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第4話 仕事

 津田の到来により、当面の費用と仕事が与えられた。 その仕事を始めるには、少々準備が必要だ。具体的には、屋敷の在庫品確認と破損の点検、そして全体の掃除だ。 廣沢は、蓋を開けたばかりの木箱を見下ろすと、柔らかな笑顔のままで水野に一つ頼み事をした。 「私は、二階に行ってくる。必要なものを持って、すぐ戻ってくるよ。悪いけれど、邪魔にならない隅っこに、この木箱を寄せて置いて」 水野は、はいっと元気よく返事をした。それと同時に、廣沢はするりと台所を抜け出て行った。 「……え?」 すぐに階段を登ったはずなのに、足音が聞こえない。水野は、慌てて階段を下から見上げた。すでに廣沢の姿は見えず、代わりに、襖を開け閉めする「タン」という音が遠くに聞こえた。 「嘘だろ……」 普通、床板を踏んでも階段を登っても、それ相応の足音がする。なのに、廣沢はそういう音をほとんど立てない。さっきも、食器を扱う時に皿同士がぶつかる音がしなかった。 特別、そっと動いている様子はないにも拘わらず、彼は不用意な音をたてない。 雇われた家で、ずっと誰かに仕える仕事をしていると、そういう動きが身に着くのだろうか。 水野は、今更のように、自分にこの仕事が務まるのかと不安になってきた。 勿論、重い木箱を一人で動かすことはできる。でも、果たして置き場所はここで本当にいいだろうか。正直に言えば、それも判断できない。 一つ気になりだすと、今まで考えたこともないような疑問が次々と湧き出してきた。水野は、なんだか頼りないような情けないような気分になってきた。 それが大きなため息になって漏れた時、廣沢が二階から戻って来た。 手には、ノートと鉛筆を持っている。 「待たせたね。もう、全部動かしてくれたのかい。早いなぁ。助かるよ」 「いえ」 廣沢は、戻ったよと水野に声をかけた。嫌な感じはしないけれど、水野の声がかすかに沈んでいる。この短い間に何かあったろうかと不思議に思いながらも、廣沢は、これからしようとしていることを説明し始めた。 「これからの仕事なんだけどね」 そう言いながら、台所の調理台にノートを広げて鉛筆を握る。 「波多野様がいついらしてもいいように、全体を隈なく掃除をしないといけない。食器をいれかえるにしても、食器棚の棚板を拭きたいしね。そのための道具が揃っているかどうかを確認しよう。なければ、買いに行きたい。支払いには、預かった運営費をあてよう。それから、頂いた給金を出し合って、私たちが食べるものや塩や味噌を買ってこなけりゃいけないね。ああ、それから、私たちが毎日何をしているか、日誌をつけよう。波多野様に、ご報告できるようにしておくべきだ。お金については、出納簿もつけるんだよ。小遣い帳のようなものさ。そろばんは、あるかなぁ。ペンや筆、墨かインクもいる。ざっと見積もっても、荒物屋と文房具屋と八百屋に行くことになるね。ここいらで、塩を売っているのは、どこだい?」 一気にここまで話をして、ふと水野の顔を見ると、驚いたように目を丸くしていた。 「少し、早かったかい?」 「はい。あ、いえ。大丈夫、だと思います。ただ、あっという間にそんなに沢山のことを考え付くなんて、すごい」 「大した事じゃないよ。以前の御屋敷で見てきた事を、必死で思い出しているのさ。ところで、店はわかるかい?」 「はい。大通りに出れば、だいたい揃います。リヤカー、借りてきましょうか?」 「そうだね……。いや、まずは、不足の品を確認しよう」 それでは早速と、二人はノートを片手に台所の棚を全て開け、続けて納戸にも入ってみた。 鍋釜の類は、ほぼそろっている。コーヒーや紅茶のポット類は、買い替えるかどうか後日波多野に聞いてみることにした。納戸には、ほとんど使われていない掃除道具が、ほこりをかぶっていた。何が入っているかわからない大小の箱や長持については、今は気にしないことにした。 「バケツも箒もあるね。はたきは、買い替えた方がよさそうだ」 「たわしや雑巾もありますよ」 「これなら、家の中の掃除はできそうだ。それにしても、洗剤はどこだろう」 二人は、土間の隅や二階の押し入れまで調べたけれど、見つけられなかった。