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第16話 そして、春が来る
ラジオから、上野公園や靖国神社の桜の開花予想を伝えるニュースが、流れ始めた。同じ頃、辛夷沢のあちこちでは、雪融け水の流れる音が聞こえ始める。林の枝や屋根の上から、どさりと雪が滑り落ち、気の早い小鳥の鳴き声が、遠くから聞こえてくる。真冬とは、また違った危険と美しさと楽しさに溢れている。
落葉松荘の庭も、僅かずつだが、春に向かって動き始めた。水野は、長靴を履いて雪と霜柱をザクザクと踏みつぶしながら、雪の重みで折れて散らばった枝を拾い集めたり傷んだ垣根を直したりして庭の隅々を歩きまわっている。
今年は、本格的に庭の苔を増やしていく予定だ。そのために、冬の間、幾種類かの苔の苗床のようなものを作って数を増やしておいた。計画は思い描いてあるけれど、それを庭に移植するには、まだ早い。根雪が融けて、梅が咲いて、あと何度か雪が降って、辛夷が咲いて山の雪が融ける。
そうして、遅い春がやってくるのだ。
一緒に働く廣沢は、この土地にきて、もうすぐ一年になる。そう思って眺めると、窓についた結露をふき取ると見える山も、いつも違った様子でそこにあるような気がしてくる。
─── 冬が、終わるんだな
軽く息を吐いて、窓を開ける。
流れ込む空気は、まだまだ冷たいが、真冬に比べれば幾分柔らかい。
首を伸ばして教会を見上げると、溶けかけの雪がキラキラと光って、屋根の軒先の氷柱も短くなっている。
反対側に目を向ければ、腰をかがめて作業をしている水野が見える。
「政!今日の昼は、温かいうどんにしようと思ってる!いいかい?」
大声で呼ばうと、水野は体を起こして廣沢に大きく手を振った。了解という事だろう。
さぁ、陽の暖かいうちに、大通りで買い物をしてしまおう。
若い男二人の昼食に、うどんだけでは物足りない。揚げ物と、できたら稲荷ずしも欲しい。
廣沢は、からからと窓をしめて、買い物かごの置いてある台所へ向かった。
水沢のうどんと稲荷ずし。それから、ゴボウのかき揚げ。それが今日の昼ご飯。稲荷ずしは、餅や団子も売っている店で買う。かき揚げは、総菜屋で揚げたてを。
家で作って食べるのも旨いが、それを仕事にしている人が腕をふるったかき揚げは、やっぱり旨い。
大鍋に湯を沸かしてうどんを茹でている間に、かき揚げを七輪の火の上に置く。
それを、焦げないように時々返しながら、うどん汁の味を見る。
少しねぎと柚子を刻んで、できあがったうどんに散らすといい香りが立ち昇る。
食欲を刺激するのに確実な組合せではあるけれど、そろそろ違う香りが欲しい。そう、爽やかな、春の香り。
そう思って、廣沢はふと気が付いた。
喉が、渇いている。いや、体中が渇いて、葉物や果物の水分を欲している。
お茶や水ではない、食べ物からの新しい涼やかな水分を。
柔らかなキャベツやしまったトマトを思い出して、ごくりと喉が鳴る。
廣沢は、この年初めて、心の底から早く春にならないかなと深く溜息をついた。
一方、落葉松荘の主人は何をしているかというと、単身、海外に仕入れに行っていた。
それを聞いた廣沢と水野は、恐ろしくはないのか、危なくはないのかと津田に問うた。答えはしごく簡単で、知らんの一言だった。
「そんな」と、責める色が顔に出たのだろう、津田は片頬をゆがませながら言葉を添えてくれた。
飛行機で行けるようになったとはいえ、アメリカは遠い。お互いに、まだ戦争の記憶も生々しい。白人以外は、軽く扱われるなんてこともあるらしい。いい事ばかりじゃないだろう。でも、仕事で行くんだ。あいつは、商売の時はいつだって堂々としている。英語の読み書きだって、問題ない。あいつは、大丈夫だ。
津田は、穏やかに断言した。
廣沢と水野は、ほっと肩の力を抜いた。
それを見て、津田が面白そうに笑った。
「何か?」
おかしかっただろうかと、廣沢がそっと問い返す。
