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〈番外編〉 藤代李玖という男
世界は色を失った。
私の番 が死んだのだ。
「ぅあ、あああ、あああああ!あーーーー!」
薬は間に合わなかった。
三日前、難病に罹 っていた彼女は特効薬の完成を待つことなくこの世を去った。
「あーっ!あああ!ああああ!ああああ!」
叶 。
すまない、叶 。
私は君を救えなかった。
何のための能力だ、何が神のごとき存在だ!
稀少種が一体何だというのだ、愛する者一人すら救えなかったではないか!番 を失った私はまともに立つことさえ覚束無い。
バンッ!ガッ!ガシャガシャーン!
怒りに任せ、検査台の実験器具や試験管を薙ぎ払い力なく膝折れる。
「ああ、ああぁ……うあーっ、あー!」
ダンッ、ダンッ
力任せに台を殴った。
「……さん、……さん!止めて下さい野原さん!」
誰かが私を羽交い締めにして、振り上げた拳を後ろから掴んだ。
「奥様が悲しむ!」
ハッ!
叶 ……叶 が……
「あなたが悲しみで自分を傷付けているのを知ったら、奥様はきっと苦しまれます。どうかヤケになるのはおやめください」
ふと見ると、台の上にあった器具は壁にぶつかり変形し、検証中の試験管もガラスが砕け無残な姿になっていた。床を濡らしているあの検体は叶 から摘出した患部の培養液──
「それに特効薬の完成は奥様の望みでもあります。研究にご協力下さった奥様の体を無駄にしちゃ駄目です」
そうだった。病気に罹患 したとき、叶 は私に言ったのだ。
(病に罹 ったのが私で良かったわ。この体を使って病気の研究をしてください。あなたはきっと特効薬を見つけてくれる。そうすればこの世界から不治の病が一つ消えるのよ。それが私の番 の功績だなんて、なんて誇らしい事でしょう。私の体があなたと世界の役に立てるチャンスだわ。遠慮しないでどんどん使って)
(おいおい、私をマッドサイエンティストにでもする気かい?)
あんまりな言い方に呆れ苦笑いしたのち、私はすぐに研究に没頭した。幾億もの可能性も実験を重ねて取捨選択していけば、いつかは答えに辿り着く。しかしそれまでに叶 は生き永らえてくれるだろうか。
焦る私を尻目に時は瞬く間に流れ、瞬く間に叶 は痩せて骨と皮だけになった。
そしてとうとう三日前、その力無い手で半狂乱になった私の顔を両手で包んで言ったのだ。
(なんて酷い顔。私より病人みたい……お願い、どうか悲しまないで。私は充分幸せだったわ。お互いいい歳ですもの、再会はすぐにやってくるわ。その時までお土産話をたくさん貯めててね)
重そうに頬から落ちた手が再び上がることはもうなかった。
叶 。
お前がいないのにどうやってこの世界を生きて行けばいいんだい?
ひとりぼっちになった私はいつまで人間でいられるだろうか。世界の全てがスクリーン越しの他人事のようだ……
いつの間にか藤代くんがガラスで切ったらしい血のついた手を実験台のシンクで洗ってくれていた。
彼の赤く染った横顔で夕刻を知る。
外を見ると山間に沈みかけた巨大な夕焼け。照り返しで茜色に光る雲のふち、薄い水色から桃色へと変わっていくグラデーションの空。
(凄い夕焼けね)
この空を見たら叶 はきっとこう言う。
(凄い夕焼けね、あなた。今日も一日お疲れ様。あなたのお仕事のおかげでこんな綺麗な夕日が見れるのよ。感謝してるわ)
私は大袈裟だよと笑っていたが、本当はその労 いにいつも救われてきた。
遠くでカラスの鳴き声と子供の高い声がする。長閑 だ。
「ああ、綺麗だ……私の番はもう居ない……私の世界は暗闇になったのに、どうして世界はこんなに変わらず美しいのだろう」
「それはあなた方が世界を守っているからですよ」
(それはあなたが世界を守ってくれているからよ)
藤代くんの言葉と叶 の言葉が重なる。見ると、悲しみを堪えた辛そうな顔をしていた。
そうだった。彼も叶 と親しかった。
私は己の苦しみで手一杯で、共に悲しんでいる彼を置き去りにしていたのだな。
「特効薬の研究は僕が引き継ぎます。あなたの椅子も僕が座りますから少しゆっくりして下さい」
「しかし」
「若輩者ですが少しでもお力になりたいんです」
検体は叶 の体から採取した病原菌を培養したものだ。彼女を死に至らしめたものを前にして冷静ではいられない。目の前のものを全て焼き払いたくなるが、そんな事をしても叶 は返ってこない、世界からこの病は消え去らない。
椅子とは稀少種が集まって会議を行う席の事だ。椅子に座るという事は私の業務を引き継ぐことを意味する。
私の隠密は既に密命中に命を落としており、今回更に心の支えとなる番 までも失った。手足と心の拠り所をなくした私がこれ以上業務を遂行出来ない事は、誰の目にも明らかだ。
だが空席を作るわけにはいかなかった。世界の動向を見張る最低限の人数が確保出来ない。私が担当していた懸案も宙に浮いてしまう。
それを分かっているのでこの若い青年が空席を埋めようとしてくれているのだ。
「奥様はこの美しい世界を愛しておられた。それを守ってきた貴方の仕事を誇りに思ってこられた。その仕事は僕が引き継ぎます。あなたと奥様の想いは僕が継いでゆきます」
「……ありがとう」
優しい子だ。
まだ若いというのに、私の重みを肩代わりしてくれようとしている。
全てを失った私に寄り添ってくれようとしている。
「じゃあ私は一線を退く代わりに君の手足となろう」
「えっ、それは」
「藤代くん、君はまだ隠密を決めてないだろ?歳若い君に無茶をさせるんだし、私が君の後ろに立とう。私もボケ防止に丁度いいさ」
君のことは叶 も気にいっていた。こっそり私たちの子供だと思ってもいいかい?君の成長は彼女への土産話になる。
叶 、一緒に彼を見守ろう。
私は涙を拭いて顔を上げた。
「そうだ、来年は高校卒業だね。君に奨めたい良い大学があるんだ、そこに進学してみないかい?世界に飛び立つ前に市井の暮らしを知るのも楽しいよ。近くには私が所有しているマンションもある。よければそこで私に君の保護者代わりをさせておくれ」
「野原さん……貴方にそんなことまでさせるなんて。僕はそんなつもりじゃ」
「嫌じゃないなら是非やらせて欲しい。私にも守るものがまだあると思わせて欲しいんだ」
「……はい。ありがとうございます」
ありがとうを言うのは私だよ。世界を呪う化け物になるところだった。救ってくれてありがとう。
「自分の隠密のコードを決めているかい?」
「ええ、マキを名乗って貰おうと思っています。時を巻き戻すのマキ、未来に向かって種を撒くのマキ」
「素敵だ。じゃあ私はこれからマキノハラを名乗ろう。新しい人生をスタートさせたいんだ」
「野原さん……」
「マキノハラだよ、李玖くん」
こうして藤代李玖の影、牧之原行利 は誕生した。
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