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第61話 僕の魔法使い
僕たちはりぃのマンションに戻ってきた。
僕をベッドに座らせたりぃは、体のあちこちを触って隅々まで点検して、僕にかすり傷ひとつ無いことを知ってからやっと眉間の皺を開いた。
そうなのだ。僕は結構な高さから落ちたというのに小さな打撲すら付いていなかった。受け止めてもらった時の衝撃も想像より遥かに軽かったし、あのチャラさで忘れちゃうけど高村さんもαなんだよな。うーん、惜しい。無駄にハイスペック。
りぃが隣に座って僕の肩に腕を回した。引き寄せられて密着した胸からトクン、トクンと規則正しい音がする。頭を撫でるりぃの手つきが気持ちいい。
僕は胸の音を聞きながら言った。
「りぃは僕の記憶を消すつもりだったんだね」
音がトクッと跳ねた。
「さっき、僕が『怖かった、危ない目にももう遭いたくない、痛いのも怖いのももう嫌だ』って言ってたなら、今日の事は僕の中から消えてなくなったんだ」
りぃを見ると、そこには静かな瞳があった。
「僕だけじゃなくて、あの場所にいたみんなの記憶も消した。そうして、今日あった出来事を全て無かったことにしたんだ」
何も言わなかった。無言は肯定だ。
「僕を呼び出した人たちからは、りぃと一緒に行動していたこれまでの記憶も消した。稀少種と最初から関わっていなければ、団結して僕を排除する行動は起こさないから。
そうやって、この先僕に向けられる全ての悪意を同じように先回りして潰すようになるんだ。僕はそんなことに気付かずに、りぃの腕の中で優しい世界だけを見て生きていった」
(そしてお姫様は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし)
まるでおとぎ話のエンディングだ。
金の瞳がすぅっと細められた。
「晶馬、この世界は甘いだけではない」
絶対者の声だった。
「世の中には野望を持つ者が星の数ほど存在し、その者達にとって私は利用する価値のあるものか、排除するべき対象だ。その私の唯一の弱点が番 、お前だ。お前はこの先それらの者から狙われる対象になるだろう。また、私に理想や憧れを抱 く者からは、先程お前が突き落とされたように謂れのない妬 みや嫉 みも受ける。
お前の番が私でなければそのような危険には晒されない。お前の心の平穏を思うなら手放すべきであろう。だがそれはもはや不可能。
小さき鳥よ、お前は私の片翼になってしまった。どんなに大きな鴻鵠 も片翼では空を飛べない。どんなに怖がられても嫌がられても、お前をもう逃がせない。
代わりに私の出来る事をしよう。今日の事でお前は私の番 となる意味を知った。悪意が怖いなら今日の記憶を消し、この先の害意は全て私が潰す。お前に僕と生きる優しい世界だけを与えよう」
僕は、ううん、と首を振った。
「怖くなかったよ」
金の目が軽く見開かれた。
「怖くなんてなかったんだ」
僕の心を見透かそうとするその瞳は凪いでいて、感情が読み取れない。だけど分かる。怖がってるのはりぃの方だ。
僕の幸せを願ってくれるりぃは、僕が稀少種の番になった事に怯えるのを恐れている。
「死ぬかもしれなかったのに?」
「うん」
だって大丈夫だって分かってたんだ。
「僕のつがいは稀少種で、優秀な魔法使いだ。何でもお見通しで不可能なんてない。その彼に愛されて大事にされている僕だ。誰も、何も傷つける事なんて出来やしないよ」
目が細められた。
「……何故それ程まで無条件に私を信頼しているのだ」
「知ってるから。りぃが僕を宝物のように大切に守ってるのを知っている」
りぃは、僕がりぃを失う不安に押しつぶされそうだった時、魔法を掛けてくれた。
『この先、僕は君の前から急にいなくならない。それは周りの危険を予測して回避するから。晶馬くんが信じるならこの魔法は成立する』
だからぼくはりぃと離れている間も安心していられる。救急車のサイレンに怯えずにいられる。
だけど、その裏側にはもう一つの魔法があった。
『この先、僕はりぃの前から急にいなくならない』
僕がりぃを失うのを恐れるように、りぃだって僕がいなくなるのは怖い筈。だからりぃが自分の周りに危険予測のアンテナを張るなら、大事にしている僕にも同じ事をするだろう。
僕は、りぃの無事を信じると共に、自分の無事を信じる魔法にも掛かったんだ。
あの人達はりぃとずっと一緒に行動してきた。なのに僕が直接会ったのは今日が初めてだ。
これまで僕があの人達の標的にならなかったのは、りぃが僕を隠していたからだ。
