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第31話 雨の記憶

ぽつぽつと振り始めた雨が遠い記憶を運んできた。 (晶馬くんずいぶん大きくなったわね) (りかこお姉さん!こんにちは) (おみやげ持ってきたよ。気に入ってくれるかな) (うわあ、ポケッチュの新しいソフトだ。ぼくこれ欲しかったんだ。しゅんじ兄さん、りかこお姉さんありがとう) 僕が小学校に上がる前、年に数回ほど梨香子お姉さんと俊司兄さんが僕の家にやってきた。 梨香子お姉さんは僕のお母さんの妹で、俊司兄さんは梨香子お姉さんの旦那さん。だから二人は僕にとって叔母と叔父にあたる。だけど二人ともまだ若くて子供もいなかったので、僕たちは二人をお兄さんお姉さんと呼んでいた。二人は僕たち三兄妹を本当の子供のように可愛がってくれて、僕たちも優しい二人が大好きだった。 家まで車で二時間という遠い場所に住んでいたのでなかなか会えず、来た時はこうやってプレゼントを持ってきてくれた。 その時は、母さんは腕に寄りを掛けて夕食を作り、二人の好きなものがテーブルいっぱいに並ぶ。父さんと俊司兄さんはお酒を酌み交わし、兄さんと姉さんは梨香子お姉さんと流行りのドラマの話をする。母さんのご馳走をみんなで頬張ってわいわいと食べる夕飯は、話も弾んでいつもとても楽しかった。 その日も同じように楽しく過ごして二人が帰る時間になった。 (晶馬くん、次来る時はDVD持ってくるね) (うん!楽しみにしてる) お兄さんが当時僕が好きだったテレビ番組の劇場版のDVDを持っていて、次に持ってきてくれると言ったんだ。 (じゃあ近いうちにこなきゃ。来れそうになったらまた連絡するよ) (やった!) (俊司さん、梨香子、雨が降り出しそうだから気を付けて帰るのよ) (はあい。大丈夫よ、タイヤは替えたばかりだから降っても滑ったりしないわ。でも安全運転で帰るわね) (晶馬くんじゃあね、みんなもまたね) (気をつけて) (またね) (気をつけて帰ってね) (バイバイ) 次はいつ会えるかな、近いうちって行ってくれたからきっとすぐだね。僕はワクワクしながらお姉さん達を見送った。 病院から電話が掛かってきたのはそれから三時間後。 お姉さんたちが帰っていると、道の向こうの対向車が激しい雨でスリップして道路をはみ出し、お姉さん達の前の車とぶつかったらしい。お姉さん達もあまりにも突然の出来事に為す術なく、前の車を避けきれずぶつかった。だがそれだけじゃなく後ろの車からも衝突され、それは対向車を含む五台が絡んだ大規模な玉突き事故となった。お姉さんとお兄さんはすぐに病院に搬送されたが、その知らせを受けた僕達が搬送先に向かった時には既に息を引き取った後だった。 すぐに会いにくるという約束は、永遠に果たされることがなくなった── あの事故で気が付いた。 日常が変わらないって保証はどこにもない。さっき別れた人にまた次に会える保証はどこにもないんだ。 お姉さん達は約束通り制限速度守を守り、気を付けて帰っていた。でも前の車の衝突は避けきれなかった。 人にはいくら注意しても避けきれない事故や天災がある。それだけじゃない、心臓発作や脳出血なんかの突然死だってある。今笑っている人でも人知れず悩みを抱えていて、これから死に場所を探しに行くところかもしれない。 さっき元気だった人が今も無事とは限らない。また次に会える保証なんてどこにもない。 李玖先輩は、無事に帰ってきてくれるだろうか。 「怖い……」 僕はガタガタと震え始めた自分の体を抱いた。 考えすぎだ。 夜になったら先輩は大きくドアを開けて入ってきて「ただいま!会えなくて寂しかった」ってにこにこしながら僕にハグをするんだ。僕は「大袈裟ですよ」って返して、それでも先輩の背中に抱きつく。 大丈夫。あとすこし。あと数時間。 するとその時、携帯に着信を知らせるメロディーが流れた。この着信音は先輩! 僕は飛びつくように通話ボタンを押した。 「はい、晶馬です」 「晶馬くんゴメン!帰りの飛行機に乗れなくなった」 「えっ」 通話の相手はやっぱり先輩だったけど、その内容は予想もしないものだった。 