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第36話 〈 side.藤代 〉 京都にて(一日目)京都の夜 2

「ご存知の通り、この病は脳の伝達物質が異常をきたして全身の神経が麻痺し、徐々にやせ細って最後は骨と皮だけとなり死に至ります。 ある日、この恐ろしい病に一人の女性が罹患しました。彼女は稀少種の番でした。稀少種だった夫は妻を救うために死に物狂いで病の解明を始めました。私が貴方に渡した構造式を割り出したのも彼です。 彼は住まいの一角を研究施設に変えて数多の器機を運び入れ、奥様から採取した病変部位を培養して何千という検体を試験管に作り、病に効く可能性のあるものを片っ端から実験していきました。しかし、研究半ばにして彼の番は亡くなってしまった。稀少種の力を以てしても薬の開発は間に合わなかったのです。 今回の教授の研究で私が排除した候補は、彼が実験を行った中で最も時間のロスを生んだ物質です。この物質は一時的にですが病の進行が停滞したため、希望を見い出した彼は実験を重ねていきました。試験管での化学反応は途中まで順調に進み、配合と条件を変えた試作品は百本近くにも上りました。しかしいくら稀少種といえど反応の速度を早められる訳もなく、結果はすぐに手に入りません。ゆっくりとした工程変化をジリジリと焦りながら見守ったものの、しかしその全ては失敗に終わっていきました。その大幅な時間のロスのせいで薬の完成は間に合わず、奥様は帰らぬ人となった……彼の絶望は如何ほどのものだったか……。 稀少種ですら手を焼いた物質です。教授のチームがあのまま実験を始めたなら、数年を無為に使った事でしょう」 「っ、数年、」 「或いはもっと。それでも実験の途中でなにかしらの副産物、つまり他の分野に転用できる有益な情報がもたらされるなら、そのまま実験を続けてもらったかもしれません。だが最悪なことに新しい発見は何ひとつなく、ただ無駄に時間を消費しただけでした。わたしはあなた方に彼の絶望と同じ轍を踏ませるわけにはいかなかったのです」 「そうだったのか……それであの候補を外したんだな」 「ええ。そしてその後、更に急を要する理由が出来たので」 「更に?」 「そうです。私は番を失い、失意のどん底に落ちた彼から研究を引き継ぎました。その時点で特効薬の完成まではあと一歩でしたが、開発を続けていると試験管の一本が信じられない反応を示しました。 あるウイルスを投入して反応を観察したところ、ウイルスが病気の因子を取り込んだのです。そのウイルスはインフルエンザに類似しており、接触感染も空気感染もします。ということは、人から人へこの病の症状が移っていくことになる。 この瞬間、特効薬のない、死に至るウイルスが誕生したのです。 もしこのウイルスが広がれば、治せる薬も拡大を止めるワクチンもないのですから史上最悪の世界的大流行(パンデミック)が始まってしまう。世界は一気にパニックになります」 「パンデミックだと!?この現代でそんなまさか!」 「医療の進んだこの現代でまさか。そう思うのも無理はありません。もちろんこのウイルスは跡形もなく抹消しました。ですがこの先、いつどこで再び発生してもおかしくありません。 歴史とは、愚かな行為を繰り返さないために現代に語り継がれる過去の経験。しかし人類はコレラやペストなどの伝染病の歴史があるにも関わらず、何度も大流行を繰り返してきました。 実は、今あなた方が知る歴史の中には何らかの理由で現在に伝えられていない過去が幾つかあり、その一つにとある伝染病のパンデミックが含まれています。 その伝染病は、発生した時期も発生源の街も分かっていたのにその場所だけで病を封じ込める事が出来ませんでした。どんなに医療が進んでも、広がりを防げるかどうかは個々の行動に掛かってきます。 当時の人々も『この現代でそんなまさか』と考えていました。「遠い場所だから関係ない」「自分に限ってまさか」その考えが人々に対岸の火事として無責任な行動を取らせ、世界規模の伝染病に拡大させてしまったのです。国々は外出自粛や個々の衛生管理の推進などで拡散防止を訴えましたが、罹患者は広がり続けました。 そうしているうちに貿易が制限されて全世界の流通が鈍り、個人消費も国内、国外の総生産も落ち込み、世界経済は急激に冷えこんでいきました。各家庭が経済的な不安を持ち買い控えをするようになると益々経済は回らなくなり、負のスパイラルから抜け出せなくなったのです。それが全世界に広がると、数年、或いは数十年に及ぶ世界的規模の不景気が始まりました。そうなると国々が国庫を開けて経済の下落をくい止めようとしても最終的には世界恐慌にまで至り、自力で回復することは難しくなります。企業は倒産が相次いで街には失業者が溢れ、自ら命を絶つ者も出始める…… 当時のパンデミックは、特効薬が開発されてやっと終焉を迎えました。逆を言えばそれ以外にどんな方法もパニックを止める事は出来なかったのです。もしその過去が歴史として残っていたとしても、今回もまた人類はパニックを起こすことでしょう。 ところで国が不景気から脱却する簡単な方法をご存知ですか?」 「簡単な方法?」 「戦争です」 「!」 「武器や戦闘機の製造、軍に関わる職種に必要な物資その他もろもろ。戦争に掛かる軍事費用は莫大で、戦争をすることで経済が回り始める。掛かった費用は戦いに勝てば敗戦国からの補償で補える。 もし発生源が特定できていれば、それを敵対国のテロだと主張して、大義名分を掲げてその国と戦争に突入できます。真偽はどうでもいいのです。彼らは自分が悪者にならずに、正義の名のもとに戦争がしたいだけなのですから、こんなチャンスはめったにありません。ですが、そのシナリオだけは絶対に避けなければなりませんでした。 今回も一歩間違えればそこまで行き着く恐れがありました。なので先に特効薬を用意する事で、それら一連の可能性を潰したかったのです」 「ち、ちょっと待ってくれ、じゃあ俺が作ったのは単に難病の薬というだけじゃなく、」 「ええ。世界恐慌と最終的には戦争に発展しかねない可能性も消して頂きました」 「マジか……」 息を詰めて身を乗り出して聞いていた教授は、椅子にドサリと背を預け、天井を仰いで震える手で顔を覆った。 「話が大きすぎる……」 「教授には感謝しています。貴方が仰るとおり、この難病の薬は既に開発されていました。なので一刻も早く世に出したかったのですが、これを私たち稀少種が出す訳にはいかなかったのです」 「どうしてです?」

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