「ああ、悪い。お前たちをバカにしてるんじゃないんだ。波多野とお前たちは、雇い主と別荘の管理人を越えて、すっかり友達か兄弟か。まぁ、家族みたいなもんになったんだなと思ってな」
津田がそういうと、水野と廣沢はきまり悪そうに目を合わせて苦笑いをした。
「少し、厚かましかったでしょうか?」
「そうじゃねぇよ。良いなと思ったのさ。お前たちが、あいつを心配してくれるのが、嬉しいんだよ。それに、あいつは、あいつを大事に思ってる人間がいるってことを、ちゃんとわからなきゃいけない。なぁ、水野?」
「え……? あ、はい。そうですね」
一瞬戸惑ったが、水野はすぐにしっかりと返事をした。それは、波多野の事を思ってなのか、別の誰かを思ってなのか。津田と水野には、言葉にならない何かが通じあったようだ。
「ところで、いつ頃日本にお戻りでしょう?」
「予定では、二週間後だな。東京に戻ったら電報をくれることになってる」
届いたら、知らせるよと津田は請け合った。
そんな会話をしたのが、ほんの一週間ほど前である。
廣沢は、ラジオや新聞で、アメリカで日本人が事件に巻き込まれるようなニュースはないかと、気を配った。
勿論、たとえ何かあったとしても、本当の家族ではないので駆け付けることはできない。ただ、そうやって無事を祈っているだけだ。
「結局、自己満足にすぎないんだよ」
昼食のかき揚げをかじりながら、廣沢はごく軽い調子で言った。
「それでも、気になるものは、仕方がないよね」
自嘲気味に口元をゆがませて、目をふせる。その目の先で、うどんの麺を箸でゆるりとかき回している。
「あの、それって、津田さんが言ってた、家族みたいなっていう」
「うん。例えば、波多野様が親しみを覚えない、どちらかと言うと遠ざけたいような人柄なら、もっと実務的なことを考えると思うんだ」
「実務的?」
「そう。私たちの雇用契約や、この家の権利の譲渡手続きや、次の仕事」
「何か、あれば」
「うん。何かあれば、私たちはここで働けなくなるかもしれないだろ?でも、今気になってるのは、そう言う事じゃない」
「はい。俺も、波多野さんが無事に帰ってきてくれるといいなと、思います」
水野は、少し照れ臭そうに目を逸らして、うどんをずずっと啜った。
それから、二人の目がうどんの器越しに出会って、へへへと照れ笑いが浮かんだ。
☆
春の彼岸が近づいたせいか、日が伸びた。とはいえ、そろそろ夕方の日も暮れていく。
水野は、庭仕事を終えて、井戸の周りで道具の手入れをしていた。大小のスコップやシャベルの土をこそげ落として、全体をきれいに洗う。雑草や細い根を掘り起こす、ギザギザした刃のついた小さな道具の土も落として、やっぱり水で良く洗う。縄を切る鋏も洗って、砥石で研ぐ。水気は乾いた布で拭きとって、所定の位置にきちんと並べて置いた。
冬の仕事も、もうすぐ終わる。春の準備が、始まっている。
水野は、春に向けて、植木の剪定用の鋏は研ぎにだしていた。こればかりは、専門の職人に頼んでいる。順番待ちで時間がかかるとは言われていたが、気になって先週見に行ったら、まだだと叱られた。
それも、明後日にはできあがるらしい。
待ち遠しいなと思った途端、手にしていた手ぬぐいを取り落としてしまった。どうやら、少し浮かれているらしい。
水野は、一度軽く頭を振った。瞬きを数回して、目の前をスッキリさせた。最後に並べた道具の確認をして、風呂の湯を沸かすために焚口に向かった。
落葉松荘の風呂は、春から夏の間に最新式のガス釜に作り替える予定だ。
一般家庭に比べて早すぎるほどのスピードで、落葉松荘の内部は最新式に作り替えられていたが、風呂が後回しになっていた。
そのせいもあって、波多野は早く工事を始めたがったが、雪が溶けて暖かくならなくては、手を付けられない。
寒いから、薪の風呂からガスの風呂にしようとしているのに、寒いから手を付けられないなんて。
波多野は、どうにかならないのかと珍しく不機嫌だった。
それを思い出すと、水野は少し楽しくなる。
