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第15話 大晦日
昨晩から続く雪は、降っても降っても、降りやまない。
落葉松荘、教会、大通り、辛夷沢の木も山も、全てが真っ白になっている。
そんな雪の降り続く午後。廣沢と水野は、落葉松荘の裏手で、今日何度目かの雪かきをしていた。
玄関から門までの道を開け、屋根の雪を落とす。裏口の前から湯の焚口の間も、細長く雪をかく。
なのに、やってもやっても、開いた道はまたすぐに雪で覆われてしまう。
今日は、大晦日。昔は、大つごもりとも言ったそうだ。
江戸の頃なら借金取りが町中を駆け回る日だが、この雪では不可能だろう。取り立てに出かける前に、まず雪かきをしなくては。
でも、実際にはそんな事をしてはいられないだろう。そう強く思うのは、連日の雪かきに腰と腕が痛むからだ。
─── 東京でも、年に数回は雪かきをしてきたはずなのに。
廣沢は、スコップを雪に突き立てて、腰に両手を添えた。ぐっと背中を反らすと、骨が鳴るような気さえする。そのまま頭を後ろに倒して、空を仰ぐ。
しかめた目を開けば、薄暗い空がある。晴天続きで冷たい北風が吹くばかりの東京とは、まるで違う空だ。
低く垂れこめた雪雲は、ぐるりの山々をすっぽりと包んでいる。落葉松荘の上空も、底なし沼のような雲に覆われて、空の天辺は見えない。
なのに、不思議と明るい。
そんな、どことも判然としない遠い空から途絶えることなく粉雪が落ちてきて、額や頬に触れては溶ける。
─── さ、あと少し
濡れた頬を手袋で拭うと、腰をトントンと拳で叩いて再びスコップを握った。
それから、いつまでも続く力仕事の手を止めないために、頭の中を空想の世界に飛ばす。
夕闇せまる江戸の町に、びょうびょうと北風がふく。
借金を返し終った若い男が、なけなしの小銭を片手に一膳飯屋の暖簾をくぐる。
いや、まっすぐ家に帰ったほうがいい。
恋女房が、暖かい汁物を用意して待っている。
男は、女房への土産に焼いた餅を一つ買って懐にしまう……。
さんざんスコップで雪を掬っては投げて、そろそろ終わりにしてもいいだろうかと相方を探すと、黙々と雪山を築いていた。
慣れた動作で、ザクッザクッと雪にスコップをつきたてる。氷を切り出すように四角く切れ目をいれて、その底にスコップを差し入れる。ぐっとスコップを持ち上げて、腰を廻すようにして左右に雪を返していく。
視線に気が付いたのか、その手が止まって振り返った。
「ひろさん、ここは俺に任せて、そろそろ中の仕事をしてください」
「最後まで、やるよ」
だらしないと思われたくないと、廣沢はつい虚勢を張る。しかし、そうじゃないと水野が手を大きく左右にふる。
「先に戻って、部屋を暖めておいてください。それと、夕飯とか。あ、波多野さんたちも放ったらかしです」
「わかった!」
確かに、先にやっておけば都合の良いことが色々ある。廣沢は、お先にと手を振って、戻ることにした。
入り口の手前で長靴とスコップについた雪をはらい、上着と手袋をハンガーにかけてストーブの上に干す。
台所に入って時計を見ると、三時を過ぎていた。
正月の支度はほぼ済んでいるが、夕飯時の年越しそばの仕度をしなくては。
─── そうだ。二階の火はどうなってるだろう。
廣沢は、バケツに練炭を入れて、薪を数本抱えて二階へと向かった。
波多野の仕事部屋のドアをノックすると、「おう」と津田の声がした。
「失礼します。ストーブの薪をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
にこやかに返事をしたのは、波多野だ。
声のする方を振り向くと、大きなひざ掛けを何枚もかけて、長いソファにだらりと横になっている。その足元に座り込んで、津田はのんびりと煙草を喫っていた。
「少し、部屋の空気を入れ替えてもよろしいでしょうか」
「ああ、頼む」
廣沢は、大きくドアを開け、窓を細く開けた。
途端に、冷たい空気が流れ込んで、津田がたまらずくしゃみをする。
「寒ぃなぁ、おい」
「申し訳ございません」
「謝ることはないさ。ほら」
波多野は、ひざ掛けを一枚、津田に放ってよこした。
「ありがたい。廣沢、お前もまるで悪いなんて思ってねぇのに、口だけ謝るなよ」
「申し訳ございません。でも、喚起は必要です。ちなみに、冬が寒いのは私のせいではございません」
