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第32話 りぃ

ピンポーン どのくらいそうしていただろうか。 部屋に備え付けられたインターフォンから不意に来訪を知らせる音がした。 先輩が帰ってきた! 僕は転がるように玄関まで走っていき、勢いよくドアを開けた。 バンッ 「おかえ……」 でも、その先にいたのはチャイムを押した姿勢で目を丸くした牧之原さんだった。 「びっくりした。李玖くんだと思ったの?ごめんね」 「え、あ、い、いえ……すみません」 そうだよ、先輩の筈ないじゃないか。さっき電話で京都にいるって聞いたばかりなんだから。 「クリーニングから戻ってきた衣類と李玖くん宛の郵便物を持ってきたんだ。帰ってきたら渡してくれる?」 「あ……はい」 僕は牧之原さんから抱えていた荷物を受け取った。 「あれ?……晶馬くん、なんだか顔色が悪くない?元気もないような……李玖くんがいなくて寂しいんだろうけど、もしかして具合も悪かったりするの?」 「い、いえ、具合は……レポート書いてたから……寝不足なだけで……。李玖先輩のお帰りが明日になったから、今日は早めに休みます」 僕はもごもごと言い訳をした。あながち嘘という訳でもない。昨日は遅くまでレポートを書いていたから本当に少しだけ寝不足だった。 「あらら宿泊伸びたんだ。じゃあそれがいいね。もし体調が悪くなったら部屋のインターフォンを使って内線で連絡するんだよ。薬箱を持って様子を見に来るから」 「はい」 「大丈夫、寝てたらすぐ明日になるよ」 「……はい」 こくりと頷いたら、肩を優しくポンポンと叩いて励ましてくれた。そのあとも牧之原さんはまだ心配そうだったけれど、配り物の途中だったらしくて「無理せずゆっくり休んでね」と告げて荷物を届けに次の部屋へと向かって行った。僕は牧之原さんと別れてドアを閉め、内側で扉に背中をつけた。 (そうだよ、何も起こらない。一晩たてばすぐに帰ってくる) 牧之原さんが明るく話してくれたので、気がまぎれて不安が少し薄れていた。 初めて会った時はきちんと敬語で挨拶をしてくれた牧之原さんだけど、今はプライベートだとフランクに接してくれる。年が離れていても李玖先輩と仲のいい友人で、僕も先輩と同様に息子みたいに可愛がってもらってるのだ。もし僕が本当に具合が悪くなったら、家族のように手厚く看病してくれるだろう。この不安も零したら否定して元気づけてくれる筈だ。 だけど、どんなに仲良くしてもらっても牧之原さんは牧之原さんであって李玖先輩じゃない。この寂しさは先輩にしか埋められない。 不安も恐怖も先輩の無事な姿を見るまでは完全には消えない。むしろさっき先輩が帰ってきたと期待した分だけ、余計に寂しさが募っていた。 会いたい。無事を確認したい。 でも急に宿泊が伸びたから新たにホテルを取る手続きで忙しいと思う。さっき電話で話したばかりなのに、こんな些細なことで連絡なんてできない。 先輩。 今すぐ抱きしめて欲しい。先輩の匂いに包まれたいよ。 僕は手渡された服に顔を埋めた。でも、クリーニングから返ってきたばかりのそれからはいつもの先輩の匂いがしない。匂いで安心したいのに不在ばかりを思い知らされる。 会いたいよ。 ぽろりと涙が出て慌てて顔を離した。せっかく綺麗になったのに染みになってしまう。涙が付いた部分を染み込まないようにと軽く手で払い、ウオークインクローゼットにしまいに行った。 整頓されたクローゼットの衣類には、クリーニングされた服よりも先輩が洗濯機で洗った服の方が多い。それらの服からは柔軟剤だろう、いつもの先輩の匂いがした。 僕は持ってきた服を棚にしまい、畳んであった服にさっきと同じように顔を埋めて深呼吸をした。甘くて優しい花の匂い。これに先輩自身の匂いが混じると、とっても安心できるいい匂いになるんだ。 ふと気付いた僕はハンガーに吊るしてあった上着に袖を通した。それは僕には大きくて袖を引っ張ると指の先まで隠れ、前みごろはクロスして重ねても布地が余るほどだ。 思った通りこの服には先輩の匂いが残っている。まるですっぽりと抱きしめられているみたいだ。安心する…… ドーーン! 「ひ……っ!」 突然、地響きのような重低音が体を貫き、気が緩んでいた僕はいっきに竦み上がった。 落雷!事故の日がいっきにフラッシュバックする。 稲光りの中、病院へと急ぐ車。激しい雨をかき分けるせわしないワイパー。 辿り着いた病室で泣き崩れる母さんの声。 (梨香子、りかこぉぉ!) ショックで強ばる体をギクシャクと動かしてクローゼットを出て窓の外を見れば、強い風に煽られた横殴りの雨が窓を濡らしていた。 ゴロゴロゴロ…… 雷鳴はまだ続いている。まるであの日の嵐のよう。 頭の中で流れるお姉さんたちの事故の瞬間の映像が、先輩の驚いた顔にすり替わって再現される。 「!やだ、いやだ!」 (怖い!いやだ、せんぱい、いやだせんぱい) 「先輩……せんぱい……会いたい……っ!」 (おかあさん、ぼく、りかこおねえさんたちにあいたい。