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第35話 〈 side.藤代 〉 京都にて(一日目)京都の夜
今年もまた化学療法学の研究発表会が京都で開催される。化療の学会と呼ばれるその発表会に、今年は僕、藤代李玖も出席することとなった。
とある難病の研究をしていた僕の大学のラボがやっと特効薬を開発し、タイミング良くそこで発表する事になったのだ。指揮を執っていた教授が僕を同行者に指名したが、僕は彼のゼミの学生ではなく、研究も協力していたに過ぎない。本来なら同じゼミの学生かラボの研究員が行くべきなのだが、教授のたつてのご指名なのでありがたく拝命することにした。
だが学会は前日に会場で打ち合わせがあるため前乗りで京都に一泊しなければならず、晶馬くんとの週末のデートがお預けになってしまうのがとても残念だ。ましてや今は晶馬くんの傍を離れる事に少しだけ気掛かりな点がある。
高村くんとの〈運命の番 〉の鎖を無理に切ったので彼のバイオリズムが崩れているのだ。発情期 と発情期 の間におこる高体温期と低体温期の切り替えが上手く行われておらず、新陳代謝が低下して免疫が落ちている。そして晶馬くんに自覚はないけれど、落ち込んだり喜んだりといった感情の振り幅もいつもより大きい。悪い要因が重なればそれだけ精神的ショックも受けるだろう。僕との発情期(ヒート)が来れば新しいバイオリズムが始まって通常に落ち着くのだろうが、その兆しは未だ無かった。
なのでレポートを口実にして晶馬くんに部屋に泊まってもらい、何かあった時は裏で牧之原さんに対応してもらうことにした。僕の普段の生活を知ってもらう良い機会でもあることだし、帰って来た時に愛しい恋人が出迎えてくれるなら旅行の疲れもふっ飛ぶというものだ。
その学会を明日に控え、今日の午後にはあちらに到着しなければならない。
あと一時間でマンションを出て空港に向かうべく、あれこれ考えながら鏡の前で出掛ける準備をしていると、晶馬くんのいる部屋から
ゴンッ
と大きな音がした。部屋を見に行くと晶馬くんが机に突っ伏している。
「今凄い音がしたけど大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
「そう?」
でも顔を上げた彼のおでこは赤くなっていた。
僕が覗き込んで腫れてないか確認していると、おでこと同じように顔を赤くしてあさっての方を向き上体を逸らした。焦る姿が可愛い。
「赤くなってるよ」
チュッ
前髪をそっと分け、おでこにキスを落とす。
「痛いの痛いの飛んでけー」
笑いながら更にペロリと舐めて、晶馬くんがジタバタしているのにも構わらず、胸に抱き込み後頭部をよしよしと撫でた。
「ああ、もう心配。一人にしたくない。行くの止めようかな」
「ダメですよ。教授とご一緒なんでしょ?行かないと怒られますよ」
「そうなんだよね……はあ、仕方ない、行ってくるよ。お土産 を買ってすぐに帰ってくるからね、待っててね」
「お土産はいいんです。気を付けて行ってきてください。……待ってます」
「晶馬くん……可愛い!」
「わわっ、もういいですって!ほんとに遅刻しますよ!」
後ろ髪引かれる思いでマンションをあとにして、教授との待ち合わせ場所へと向かった。
「おはようございます」
「おはよう」
予定通りに教授と空港で落ち合った。そのまま飛行機で大阪に飛び、電車に乗り換えて京都へ入った。一旦ホテルに荷物を置いたのち、すぐに会場となるホールに向かい関係者と入念な打ち合わせを済ませた。
そのあとホテルの部屋に戻りネクタイを緩めて、そこでやっと一息ついた。
「くたびれたな」
教授は背広をハンガーに掛け、ソファーに体を深く沈めた。
「ええホントに」
僕が部屋に備え付けてあった茶器で日本茶を淹れて湯呑を手渡すと、教授はすまんなと仰って受け取り、一口飲んでほっと息を吐かれた。
僕も湯呑を手に向かい側のソファーに座り、しばし休憩したあと明日の予定を確認するために手帳を開いた。
明日の午前中は二人揃って発表会に出席する。そのあと教授は午後からの打ち上げパーティーに参加、僕は同時刻に開催される別の会合に参加という個別行動を取る。それが終わったら再び合流して、夕刻に帰りの飛行機に乗るという手筈だ。
教授が開発した特効薬は今回の学会の目玉だ。パーティーには専門誌のライターや他大学の教授、医療関係者など多くの者が祝辞とともに彼の元を訪れるだろう。
「明日教授はパーティーでもお祝いのお客様で大忙しですね」
「祝いか……」
教授は何かを考えるように湯呑に目線を落とし、逡巡した様子で口を開いた。
「……藤代君、本当なら今回称賛されるべきなのは君だったんじゃないかと僕は思ってる」
おや……
「いきなりどうしたんです」
教授はお茶をさらにぐぴりと飲み、テーブルに湯呑みを置いて続けた。
「この特効薬の開発は、君がやってみないかと僕に持ち掛けてきたものだ。君は当時まだ誰にも解明できていなかった化学式を僕に見せてこう言った。
『難病の原因となる物質の構造式を手に入れました。これがあれば特効薬が出来る筈です。研究してみませんか』
生体化学は専門じゃないから僕にやって欲しいとの事だったので、君が参加することを条件に引き受けた。でも本当はあの時既 に特効薬は出来上がっていたんじゃないのか?」
疑問形だが確信しているような口調だった。
「何故そう思うんです」
「順調に進み過ぎたからさ。研究の着手から新薬の完成までの期間がありえないほどに早かった。それは、普段なら頻繁に起こる実験の迷走や行き詰まりが無かったからだ。わき目も振らず真っ直ぐに正解というゴールまで辿り着いた感じだ。だが、それが実現できたのは君のサポートがあったからだ。
君は薬の候補としていくつかの物質が浮上した時、有力候補だったそのうちの一つをすぐさま実験した。そして『思った成果は得られなかった』と報告して、たった二日で候補から消した。あれはその物質がハズレだと知っていて先手を打ったんじゃないか?おかげで選択肢が減り、あり得ないくらい早く薬が出来上がった。
ずっと研究されてきたのに長いこと発見されなかった特効薬だ。稀少種である君の協力があったとしても、この新薬の開発の早さは異常だ」
「ふむ……」
「そもそも難病の原因はすでに広く知られていた。分からなかったのはその原因になる物質のどの部分がどのように作用しているかだ。それが分かりさえすれば、あとは物質を分解する薬なり、作用を打ち消す薬なりを開発したらいい。構造式が分かったということはどこの部分かの特定ができるという事で、薬の完成までの道筋が見えたことに他ならない。君はそれが分かっていたから僕に研究しないかと言ったんだ。それはコックに出来上がる寸前の料理を差し出して『盛り付けして客に出せ』と言ってるようなものだ。構造式を割り出した人物は、薬の完成まであと一歩だったのに何故自分で完成させなかったんだ?そもそも一体君はどこから構造式を手に入れたんだ」
「……きっと料理を作った者は自分が作った事を隠したかったのでしょうね。コックが一から作る時間も惜しんだに違いありません」
「ということは、やはりあったんだな?特効薬。どうして再び俺に作らせた」
「薬を一刻も早く世に出さねばならなかった為。しかしそれは、我々稀少種が出すわけにはいかなかったのです」
わたしは真実を打ち明けることにした。
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