使いかけを残すことを良しとせず、処分してしまったのかもしれない。 「仕方がない。洗剤、石鹸、マッチ、台所用のたわし、布巾、と」 廣沢は、ノートにメモをしながら、その物量を思い浮かべる。細々と種類は多いけれど、大きなものはない。これなら、リュックに背負ってこられるだろう。 「水野君、この辺りに、昼飯を食べられる店はあるかい?」 「はい。そば屋があります」 「なら、買い物を済ませて、そこで昼飯としよう。私は、もう腹が減って来たよ。急ごうじゃないか」 廣沢は自分のリュックを背負い、水野は土間にあった背負籠を背負って雪の残る道を歩きだした。 ☆  三月と言えば、東京ではもう春だ。花も咲き始めて桜のつぼみも膨らみ始める。なのに、辛夷沢では、道端に掻いた雪が溜まっている。風のない曇り空の下では、溶けもせず氷もせずにじっとしている。もう少し気温があがれば、溶けて流れていくだろうに。廣沢は、冬い舞い戻ったような寒さに、自然と首をすくめるようになる。 斜め前を歩く水野は、慣れているのかなんともないようだ。この寒さに慣れること。廣沢にとっては、まずそこからが仕事のようなものだ。  二人は、黙ってしばらく歩き、最初に荒物屋に入った。こでの買い物はすんなりと終わり、すぐ近くの文房具屋に向かった。店先で並んだ品物を見始めてすぐ、廣沢は眉間に皺を寄せた。 「ここじゃ、用が足らないですか?」 「いや。品物は十分だよ。それより、定規や鋏があるかどうかまで、見てこなかったなと思ってね。君、覚えてるかい?」 「いえ、まったく。色々見てきたつもりだったけど、そうでもなかったですね。こんな小さな鋏は手持ちじゃないですけど、小刀はありますから。なんとかなります」 「植木屋の小刀なんて、よく切れそうだ。それなら、帰ってから、後でまたあちこち引き出しを開けてみよう。以前来た時のままなら、どこかにあるはずだよ。それにしても」 失敗したと、廣沢が下唇を噛む。 すると、水野が一日ぶりに驚いたような顔をした。 「何?」 ばつがわるいのか、廣沢が少しぶっきら棒に問い返すと、今度は目尻を下げて笑った。 「いえ。悔しそうにしてるんで、うんと大人みたいだった廣沢さんも、俺と同じような年だったなって思い出したんです」 「君は、おかしなことを言うなぁ」 苦笑しながら、廣沢は水野の肩をぽんとたたく。 「この寒い中、また買い物に出なきゃならないんだよ?」 「もうすぐ春です。それに、買い物楽しいです。また、来ましょう」 「無駄遣いしない程度にね」 揶揄うように廣沢が笑ってみせると、水野も目尻を緩めたまま頷いた。 「さ、とりあえず、ペンとノートとインクだ。お金を払って、次に行こう」 廣沢は、必要な品を拾ってさっさと会計に向かう。その後ろを、水野はぴったりついて歩いた。狭い店内は、大きな荷物をしょった男二人で、ぎゅうぎゅうだというのに。 店主は、おつりと品物をいれた紙袋を手渡しながら、廣沢と水野の顔を見比べた。 「失礼だが、お前さんがたはどこから来た?」 不審げに問いかける店主に、廣沢は得意の笑顔を披露する。 「こちらこそ、失礼しました。郵便局の向こうに教会がありますよね?あの奥の別荘の管理人として、東京から昨日越してまいりました。廣沢と申します。どうぞ、よろしくお願いします」 丁寧なあいさつに、丁寧なおじぎ。 店主は、驚いて水野を見上げる。水野も、慌てて頭を下げる。 「俺は、ここらの植木屋、水野の息子です。昨日から、廣沢さんと別荘の仕事をすることになりました」 「ああ、水野んとこの。じゃ、この間まで隣町の浦野で修行しとった末っ子かい?」 「はい」 「はぁ。他所の子はあっという間に大きくなるってぇのは、本当だね。今、いくつだい」 「19になりました」 「もう、そんなになるかい。これから、こうやってちょくちょく買い物に来るのかい?」 そう聞かれると、水野には判断が難しい。横眼で廣沢を見ると、わかっていると小さくうなづき返してくれた。 「はい。色々ご相談することもあると思いますので、どうぞよろしくお願いします」 店主は、目の前の廣沢の笑顔を見つめた後で、ちらりと水野を見た。すると、水野は一度力強く頷いた後、よろしくお願いしますと頭を下げた。 「そういう事なら、まかせておきなよ。ここらの店は、もう全部まわったかい?」 「荒物屋さんに行きました。