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第62話 EARTH BORN

『この世界には消えた歴史が存在する』 りぃが言った。 「晶馬くん、一昨年(おととし)の2020年に東京でオリンピックがあったよね」 「オリンピック?うん。日本にたくさん外国から選手と応援のお客さん達が来て凄く盛り上がったね。オープニングセレモニーも閉会式も華やかだったし、デパートもセールして国中がお祭りみたいだった」 「そう、とても華やかだった。そのオリンピックって、ちょうど四で割れる年に開催されるから、今回は2020年に行われたんだよね。だけどこのオリンピック、本物は一年延期になって2021年に開催されてるって言ったら信じられる?」 「えっ、それって去年だよ?去年は何もなかったけど……僕の記憶がおかしいの?」 「ううん、そうじゃない。このオリンピックは二回開催されていて、一度目の2021年に開催された方が歴史から消えているんだ。僕たちは今、二度目の歴史を過ごしている」 にわかには信じられない話だった。 「過去にも一度2021年があったの?同じ時間を二回繰り返してるって事?」 「そう」 「どうして?」 りぃが稀少種の瞳で言った。 「子供たちに、奪われた明日を返すために」 りぃによって失われた古い歴史が紐解かれていった── 今より科学が発達していた過去、ある国に一人の独裁者がいた。彼は若くして死の病に冒され、迫りくる死を理不尽だと悔しがった。世界は自分のものなのに、自分が死んだ後も他の者は生き続けて幸せな生活が続く。それが(うらや)ましくて、(ねた)ましくて、許せなかった。 だから彼はボタンを押した。 それは自国の天才科学者が開発した装置の起動ボタンで、直後から特殊な振動がその場所を中心に酸素分子を原子に分解していった。 作用は光の速さで広がり、地表から酸素が瞬く間に消滅していった。振動はどんな壁もすり抜けて波打つように四方八方へと広がり、地表を全て分解し終わって止んだ。 ボタンを押してから、全てが元に戻るまでの時間はわずか三十分だけだった。ただ地表から一時的に空気の一要素がなくなっただけ。 その間も地球は何も変わらず、太古から続く姿で自転していた。日の光は暖かく、海の波音も静かだった。風も音も変わらずそこにあった。 植物はいつも通り光合成を続け、二酸化炭素を吸って酸素を吐き出していた。分解された酸素分子はゆっくりと補われ、空気中の酸素原子も再び結合して空気中に戻っていった……。 たった三十分。でもその三十分は、肺呼吸の生き物が死滅するには充分な時間だった。酸素は無味無臭で目に見えない。生き物たちは自分の身に何が起こったか分からないままバタバタと倒れ、息絶えていった。もしこの状況が分かっても地上のどこにも逃げ場はなかった​。 そうやって地表の生き物は三十分で絶滅した​。 独裁者は、世界を道連れに自殺したのだ。 「そんな……」 まるでSFみたいな話だ。現実感がない。僕はいま夢を見てるんだろうか…… 「だけどそんな事態でも生き延びた人々はいたんだ。宇宙ステーションで作業中だった技術者や、潜水艦で海中を深く潜っていた軍事関係者など、地上から離れていた人々だ。その中には科学者もいた。だけど全世界を合わせてもわずか数百人だった。当時、百億を超えていた人類がたった数百人になってしまった。 戻ってきた彼らは変わり果てた地上を見て愕然となった。走って戻った先で家族、恋人、友人らの変わり果てた姿を見つけて慟哭した。愚かな行為をした独裁者を血の涙を流して呪った。 そして、涙が涸れ果てた頃、周りを見て人間社会の維持が不可能になった事を悟り、絶望した。 地上には百億人分の生活がそのまま残っていた。無人の交差点で信号は変わり、テレビはあらかじめプログラムされた情報をビルの広告モニターに垂れ流し続けている。 だけどその生活を受ける人々はもういない。土地や道具が残っていても作業する人がいなければ農地は荒れ地に戻り、飛行機や電車は錆びた鉄の塊になる。