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(番外編)〈 side.藤代 〉回想・出会い

(Ωが‪α‬を介抱している) ふと見た光景が珍しくて、僕はしばらくそれを目で追っていた。 その日もいつもと同じような飲み会だった。大学のサークルが合同で開催した、知らない者どうしが大半を占める集まりだった。 多分その二人も初顔合わせだ。具合が悪くなった‪α‬を離れた席に座っていたΩが介抱している。 ‪α‬の男性は吐き気が込み上げた‪ようで、Ωの子に支えられながらよろよろと大広間から出ていった。 多分トイレで嘔吐(おうと)しているのだろう。Ωの子がおしぼりを取りに戻ってきた。彼が出ていくと幾分具合がマシになった‪本人‬‬が入れ替わりに‪戻ってきて、バツが悪そうな顔で手荷物を持って帰ってしまった。 多分Ωの子はトイレで彼の吐瀉物(としゃぶつ)を処理して戻ってきている。水気を含んでしっとりとなった手で(まく)った(そで)を下ろしながら席に戻り、彼の行方を探し、隣の席の者から帰った事を聞くとホッとして自分の席に戻って何事もなかったかのように食事を再開した。 随分とお人好しで変わった子だ。 わざわざ席を離れ、‪相手がα‬なのに気後れすることなく世話を焼いている。なのに介抱された当の‪本人‬はトイレで吐いて具合が良くなり、自分がΩごときに介抱されたのが恥ずかしくなって逃げるように帰ってしまった。きっと礼なんて告げてない。戻ってきてそれを知っても相手の具合が良くなった事に純粋に安堵だけして自分の席に戻っていった。 人は、他人に何かをしたら無意識に対価を求める。それはお礼の言葉や品といったものだが、もしそれがなかったら、好意からした行動でも自己満足という外聞の悪い名前に変わってしまう。そうならないように、自分が行った行動が相手に感謝され、報われる事を望むのだ。 だがΩの子は礼も言わずに帰った‪α‬の非礼を全く気にしていなかった。それどころか、余計な世話を焼いて‪プライドを傷つけてはいないかと内省しているようでもある。α‬とΩの垣根を超えるという離れ技を繰り広げ、純粋に具合を心配しただけの厚意であるにも関わらず、だ。 彼がふと食事の手を止めて腕の臭いを嗅いだ。 僕の胸はしくりと痛んだ。 その事をきっかけに、彼、日野晶馬くんを日常の中で少しだけ追うようになった。 彼は特に目立つ事のない普通の子で、構内でも人々にとけ込んで学生生活を送っていた。 敢えて特徴を探すなら彼の友達は同じΩ種ばかりではなかった。お人好しでα‬やβともフラットに接する晶馬くんは、相手に敵対心や競争心を持たせず、クラスメイトや友達と(かたよ)ることなく緩やかな関係を築いていた。 Ωに差別意識を持つ人物からの悪意ですら恨む事をせず流し、彼の周りには大抵優しい風が吹いていた。 だが、今の彼になるまで彼の心は何回かさぶたが剥けたのだろう…… 成長過程で心に傷を受けると、人は歪むか優しくなるかどちらか一方へと極端に傾く。きっと彼は家庭環境に恵まれていたのだ。優しさに針が振れた。 僕は、知れば知るほど晶馬くんに惹かれていった。いまどき見ないほど素直で純粋な子だ。性種を区別しないところも、見返りを求めない優しさも、お人好しで損をしがちなところも全て好ましい。 あの真っ直ぐな瞳に見詰められたら、中にはどんな僕が映るのだろうか​。 あの子が欲しい。 それは僕が初めて持った欲だった。 あの子はどんな声で僕を呼ぶのだろう。内包している傷を癒し、他人の事ばかり心配する彼自身を甘やかせば、きっと脳が蕩けるような柔らかな声で僕を呼んでくれるに違いない。 懐に大切に仕舞い、全ての悪意から遠ざけて優しい世界にだけ触れさせたい。いつでも笑っているように、そっと守っていきたい。 (あの子に僕のことを個人認識させてみよう) 稀少種ではなく、藤代李玖と認識させるのだ。 もしかするとを見てくれるかもしれない。 偶像崇拝の対象でなく、血の通った只の男として。 富と名誉をもたらす者でなく、手を取りあい共に築いてゆく者として。 その機会はゼミの合同飲み会でやってきた。 「そんなに硬くならないでよ。日野くんは酒井ゼミの子だよね。僕もあの教授にはお世話になってるんだ。半分酒井ゼミの生徒みたいなものだから、君は僕の後輩だな」 「そんな恐れ多い!」 更に、先輩と呼んでと言うと無理ですと手を横に振られ、呼んでと笑ってゴリ押しをした。 「せ、先輩……」 「お、良いねぇ。なんだい、後輩くん」 全ては上手くいく筈だった。 幸せの始まりに浮かれていた。 運命という悪魔が彼を(さら)っていこうと忍び寄っていたというのに、その時の僕は気付く(すべ)を持たなかった。 彼は、更なる過酷な試練に晒されてしまった。 「りぃ……」 呟いて身じろいだ愛しい(つがい)。 今どんな夢を見ているのだろう。 僕を呼ぶ甘やかな声がこれ程までに僕を幸せにするなんて想像も出来なかったよ。 今度こそ手に入れたのだ。 もう取り零さない。 僕は、晶馬くんを抱きしめて肩の毛布を掛け直した。

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