見当違いの文句にも、しゃらっと答えて悪びれない。廣沢は、津田には少しくだけた物言いをする。
それを、波多野は面白そうに眺めている。
「ところで、本日の夕飯は、年越しのお蕎麦です。簡単にと言われておりましたが、天ぷらをご一緒に」
「お。いいな。お前が揚げるのかい?」
「はい。ツタさんに教わりました」
「楽しみだ」
なぁ?と津田がソファを見上げると、波多野は満足そうに頷く。
「それから、初詣はいかがいたしますか?水野が言うには、この辺りでは除夜の鐘を聞き終わるとそのまま神社に行って、お参りをするそうです」
「夜中に?」
波多野は、また意外そうに廣沢と津田の顔を交互に見る。津田は、冗談じゃないとでも言いたげに首をすくめた。
「そうなんだよ。酔狂だよな。雪の夜に外に出るなんて。いや、夜には止むのか?」
「ラジオではそう申しておりました。ただ、かなり寒いのと、お足元が悪いかと」
「どうする?」
津田は、またしても相方にふる。
「正直に言えば、遠慮したい」
その相方も、苦笑いを浮かべて辞退を申し出た。津田と廣沢も、そうだろうと大きく頷いた。
「かしこまりました。では、夕飯にお酒をつけますので、陽があるうちにお風呂をお済ませください。その後は、明日の朝までのんびりお過ごしください」
にこやかに伝えると、津田と波多野は目くばせを交わして小さく笑った。
「ところで、なぁ、廣沢?」
「はい」
なんでしょう?と廣沢は小さく首を傾げる。波多野をちらりと横眼で見ると、ひざかけを肩まで引き上げて、ソファの上で寝心地の良い体勢を探している。
「洗濯機、貸してくれ」
「それでしたら、私がお預かりいたしますが……?」
「あ、や、それが」
津田が歯切れ悪く口をゆがませて、波多野はひざかけを頭からかぶってしまった。
それを見た廣沢は、ああと合点がいく。
「でしたら、そのお洗濯ものをお持ちください。一緒に洗濯機まで参りましょう」
「悪いな」
津田は、毛布にくるまれた波多野の足をぽんぽんとたたくと、煙草の火を消して立ち上がった。
言い出しにくい洗濯ものとは、シーツと二人分の部屋着と下着である。
津田は、シーツに包んだ洗濯物を抱えて、廣沢について歩く。
「ああ、その、例えば、なんだけどな? 染みになりそうな洗濯ものは、どうやったらきれいになるんだ?」
「汗染みなどは、最初に冷たい水に30分ほどつけて、水を取り替えながらもみ洗い致します。それから、改めて洗濯機に入れていつも通りに洗います。あの、津田様?」
「なんだよ」
「落葉松荘の中では、お二人共に、ごく自然に安心してお過ごしいただけていると思って、宜しいでしょうか」
「勿論。それがどうかしたか?」
「いえ。それを聞いて、私も安心いたしました。管理人としては、まず及第点というところでございます。よろしければ、そのお洗濯ものもお任せください」
やや得意げに笑う廣沢の顔に、ありがたいような、生意気だと文句を言いたいような、妙な気持ちになる。つまりは、照れ臭いのだ。だから、津田は、つい悪びれる。
「あいつが、俺にやらせたいんだとよ」
「さようですか。では」
廣沢は、満足気に更に大きく笑顔を作ると、盥を津田に渡した。
☆
仕事を納めた波多野と津田は、29日の夜からずっと二人きりですごしていた。時々廣沢が部屋を訪れて、ストーブや手あぶりの火鉢の心配をしてくれる。熱い湯をいれたポットを、取り替えたりもしてくれる。それに一言二言礼を言うだけで、二人は、ずっとくっついている。
布団の中で、寝間着を乱して絡まったり。
ストーブの前で、煙草の火を互いにつけて、ちびちびとウィスキーを飲んだり。
さすがに腹が減ったと階下に降りると、廣沢が暖かい飲み物を出してくれる。それを飲んで待っていれば、軽い食事がすぐに出てくる。
まるで、天国だ。
津田は、骨まで溶けそうだった。
幸せで、楽しくて、愛おしくて。
あの地獄にいた自分に、教えてやりたい。お前は一人じゃないと。
いや、あの頃から二人だったか。
戦況が悪くなっても、部隊が壊滅状態になっても、引き上げ船の船底にいた時も。いつでも、隣に波多野がいた。
二人で、帰って来た。二人で、生き残った。なら、二人で生きていけばいい。
今、暖かいストーブの前には、愛しい男がいる。
愛に疲れた体を、暖かく包んで休んでいる。その体と心を思って、津田はまた胸がほわりと熱くなる。
まったく。二人して、いかれている。
津田は、毛布代わりのひざ掛けに手を添えて、そっとめくる。