栄光の象徴であるバベルの塔の如くそびえ立つビル群は、崩落することのないまま人類の墓標となる」 僕はいつのまにかガタガタと震え始め、自分の二の腕を掴んでいた。広げられた毛布が僕の上半身を包む。 「当時は、今よりもあと少し科学技術が発達して豊かで安全な社会だった。生き延びたのは技術者や科学者が大半で、彼らは己れの分野に深い知識と技術を持っていたけど、全ての分野に精通している訳じゃない。 何十億もの人達が生きていた社会だ。知識も労働力も圧倒的に足りず、残った者たちだけでこの高度な文明を維持することは不可能だった。 それ以前にまずは絶滅の危機を乗り越えなければならない。そこで人々は次世代に命を繋ぐべく『ノアの方舟』を開けた。 聖書の船の名が付けられていたそれは、人類が万が一に備えて準備しておいた遺伝子(ゲノム)の冷凍保存庫だった。 聖書では、その船には神の洪水に備えて全種類の動物達が一組ずつ乗せられていた。保管庫にも集められるだけの生物の遺伝子が保存されている。それが聖書と同じく、生き物がいなくなった地上の命の(みなもと)となった。 科学者は、その遺伝子で生き物の復元を行った。 そのうちヒトの復元は慎重に進められた。失敗すれば人類は生き残りの人々の老衰を最後に絶滅する。成功しても数世代のうちに爆発的に増えなければ、天災や流り病など、些細な災厄でいつ絶滅してもおかしくない。 そして長期間の人口不足は文明の崩壊を招く。ゼロから再構築するとなれば科学技術は大きく衰退して元に戻るには気の遠くなるような歳月を必要とするだろう。 だから次世代、少なくとも数世代のうちに人口を増えるだけ増やさなければならなかった。 そこで、ヒトの復元には遺伝子に細工が加えられた」 それが過去ならその細工された人たちは今もいるのだろうか。 「それが僕たちαとΩだ」 「えっ、僕たち!?」 「そう。自然界の生物がオスとメスだけなのと同様、本来は人もその二つだけだった。今の人類にそれ以外の「α、β、Ω」という第二の性があるのは、遺伝子にαとΩの因子を加えられたからだ。元はみんなβだったからβという名前すらなく、ただ「男」と「女」だけだった」 そんな…… 僕たちはずっと昔からαとΩだった。父さんと母さん、おじいちゃんおばあちゃん、その更に前のご先祖さま達だってαとΩだ。 βに発情期はない。フェロモンに由来する個別の匂いもない。発情期があるのはΩだけで、その時のフェロモンの誘惑にαは抗えない。だからΩは発情期(ヒート)になると学校や会社を休み抑制剤を飲んで家に閉じこもるし、αは強烈なフェロモンに当てられないようにとヒート中のΩを警戒する。 そんな風に発情期(ヒート)はαにもΩにも人生を左右しかねない重要なものだ。互いに大変だけど、子供を生むには必要なしくみだからそれがない世界なんて想像できない。 「じゃあ昔の男の人たちはどうやって子供を生んだの?αがいないならΩは発情期をどうやって、あ、Ωもいないのか、βは発情したら、ううんβは発情しないから、子供は発情期では生まれなくて、だったらどうやって、えっと、えっと……」 りぃが、頭を抱えた拍子に肩から落ちた毛布をかけ直してくれた。そして僕の手をそっと握った。 「男性は子供を生めなかったし、女性もお父さんになることは出来なかったんだ」 鈍器で殴られたようにショックだった。αとΩは異性か同性かよりも性種の方が大事で、恋愛出来るかどうかはその性種の組みあわせで決まる。なのにそんな大事な事が人の手で作られた仕組みだったなんて。 「じゃあ女の人がお父さんだったり、男の人が子供を産んだりするのはおかしいことなの?遺伝子を細工されて生まれた僕たちはニセモノ?発情期(ヒート)がある僕たちは変?僕たちは、僕たちは、」 自分の存在が否定された気がした。地面が消えてズブリと沼に沈んだ感覚に体がふらりとなると、握られた手に力が込められた。ハッとなると心配そうな瞳が僕を見ていた。 りぃは僕の手首を持ち上げると唇で柔らかく食み、そのまま自分を確かめさせるように頬に手を当てさせた。