いっぱいねたよ。なつ休みもお正月もおわったよ) (母さんも会いたいわ。でも梨香子たちは遠いところに行ってしまったの。もう会えないの) (もっともっといっぱいねてもダメ?ずっとずーっとまっててもだめ?やだやだ、あいたい。やくそくしたのに。すぐにくるっていったのにー。あいたいあいたい。うえーん) 先輩は今頃ホテルに向かう車の中だろうか。それとも街中を歩いてる? お願い、事故になんか遭わないで。どうか、無事に帰ってきて。 りかこ姉さんたちみたいに急にいなくならないで。 世の中にはどんなにお金を出しても頑張っても、どうしても叶わない願いがある。あの時そう悟ったんだ。 「こわい……」 不安にさせる激しい雷雨はまだまだ収まりそうにない。僕はこれ以上見ていられず窓辺を離れた。 ふらふらと入ったのは先輩の部屋だった。 無意識に安心出来る場所を求めてベッドの布団に頭を突っ込んだ。 ああ、先輩の匂いだ。全部を包まれたくて、もそもそとベッドに潜っていった。しばらく布団の中で丸くなったあと、布団を被ったまま部屋を見渡した。 部屋には先輩の匂いも痕跡もある。 インテリアとして立て掛けているギターは中学の音楽の授業で使ったそうだ。僕の学校ではやってないと言ったら、ベッドの縁に腰掛けて二人羽織のように僕を後ろから抱え込んで指使いを教えてくれた。(授業で習ったのはこれ。物悲しいけど繊細でギターの為の曲だよね)背中にピッタリくっついた先輩の暖かさをまだ鮮明に覚えてる。真横でギターを覗き込む、長いまつ毛に見惚れてドキマギしながら聞いたメロディ。 あの時は綺麗な曲だと思ったけど、今は哀しくて切なくてつらい。なのに今、頭のなかでぐるぐると回り続けている。 布団からそろりと出て、弦に触れたところでまた窓の外の稲光が見えた。 「ひっ、やだあ……こわい……こわいよ……」 ピーポーピーポー……ピーポーピーポー…… 遥か遠くで小さく救急車のサイレンが聞こえる。 もしかしてあの中には李玖先輩が乗ってるんじゃないだろうか……ううん、そんなことない!そんなことあり得ない!ドクドク、ドクドク。心臓の音がやけにうるさくなってきた。僕はギターを抱えてこの部屋からも逃げ出した。 あちこち先輩の面影を探し回り、いたるところで見つけたそれら全てに頬ずりし、最後に辿り着いたのは先輩と眠る天蓋付きの大きなベッドのある部屋だ。 この部屋はヒートの期間も過ごせる防音防臭の密閉空間だから、ここなら雷の音も稲光も追ってこない。 ここが一番安心できる場所。 先輩はここで僕に何度も愛を伝えてくれた。隔てるものが何もない体温は暖かくて、力強い命の脈動は僕に先輩をしっかりと刻んでくれた。指を絡めて奥まで深く溶け合い、心も体も全てがむき出しで何も隠せなくなった時に僕を呼ぶ声。 あの声が、平凡な僕が畏れ多くも稀少種である先輩の番だといつも証明していた。 その声も、もう聞けない? ここに辿り着くまでさまよってきた部屋には家具にも道具にも日用品にも全て李玖先輩が使ってる痕跡と匂いがあった。日は浅いけど僕との思い出もあちこちに散らばっていた。先輩のタオル、腕時計、揃いの食器、キャンディポットのお菓子、僕用のルームウエア…… どこにでも先輩の面影があるのに肝心の先輩がいない。こんなに求めているのに先輩だけがいない。 世界にぼく一人だけが取り残された── 何故かふいにそう思った。 そんなことない。友達の田中君も安永君もいる。父さんや母さん、兄さん姉さんもいる。牧之原さんも心配してくれてる。僕の周りにはたくさんの優しい人たちがいるのに。 先輩がいないだけ。 一番そばにいて欲しい李玖先輩がいないだけで僕はこんなにも孤独。 失うかもしれない恐怖に心が張り裂けそう。 「……っ、せんぱい、りくせんぱい」 もう限界。 「りくせんぱ、……ヒクッ、りくせんぱ、ヒクッ、」 両目から溢れた涙が堰を切ってボロボロと落ち始めた。 持ってきたギターやキャンディポットを抱きしめる。幸運の子馬も先輩のアルバムも引き寄せて全部抱えた。 「あぁーっ、うぅ、えっくえっく、りくせ、んぱい、ひっく、うーっ。ぃくせんぱいー」 ベッドの上で突っ伏してやわらかなビロードの敷布に顔を押し付ける。 「いくーせんぱぃー。うーっ、ぅうーっ、ぃくー!りくー!」 いなくなるの怖い。 「りー、りぃいいー!うぁーっ、あーっ、りぃいー!」 ひとりにしないで。どこにも行っちゃ嫌ぁ。 「りぃいー!こわいよー。りいぃ!うぅー、ううーっ、りぃー!」 上を向いて大きな声で名前を呼ぶ。 「りぃ!りぃ!りいー!りぃーっ!うぁーん。りぃー」 あなたのいない世界なんて嫌だ! 「りぃー!りぃー!りぃぃー!りぃぃー!」 その時、まっ暗な部屋に光が入った。 「晶馬くん!?」 「!」 ふり返ったら光の中にコートの影が見えた。 「りぃー!」 ぼくはベッドを落ちながら影に向かって走っていった。

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