サラサラの黒い髪をかきわけると、長い睫毛と高い鼻が見える。その先に唇をそっと押し当てると、揺れた睫毛が津田の頬をかすめる。
「眠いのか?」
「いや」
「まだ、痛むかい?」
「いや」
いつもより少し低い声で話しかけると、波多野が顔を出した。
「明るいうちに風呂だってよ」
「シーツは?」
「洗った。今頃廣沢が、シーツは新しくしてくれてる」
波多野の鼻の頭がさっと赤くなって、また布の奥にもぐろうとする。
それを、ちょっと待てと津田の手が伸びて引き留める。
「恥ずかしがってるのも、悪くねぇな」
至近距離で甘く囁くと、津田はまた唇を落とす。波多野は、黙ってそれを受けて、時々自分の唇を津田の頬に押し付ける。
「ここより、あっちの方がよくねぇか?」
「せめて、少しくらい健全な場所にいようと思ったんだがな」
甘美な誘いに、降参だと波多野が小さく溜息をつく。
「どうせなら、一緒にごろごろしてようぜ。風呂が湧いたら、また廣沢が呼んでくれるさ」
波多野は、返事のかわりに上体を起こしてソファから立ち上がった。そして、すいと片手を差し出した。
その手をとって、津田はぐいっと波多野を抱き寄せる。
「やっぱり、あんた可愛いな」
「休みすぎで、莫迦になってるのさ」
「その位で、ちょうどいい」
二人は、連れ立って仕事部屋を後にした。
☆
ラジオの天気予報が伝えていた通り、雪は、日が落ちた後で止んだ。明日の朝には、初日の出が拝めるそうだ。
居間の食卓には、葱をたっぷり散らした湯豆腐、味噌漬けのチーズ、野沢菜の漬物と、熱々の天ぷらが並んでいる。どれも、廣沢の心づくしだ。
ただし、年越し蕎麦だけは、水野の担当だ。目の前の品をあらかた食べ終わってから、茹でることになっている。
ツタに教わって、廣沢の料理の腕はぐんぐん上がったが、蕎麦を茹でることだけは合格点がもらえなかったのだそうだ。
「お。上手そうだな。そうだ、お前たちも飲め」
津田は、まるで主人のような顔をして、二人に酒を勧める。
「でも……」
眉を下げて躊躇っていると、波多野が助け船を出した。
「あのぐい呑み、使ってごらん」
「ああ!」
水野は、ぱっと台所に戻ると、以前土産にもらったぐい呑みを持って戻って来た。
「これ、ですよね?」
「そうそう。それだ。ほら、廣沢君も何か良い湯飲みを持っておいで。皆で、飲みたいんだ」
波多野に背中を押されて、廣沢もすぐに青磁色の湯飲みを持ってきた。以前、津田が持ってきてくれた食器の中から選んだものだ。
「さぁ」
きゅっと酒瓶の口を開けて、二人の器に酒が注がれた。
ふわりと甘い香りが立ち上って、それだけで酔ってしまいそうだ。
「ありがとうございます」
二人は口々に礼を言って、改めて姿勢を正して座りなおした。
その様子を見て、波多野がゆったりと口を開いた。
「さて。今日で、今年も終わりだ。私のわがままで、この家に住んで、この家をここまで作り上げてもらった。ありがとう。来年もよろしく頼む」
そうして、波多野は軽く頭を下げた。
水野と廣沢は、誇らし気に笑みを交わして、深く頭を下げた。
「津田も。ありがとう」
「おう。長生きしろよ」
勿論だと、二人は軽やかに笑った。
そうして、グラスに波々と酒を注ぐと、手に持った。
「乾杯をしようじゃないか」
「はい!」
「それでは、今年一年お疲れ様でした。乾杯!」
「乾杯!」
高くグラスを掲げて、波多野は、すいと半分ほど飲んだ。
津田は、がぶりと煽るように飲んだ。
廣沢と水野は、恐る恐る器に口をつけて、一口飲んだ。
「旨い」
そう唸って、すぐに二口目を飲んだのは水野。
「んんっ!」
喉を抑えて噎せたのは、廣沢だ。
すぐに波多野が、コップに水を入れてくれた。
「何だ。廣沢君は、弱いのか」
「すみません。あの、こんな濃いお酒は初めてで」
こんな筈じゃないのにと、廣沢はしきりに首をひねっている。
「お前、安い清酒しか飲んだことないんだろう。これは、そんなのとは違うんだよ。加減して飲めよ」
津田が、酒瓶を片手に、偉そうに講釈を垂れる。
何を言っているんだと、波多野がその肩を軽く小突いている。
湯豆腐からは湯気が立ちあげり、からっと揚がった天ぷらは、箸がつくのを今か今かと待っている。今頃、ツタは小さな孫たちに囲まれているだろう。
何もかもが楽しくて、嬉しくて。
笑ってばかりの年越しの夜が、暖かく過ぎていった。
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