この後、水野にそば屋さんに連れていってもらって、それから八百屋に行く予定です」 「そうか。そうれなら……」 店主は、滔々とそれぞれの店の様子を話し始めた。 荒物屋の店番は、ばあさんだったろう。よくおつりを間違えるから気を付けろ。 そば屋は、まずはもりを二枚。何も薬味をいれずに食べてみてくれ。秋になったらくるみ蕎麦だ。 八百屋の親父は、強面だが気のいい男だよ。看板娘がいるが、おしゃべりなのがいけない。 などなど、よく舌が回る。 水野は、そろそろ足が痛くなってきたなと思って廣沢を横眼で伺ったけれど、浮かべた微笑はそのままに、熱心に頷いている。 なるほど、これも仕事のうちかと、水野は足に力をこめた。  しばらくすると、話すネタがつきたのか、店主は店の外まで二人を送り出した。気分が良いのか、迷いようのない蕎麦屋までの道筋まで教えてくれた。それにも、廣沢は深々と頭をさげ、丁寧に店を離れた。 なんという、根気強さだろうか。水野は、ただただ感心していた。 文房具屋の親父があんなにおしゃべりだったとは知らなかったが、この分ならきっと、商店街中に、廣沢と水野の様子がいい印象で広まっていくだろう。 色々思い考えているうちに、そば屋についた。 重い荷物を背から下ろし、店の硬い木の椅子に腰かけるなり、水野は大きなため息をついてしまった。 「どうした?」 「俺、本当にやっていけるでしょうか」 唐突な問いかけに、廣沢はきょとんと首を傾げた。 「何だい?藪から棒に。何か思うことがあるなら、話してもらいたいが……、まずは蕎麦を注文しないか?」 腹が減って仕方がないとでも言うように、廣沢が腹の辺りをさすりながら上目遣いで見上げてくる。水野は、小さく吹き出して笑ってしまった。 そうだ、まずは、腹に飯をいれよう。怒りっぽくなったり、情けない気持ちになる時は、腹が空いているからだと母ちゃんもよく言っていた。 「そうしましょう。すいませーん!」 二人は、熱い茶と漬け物を運んできた店員に、もりそばを二枚ずつ頼んだ。 しばらく、熱い茶で体を暖めながら、廣沢に問われるままに水野がこの地域の気候について話していた。すると、程なくして待ちかねた蕎麦が到着した。 二人は、勢いよく蕎麦をたぐりはじめた。テンポよく、三口ほど食べたところで、「で、さっきの話は?」廣沢は水野に話をもちかけた。 景気よく蕎麦をすすっていた水野は、はたと箸を止めた。 「いや、その。昨日廣沢さんと初めて会ったばかりですが、驚いたり感心したりすることばかりで、一緒に仕事ができるのかと」 「不安になった?」 声が小さくなっていく水野の後を、廣沢が継ぐようにして問いかけると、はいと小さく返事が聞こえた。 さっきの笑顔は嘘のように消え、眉尻をさげて口をへの字に曲げている。 「そう。確かに、君と私は違う。今まで経験してきた内容が違う。育ってきた環境も違う。違うから、いいんだろう?私も、昨日からずっと君に助けられてる」 「嘘」 「嘘じゃない。私は、この土地をよく知らない。昨日駅に着いた時、君が迎えに来てくれたと知った時にどれほどほっとしたか。長靴もありがたかった。寒さをしのぐ準備も色々してくれていた。今朝は熱い風呂にも入れた。薪の五右衛門風呂は、協力し合わないとうまくいかないだろう?ツタさんを紹介してくれて、さっきの文房具屋でも、ここで生まれ育った君がいてくれたから、信用してくれたんだ。私一人では、ああはいかない」 「でも、それは、ここにいる人間なら誰でも知ってることです。お屋敷の管理なんて、どうしたらいいか。それに、植木屋は普通雇い主と距離があります。頼まれた仕事の最初と最後くらいしか話もしません。でも、廣沢さんは、お屋敷の中でずっと一緒にいるんでしょう?俺は、俺には、何ができるでしょうか」 箸もそば猪口も机に置いて、水野はすっかり肩を落としてしまった。 「困ったね」 「はい」 廣沢が、小さな溜息とともに一言こぼすと、つられるように水野も頷いた。でも、そうじゃない。 「違うよ。私が困ったと言っているのは、君が仕事ができないことじゃない。できないかもしれないと思い込んでることだ。今日から、”でも”は禁止だ」 「え!だって」 「だっても禁止。そうやって、口癖のように出てくるのは良くない。言葉が君の邪魔をしてる」 「邪魔、ですか?」 