「教授が学会の打ち上げで飲みすぎて寝ちゃったんだ。いくら起こしても起きなくて飛行機に乗せられない。今夜はこっちにホテルを取るしかなさそうだから、明日の朝に帰ることにするよ」 「そう、なんですね……」 「独りぼっちにしてごめんね」 「……」 「……晶馬くん?」 とっさに言葉が出なかった。 ばか、気弱になってるのが分かったら心配かけちゃうじゃないか。僕はどんどん下がっていく頭をブルブルと大きく振り、頭を上げた。 「ううん、大丈夫ですよ。先輩こそ学会お疲れ様でした」 「うん。早く帰って晶馬くんに癒されたい。そっちは変わったことはない?部屋にいて不自由なこともない?」 「ないですよ、快適です。まだたった一日しか経ってないのに」 僕を心配する先輩の声がくすぐったくて笑った。 心の霧が晴れてゆく。 そう、大袈裟だ。たった一日離れただけだ。明日になれば帰ってくる。 「そっか。よかった。こっちは雨が酷くなってきて肌寒いんだ。そっちも冷えてくると思う。風邪を引かないように暖かくするんだよ」 「えっ、そっちも雨!?酷いんだ……飛行機大丈夫かな」 「風はそこまで強く吹いてないから欠航はしないよ。明日こそ帰るから」 そうじゃない。飛行機が飛ぶかじゃなくて先輩が無事に帰れるかが心配なんだ。 晴れかけた黒い霧がまた立ち昇る。 「……気をつけて帰ってきてください。遅くなってもいいから無理しないで」 「うん、分かった。何もなければ明日の午前中にはこっちを出るからね」 そうやり取りをして通話を終えた。 京都も今、雨。 どうしても駆けつけた病院先の二人を思い出す。 事故は僕が小学校に上がる前だ。小さかった僕には初めて体験する永遠の別れで、ただ呆然となるばかりだった。 あの時はもう会えないという事実には実感がなかった。小学校に上がって大きくなるに従って死の別れがどんなに辛く恐ろしいかやっと分かるようになった。どんなに会いたくなっても会えない、その人との時間は、そこで止まる。 死別は、問答無用でお互いを永遠に引き離す事なんだ。 それが分かってからは雨が事故を思い出して苦手になった。 それでも悲しかったその別れから長い年月が経ち、中学も高校も卒業して思い出すことも殆どなくなっていった。それなのにどうして今になって鮮明に思い出してるんだろう。雨なんていつも降ってる、なのになぜ今こんなに不安になってるの? きっと、先輩を失うのを恐れているからだ。万が一でもいなくなる可能性は怖い。 僕は今、先輩の事が大好きで心の中が先輩でいっぱいだ。いなくなったらその部分が大きな空洞になり、他の誰にも何にも埋められない。そうなったら何も考えられなくなって僕はそのまま生きていけなくなる。お姉さん達との別れは悲しかった。でもその時とは比べ物にならない。先輩がいないと生きていけない。 不思議だ、つい数ヶ月前まではただの先輩だった。姿を見れるだけで満足で、話しかけてくれたら嬉しくて心配してくれたら心がホカホカした。番になったらそれが毎日になって、いつも楽しくて幸せで。それらは当たり前に僕の生活の一部に溶け込んでいった。 だからこそ怖い! 先輩がいなくなるのが怖い。 今、先輩は車で移動してるところかもしれない。その車が事故にあってる場面を想像したら心臓がばくばくする。乗る飛行機が落ちるところを想像したら吐きそうになる。 また会えるのが当たり前の筈だった梨香子姉さん達。優しくて大好きだったのにいきなり会えなくなった二人。家を出た時は約束が永遠に果たされないなんて微塵も疑ってなかった。 先輩、雨の中を無理に帰ってこないで。 悪天候を飛行機で帰ってきたら気圧の谷に落ちるかもしれない、着陸に失敗するかもしれない。車だとお姉さん達みたいに事故に巻き込まれるかもしれない。 ブルッ 一際大きく震えが走り、歯の根があわずにカチカチと音をたて始めた。 最後に交わした言葉は何だったっけ。朝、追い立てるように外に送り出したのが最後? (怖い……李玖先輩を失うのが怖い……) かつて体験したことのない大きな不安に飲み込まれ、自分で立っていられなくなって震える体を壁で支えた。

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