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第57話 天使の悪意

(※ 11/11 前ページに藤代サイドの番外編を挿話しました) ​───────​───────​──── (ふざけるな!) ドンッ 天沼淳也は怒りに任せて壁を殴った。フィットネスジムの壁一面は鏡であり、そこに写る瞳は怒りに燃えている。 (あの平凡め!お前には高村(クズ)がお似合いなんだよ、なに他人の獲物を横取りしてんだ) ‪α‬とΩが発するフェロモンは相手を誘惑する為のものであり、(つがい)が出来るとその必要が無くなって互いにのみしか分からなくなる。 稀少種である藤代李玖から匂いが消えた時、(つがい)の座を狙っていたΩ達は半ばパニックになりながら原因を探った。淳也も同じで、(つがい)が出来たのなら何としてでも探し出して別れさせようと考えた。 藤代李玖を囲むΩたちは皆これまで彼の一挙一動に注目してきた。彼が特定の者に恋愛的な行動を取ればたちまち大騒ぎとなった筈だ。だがそんな素振りは全く見られず、だからもし(つがい)が出来たというのなら、予期せぬ発情期(ヒート)に巻き込まれてとっさに噛んだのだろうと推測される。 (事が穏便に済むなら金を払って別れさせる。嫌だと言うなら裏社会に落としてでも諦めさせる) 藤代も相手が身を引きたいと言えば執着はしないだろう。 そのあとは相手が平泉家の嫡男じゃないなら他は敵じゃない。番を失った藤代にはすぐに天沼家(うち)の秘薬を飲ませよう。そうすれば僕が新たな(つがい)だ。 番の存在が明らかにされていないうちに秘密裏に処理をしなければ…… そう思っていたのに、そいつが誰なのかは皆がいる場所で判明した。 あの日、誰かの呼び声を聞いた藤代は突然振り返り、身を翻して声の方向へと走っていった。その先にいたのは彼が後輩として可愛がっていた男で、二人のあいだには親密な空気が流れていた。 そいつを片腕に抱えた藤代はその場で二人分の休講を電話で申請して、奴を大事そうに抱えて足早に去っていった。 疑う余地はなかった。その場にいた皆が悟った。 あいつだ! (はあ?あいつ?なんの取り柄もない貧相なあいつが?) 地味で平凡。それが俺たちがアイツに抱いていた印象だ。俺たちより優れた所なんか何ひとつ無い。それになんと言ってもあいつには運命の番(たかむら)がいる。だからいくら藤代李玖が後輩として可愛がってもノーマークだった。 (ふざけるな、こっちは日々努力してんだよ。美貌を維持して周りも牽制して、やっとの思いで稀少種に近づいたんだ。ドロボウ猫が何の苦労もなく掠め取るんじゃねえ!あいつには高村みたいなクズが似合いだ。あんなどうでもいい奴のせいでこの僕の計画がパァだなんて……) 淳也のプライドは深く傷ついた。 (あったまにきた!あいつだけは絶対に許さない。地獄に突き落としてやる) 僕の秘薬をあいつに使ってにやるよ。 秘薬は、天沼家の後継者が優秀な‪α‬を一族に取り込む為に生涯に一度だけ使える貴重なものだ。僕に与えられたその大事な一回をあいつに使ってやろう。相手には似合いの下衆を用意しておくから再び不幸に落ちるがいい。 (僕には秘薬なんて必要ない。藤代は僕の実力で落としてみせる) 天沼家の後継者のプライドにかけて。 そうと決まれば藤代の取り巻きたちにアイツを呼び出させよう。誰もが(つがい)を排除したいんだ、そんな中でどんな事故が起こっても不思議じゃない。 木を隠すなら森の中、悪意を隠すなら悪意の中。藤代さまの(つがい)が《》に《》されたとしても誰が犯人かなんて分かりっこない。 (もっとも秘薬の存在は誰も知らない。何が起こったかすら誰にも分かりっこないけどね) 鏡には美しい男が映っている。 鏡の中の男が妖艶に笑った。淳也は男が真珠のようにきめ細やかな肌を撫であげる姿を、うっとりと眺めていた。

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