体温が下がって冷たくなった指にりぃの熱が移ってくる。 そうだ。僕の手の感覚も、りぃの頬の感触も本物だ。りぃも僕も今ここに存在している。 ​──大丈夫。 僕はうんって頷いて先を促した。 「Ωは人口を増やすために作られた。男性でも妊娠と出産が出来るようにと子宮を始めとした女性生殖器を足されている。そして定期的な発情で濃厚なフェロモンを出させ、αを誘惑して性交を半強制的に行わせる仕組みをつくった。そのしくみに使われたのは多産する小動物たちの遺伝子だ。Ωは人間の遺伝子ベースに、それらの特徴を上乗せして作られた。 αには、Ωを妊娠させる為に男性生殖器が足された。αに使われたのは大型肉食獣の遺伝子で、交尾の首噛みや独占欲は肉食獣の縄張り争いの名残りだ。Ωの巣作りもそうだし、動物の本能がどちらにも残っている。 だけどαの本来の目的は人間社会をリードする人材の確保だ。 当時は今より技術が発達して情報も溢れていたから遺伝子(ゲノム)の解析も進んでいた。運動能力が優れ、天才を超える高い知性の遺伝子も人類は開発していた。それがαのベースに用いられている。 科学者はそうやって沢山のαとΩを作った。それによって男同士、女同士の組み合わせでも子供がつくれるようになり、子供も孫もどんどん生まれた。αという優秀な人材も確保できた。その時に僕たち稀少種も作られた」 「稀少種はどうやって作られたの?」 「僕たちはαに使われた遺伝子をベースに、『脳の眠ってる部分を活性化させるゲノム』が掛け合わされている。それは、人類の未だ目覚めていない能力を開花さようと研究されていたもので、当時の最先端技術だった。それだけで異端なんだけど、更にあらゆる生物の役立つ特徴を遺伝子から吸い上げて取り込んでいる。つまり、全ての生き物の良いとこ取りだ」 キメラみたいなもんだよ、夢を壊したならごめんって言うからとんでもないと首を振った。そういう過程なら万物の王にもなる。最強じゃないか、かっこいい。 「りぃの能力って動物由来なんだ。目覚めてない能力ってどんなの?」 「シックスセンス的なもの、かな。個人個人で出方は異なるけど、みんな人間の限界値を超えた能力を持ってる」 「オーラとか怪力とか超能力とか?」 「まあ、そういう怪しいやつ」 「魔法のモトだね」 「いい呼び方だ」 りぃは静かに笑った。 「作られたΩは、大半が男の子だった。もともと女性は子供を生む性だから無理に手を加える必要性は少ない。人口を爆発的に増やしたいなら、Ωの男に定期的に発情期(ヒート)を起こさせて多産させる方が効率がいい。 この仕組みによって人類は短期間で爆発的に増え、滅亡の危機を逃れた。でもそれはΩが望まぬ妊娠と出産を強制されたからだ。 Ωの男の子に小柄な子が多いのは、後付けされる女性生殖器の機能が複雑だからなんだ。排卵のバイオリズムや妊娠の仕組みは男性の生殖器を作るより大掛かりで、Ωは自分の血肉を多く割り振って子宮をつくらなきゃいけなかった。 Ωの体を削り、子供を強制的に作らせる。非人道的な仕組みだけど、当時、人口を増やすにはそれしか方法がなかったんだ。だというのに、それが今日(こんにち)までの差別に繋がっている。作られた当初から君たちは時代の被害者だった。なのに人口が増えた今もまだ虐げられる弱者だ」 握られた手に再び力が篭る。りぃの顔が苦しそうに歪められ、手が(ひたい)に当てられた。 「どうして君たちばかりがそんな目に……」 胸が詰まったみたいに言葉も切れた。俯く姿は、懺悔のようで、祈りのようで。 そうか。りぃの周りにΩが集まるのは、向けてくれる労りの眼差しが心地いいからなのかもしれない。世間の差別に怯えてるΩ達も、りぃの傍では大樹で憩う小鳥のように安心していられるんだ。 僕は手を握り返して額から外し、その上からおでこにキスをした。 「晶馬くん……」 願いを込めてもう一度。 優しい人。 お願い、僕たちの代わりに傷付かないで。

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