あの、大人っぽい落ち着いた社会人の波多野が、駄々をこねるような事を言うなんて。しかも、津田に宥められてしょげた背中が、なんとも可愛らしかった。
パチンと火の爆ぜる音がした。その瞬間、「ああ、そういう事か」と思い至った。
津田は、波多野をとても大事に思っていて、波多野も津田には甘えられる。お互いを深く信頼しているのだろう。
そして、二人は自分たちに仕事をくれて、生活を良くしようとしてくれている。それだけでなく、育てようとも、してくれている。
廣沢は、きっとずいぶん前にそれに気づいていたのだろう。
どうして、丁寧な言葉で話をしてくれるんだろう。
どうして、土産を用意してくれるんだろう。
どうして、贅沢なほどに、家の中を変えていくのだろう。
どうして、どうして?とその時々に疑問に思っては、日々に紛れていた事があった。それが、今になってようやく腑に落ちた。
水野と廣沢の仕事は、落葉松荘の管理だ。
最初は、家が傷まないように荒れないように、面倒を見ることだと思っていた。でも、そうじゃないと廣沢が教えてくれた。自分たちの仕事は、主人である波多野と、波多野が大事にしている津田が心地よく暮らせる場所を、いつでも用意しておくということだ。
それは、季節に合わせた花をさかせ、苔がびっしりと生えた庭をつくり、木々が上手く育つように鋏をいれる、というような事。
そして、室内を気持ちよく整えて、季節に合わせて衣替えをし、暖かい食事をタイミングよく出す、ということだ。
でも、それだけをさせたくて、波多野は二人を雇ったのではない。
廣沢と水野。自分が選んできた若者に、新しい家と環境を用意した。そこでの快適な暮らしと、新しい時代の文化を吸収して育っていくことを願っている。
きっと、そういう事なのだろう。
そんな事を考えながら、薪を焚きつけていたら、具合よく燃え始めた。
このまま、そっとしておけば、すぐに湯が沸くだろう。
土間に戻って引き戸をあけると、廣沢が台所で包丁を使っていた。ツタに教えてもらいながら覚えた料理も、今では家庭の主婦並みだ。
「お帰り、政」
「ただいま戻りました。もうすぐ風呂が沸きます」
「ありがとう。たまには、先につかっていいんだよ」
「俺は、外仕事で汚れてますから」
どうぞと言うと、そうかいと小首をかしげつつ、廣沢も了解した。
「なら、漬物とお茶を置いておくから、小腹を宥めておいて」
「ありがとうございます!」
つい喜んだ声が出ると、廣沢は目じりにくしゃっと皺をよせて、大きな目を細くしてにっこりと笑った。
☆
冬と春の狭間の、月のない夜。冷えた空気が、融けた雪を再びガチガチに凍らせていく。
当然、家の中もまだまだ寒い。布団の足元には湯たんぽを置いて、重すぎる布団に押しつぶされそうになりながら横になる。
そうして、暖を取るためと言いつつ互いの冷えた手足を握りあいこすり合わせて、布団の中の温度を上げていく。
「政」
「はい」
「私は、今の暮らしがとても好きだ。このままずっと続いてほしい」
「俺もです」
「政は、お正月にも実家に戻らなかったけれど、たまには顔を出さなくていいのかい?」
「はい。ばあちゃんが時々様子は伝えてくれてます。それに、行っても喧嘩になるばかりで」
「そうか。喧嘩か。できるのが羨ましいような、しなくて済む自分が気楽なような」
「ひろさんは?」
家族は?ということだろう。廣沢は、小さく頭を左右に振った。
「死んだそうだよ。台風だか地滑りだかで」
「いつ?」
「戦争中さ。早川の旦那様は、新聞に載らないこともよくご存じでね。口外できないが何かあったらしいから、良かったら行っておいでと言ってもらったんだ。でも、私は行かなかったよ」
「……」
水野は、返事の代わりに廣沢の肩に手を添えて、少し距離をつめた。
「子どもの頃に東京にきて、写真もないから、もう顔もよく思い出せない。小作人のあばら家なんて、壊れたって誰も困らない。全員死んだなら、そのままがいいと思ったんだ」
「……」
やっぱり何も言わずに、水野は廣沢の頭を懐に包みこむようにして、抱き寄せる。