純粋にわからないと、水野はすがるように廣沢を見つめる。 廣沢は、厳しい顔を崩さないままで、水野の目を見つめ返した。 「忘れるには、ちょっと早くないかい?私たちは、ついさっきよろしくと握手をしたばかりじゃないか。津田様は、私には君に仕事を教えるように言ってくださった。君には、私に友達になるようにと言ったと思う。互いに、まるで違う人間同士、助け合っていくんだよ」 「俺が助けられることは沢山あります。でも」 「ほら!禁止。なんだろうなぁ。口癖というよりも考え方の癖なのかな。うーん。本当のところ、君はどこで立ち止まってるんだい?」 そう言われて、水野は泣きそうに眉をしかめながら、握りしめた両手に目を落とす。 「責めてるんじゃない。ただ、教えてほしいんだ。どう感じているのか。何に困ってるのか」 廣沢は、かつて自分がそうしてもらったように、静かで暖かみの感じられる声で問いかけようと試みた。その声にゆっくり顔をあげた水野と目をあわせると、しかめられていた眉が緩んだ。これなら、話をしてもらえそうだ。 「俺は、庭仕事しか、できません」 「そう。君の専門は、庭だったね。でも、鋏で枝を切るだけじゃないだろう?他にはどんな事を?」 そう問いかけられると、水野は、自分にできるであろうことを、順に数え上げ始めた。 伸びすぎた枝を剪定する。季節にあわせて肥料をやり虫よけの薬を撒く。秋の終わりには、筵を幹に巻き付ける。雨風や雪で傷んだ生垣の手入れをしたり、つまった雨どいを掃除したり、雨漏りを修繕したりもする。 「それから、庭の石を変えたくなったり、池を作りたくなったら、そういう商売のやつらを紹介したり」 「ほら。どれも、大きなお屋敷には必要な、大事な仕事だ。そして、それは私にはできない」 「あ……」 「私には、私の得意分野がある。主に家の中だね。でも、私たちは二人しかいないから、雑用も分担してもらう。私だって、草抜きくらいできるさ」 俯いていた水野の顔が、少しずつ廣沢を見るようになってきた。 「皿を、割ったり」 「いつか割れるものだよ」 「足音が、うるさかったり」 「外なら問題ないよ。家の中は、そうだね、少し気を付けるといいかもね」 「いつも、土や肥料の匂いがして、手が汚れています」 「それは、仕事をしたからだろう?屋敷には、井戸も風呂もある。ありがたい事に電気洗濯機もある。遠慮せずに使えばいい」 「……俺は、やっていけるでしょうか」 「君次第だよ。働きたい気持ちは、失せてしまったかい?私は、君と仲良くなれると思ったんだけどなぁ」 廣沢は、少し意地悪な言い方をした。すると、水野は大きく首を横にふった。 「いえ。いえ……働きます。働かせてください」 「よかった。これで、決まりだ。次に何かあったら、色々思い悩む前に言ってくれよ」 きっとだぞと廣沢は、水野の肩をぽんとたたく。水野は、細い目をさらに細くしてほっとしたように笑った。 「さ、蕎麦を食べてしまおう。まだ買い物があるからね」 はいっと元気よく返事をして、水野は蕎麦猪口を手にとった。 気持ちがすっきりしたのか、水野はざるを二枚追加して、あっという間に食べてしまった。 早いねとつい感想を漏らすと、ここいらの男ならこの位は当たり前ですと更に驚くべき返事がかえってきた。 その答えにしきりに感心していると、急須のような、注ぎ口のついた小さな桶のようなものが出てきた。何だろうと首をかしげていると、水野はそれをゆすってそば猪口に注ぎ入れた。 熱くて白濁した湯のようだ。 「それは?」 「そば湯です。そばつゆに注いで、飲みます。温まりますよ」 「ああ!そういう事か。こんなに寒いのに、何で皆冷たい蕎麦を食べてるのかと思ったよ」 「そば湯、飲みませんか?」 水野は、きょとんとして首を傾げる。廣沢は、苦笑いで返事をしながら、真似をしてそば湯を飲んでみた。 つゆが少し多いのか、しょっぱい。 「少し、しょっぱいね。漬物も塩辛い」 廣沢は、手をあげて給仕を呼ぶと、お茶のお替りをもらった。 そんなものかなぁと、水野はしきりに首をひねっている。 寒さだけでなく、食べ物の味にも慣れていかなくてはならないらしい。廣沢は、熱い湯飲みで両手を暖めながら、心のうちにそう書きつけておいた。

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