはいつまでたっても使用人のままだ。津田には、そう思えた。 「廣沢。お前はこれから、水野に家を管理する仕事を教えてやれ。水野は、廣沢を使用人じゃない生き方を教えてやるといい」 「生き方なんて、そんな」 「大それたもんじゃねぇよ。そうだな……」 津田は、片目をすがめるようにして、斜めを上をにらむ。 「廣沢、お前友達はいるかい?」 「田舎にいた頃はございますが、早川の家に来てからはございません。皆、仕事の先輩です」 「よし、そこだな。仕事仲間で、友達になるってとこからだな。水野、廣沢を頼んだぞ」 「俺?ですか?」 「他に誰がいるんだよ」 「俺が廣沢さんに教わることしか、ないと思ってました」 水野は、申し訳なさそうに、横眼で廣沢を盗み見る。廣沢は、水野が悪いわけではないので、責める気にはならない。ただ、自分をどうしていいのかわからない。 「津田様。私が、水野と仕事仲間を越えて友人になれるとして、それは先ほどの、私たちは波多野様の使用人ではないという部分につながるのでしょうか」 「多分な。もう、新しい時代になってるんだ。地主も小作もいない。華族もいないんだ。平等なんてどこに落ちてるのか知らねぇが、この家の中にくらい、あったっていいだろう?」 「波多野様も、そうおっしゃるでしょうか」 廣沢の疑念ももっともだ。二人の雇い主は、波多野であって津田ではない。 しかし、津田は、自信満々に大きく頷いた。 「当たり前だ。俺は、あいつのことはよく知ってる。請け合うよ。そうそう、俺と波多野の間柄については、一応あいつに聞いてから話すかどうか決めさせてもらう」 それじゃあ後は頼んだぜと、津田は軽トラに乗ってさっさと行ってしまった。 いつの間にか、ツタと鍋も消えている。 廣沢と水野は、木箱を見下ろして溜息をつく。頭の中が、ひどく混乱している。けれど、仕事は待っている。 「さ、溜息ばかりついていても仕方がない。明るいうちに、少しでも進めよう。仕事があるのは、いいことだ」 「はい。あの、廣沢さん。さっきは申し訳ありませんでした」 「どれのことだい?」 「津田様に、波多野様との関係を聞いた事です。不躾でした、よね?」 「まぁ、そういう事なんだけど、どうやらここでは勝手が違うらしい。私の認識も改めないといけない。これから、よろしく頼むよ」 廣沢は、両手の埃を払って、水野に右手を差し出した。 水野は、照れ臭そうに、その手を両手で握りしめた。 「よろしく、お願いします」 そのまま深く頭をさげるから、水野のつむじが廣沢の目の前まで降りてきた。 なんだか、その渦の巻きようが、微笑ましい。まるで、つむじまでもがよろしくと挨拶をしているようだ。 廣沢は、水野の肩をそっと押して、頭をあげさせた。 「きちんと仕事をして、仲良くなろう」 そう言ってくしゃりと笑うと、水野の目尻もゆるんで、おっとりした笑顔をみせた。

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