「私は、誰もいない気軽さの方を選んだんだ。それでよかったと思ってる」
「今は、俺がいます。波多野さんも、津田さんも」
「だから。あ……いや」
天涯孤独なのは自分の方で、水野の家族、両親や兄弟のことを気にかけなくても良いのかと。そう切り出したはずだった。でも、水野は波多野や津田と同様に、自分も廣沢の傍にいると言っている。なら、その気持ちを素直に受け取っておきたい。廣沢は、そう思いなおして、言葉を選びなおした。
「そうだね。私には政がいて、波多野様と津田様が傍近くで見守ってくださってる」
「はい」
本当にそれでいいのかと、目を開いて問いかけると、水野は満足気に大きく頷いた。
それが照れくさくて、廣沢は少し空気を混ぜっ返す。
「波多野様と津田様の仲の良さには、たまに目のやりどころに困るけどね」
困ったものだと、少し大げさなくらいに溜息をついてみせる。
「俺は、知らぬ存ぜぬで通します」
それに、水野が真面目に答えるので、廣沢は肩を震わせて笑う。
「そうだね。それがいい。でも、もし私たちのことを町で聞かれたらどう答えるんだい?」
「兄弟子です」
「管理人の?」
「はい」
「そう。それもいいね。でも、それだけじゃ」
少し寂しいじゃないかと言いかけて、その唇を水野に柔らかくふさがれた。
「こういうひろさんは、秘密です」
「秘密、守れるんだね」
「はい」
だって、何より大切だから。
廣沢は、にやりと笑って、目の前の鼻の頭をちゅっとついばむ。水野の手が、肩から背中に回って大きくなでる。
すると、くすぐったがるように小さく揺れて、二人の胸の間の空気がほのかに甘く香る。
─── まさ
そう呼ばれたような気がする。声にならない、吐息だけで。
耳からじゃなく、胸に伝わってきたような気がする。
水野は、廣沢の背をしっかりと抱き寄せて、髪から首にかけてゆっくりと撫でおろす。
「ひろさん。俺たちは、ここがもっと良い家になるように、仕事をしなきゃいけませんね」
「そうだね。家が私たちを置いてどんどん新しくなっていくようだから、勉強しなけりゃいけないね」
「ひろさん、一緒に、がんばりましょう」
「そうだね。一緒に」
水野は、半分瞼の落ちかけている廣沢の額に緩やかに唇を押し当てた。すると、廣沢はすっと大きく息を吸うと、すーっと吐いて目を閉じる。水野は、ゆっくりと力が抜けて寝息を立て始めた体を懐に抱みこんで、静かに眠りに落ちて行った。
☆
若い二人が、主人とその良人のために、気持ちよく働こうと誓い合っていた頃、家の主人は、遠い異国の空の下に。その相方は、アメリカから届いた一枚の絵葉書を指先で弄びながら、ゆるゆると煙草をふかしていた。
「米国に、無事到着。予定通り、宿泊先のホテルに入った。廣沢、水野両名に、よろしく」
とだけの、素っ気ない文面が、波多野らしい。
そう、思いつつ裏面を見ると、桜の花と大きな川が映っている。アメリカにも桜があるのかと珍しがっていると、葉書の隅に地名が書いてあった。よくよく見ると、すぐ近くに何か書いてある。
「いつか、一緒に見に行こう」
津田は、にやりと笑って、勢いよく煙草をもみ消した。
そうか。そうだな。そんな未来があってもいい。何なら、大金を稼いで、あいつらを一緒に連れて行くのも悪くない。
うっすらと寂しかったはずなのに、なんだか、ひどく気分が良い。
津田は、台所からグラスを一つ持ってくると、波多野にもらった洋酒を注いでぐいっと呷る。
きゅうっと喉を締め付けるようにしながら、熱い酒が駆け下りていった。
ああ、いい夢が見られそうだ。
実家を出て以来、一人きり。
寒々しく気楽に生きていくものだとばかり思っていた。
それが、どうだ。今じゃ、相方と年若い弟分たちがいる。
先行きは、明るい。
津田は、絵葉書をそっと額に押し当てて、それから布団に潜り込んだ。
夢で会えたら。そう願いながら。
- 終 -
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