いつも集団を抜けて一人で僕に会いに来てくれたのは、あの人達が僕をライバルと認識して排除しないようにだった。それに、僕に先輩と呼ばせていたから、りぃが可愛がってても誰も僕を特別な存在だと思わなかった。
これまで僕は魔法でたくさんの苦しみや悲しみから救ってもらった。だけど見えないところでもそうやって守られていた。
りぃの番 になる前から。僕が<運命の番>に会うよりももっと前から。
知らないうちに、ずっと、ずっと。
だから周りに徹底的に注意を払っていたりぃが、僕の緊急事態だからって皆がいる場所で番 だと仄めかす電話を掛けるなんてありえない事なんだ。
ということは、僕が呼び出されたのは計算の内で、突き落とされるのも想定内だった筈だ。
きっと牧之原さんにも事前に注意をお願いしてくれてた。下のラウンジを誰かが通りかかるタイミングも予測に入っていた。
結果、僕は傷ひとつ付いていない。それらは全て予定調和だったんだ。
「この先も僕は大丈夫って分かってる。怖くなんてないよ。だから僕の記憶は消さなくていい。ううん、消さないで」
りぃは、高村さんとの鎖を切った時、皆の記憶と情報を操作してその事実を消そうとした。それを僕に打ち明けてこの先僕には稀少種の力を使わないと言った。だけどその約束を破ってでも、僕が怯えずに生きていく方が大事だったんだ。
記憶を消された僕は操作された事に気付かず、りぃの懐の中で外の荒れ狂う風を知らずに優しい世界で幸せに暮らしていけただろう。
だけど一度囲いこまれれば僕は庇護の対象となり、りぃは守護者。どんなにりぃが悩み苦しんでも、守られてる僕はその事に気付かせてもらえない。横に並び立つ対等な関係にはなれない。
そして誰も知らなくても、りぃ自身は自分の罪を知っている。
罪を背負い、守る者を内に庇い、吹き荒れる外の風を背に受けてたった一人で立ちはだからなければならない。
そんなの嫌だ!
「僕はりぃを一人にしたくない。僕をあなたの隣に立たせて」
守られるより、隣に立って一緒に風に立ち向かいたい。どんなに風が強くても握った手は絶対に離さない。
りぃの目が眩しそうに眇められて柔らかくなった。厳しかった瞳が優しさを帯びる。
「僕の王子はなんてかっこいいんだろう」
王子。
Ωは子供を生む性質と比較的小柄な体つきから、揶揄も含めてしばしば姫と呼ばれる。だけどりぃは僕を絶対に姫と呼ばない。それは、僕のΩの部分だけじゃなく男性の部分も大事にしてるという意味で、男の子としての尊厳も守るという意思表示だと思っていた。
だけどそれは半分だけ正解みたいだ。
「僕が晶馬くんを姫と呼ばないのは、君が守られるだけの存在でいてくれないからだよ。僕は君を全ての危険と悪意から遠ざけて大切に守りたいのに、僕の王子はそれを良しとしないんだ。自分の足でしっかりと立ち、守られるどころか僕を守るってさえ言うんだ。
世界はΩに不条理で、君たちは社会的弱者として謂 れなき差別を受けている。
だけど晶馬くんは相手がΩを見下すαでも困っていれば助ける。恐ろしいオーラでも震えながら止める。どんなに怖い相手でもきちんと対峙して自分の思いを貫く。自分がΩだと分かってて、それでも行動するんだ。強いよ。
どれだけ世界が広くても、世界最強と言われる稀少種を守るなんて言うΩは君ぐらいだ」
「傷は体だけに付くものじゃないから。りぃの心を傷つける人は許さない。僕が戦う」
力が弱いΩだからってそれが戦わない理由にはならない。たとえ些細な力でも、僕はりぃを守りたい。
「ふふ、頼もしいね。嬉しい」
フンフンと鼻息を荒くする僕を見てりぃが笑った。
「僕は、晶馬くんが喜ぶ事は何でもしたい。全ての願いを叶え、僕の全力で守って、辛いことや悲しいことがひとつも無い世界でずっと笑っていて欲しかった。誰にも傷付けられることなく、僕の胸に収まってキラキラと輝いていて欲しかった。でも晶馬くんはそんな甘いだけの虚構の世界を望まない。
どんなに望みを叶えるって誘惑しても、願いはささやかなものばかり。
僕はそのことを残念に思いながら、同時に夢見た。
稀少種としてじゃなく、僕自身と向かい合ってくれた晶馬くんなら、僕のいるこの場所まで来てくれるんじゃないかって」
僕は夢うつつに見たりぃの世界を思い出した。あの場所は暖かくて優しくて、怖いものは何もなかった。でも誰もいなかった。たった一人で完結している、完璧な世界だった。
「僕は人々が神を信じるように晶馬くんの勇気を信じ、祈り、願ってた。そして晶馬くんは僕が望む未来を掴んでくれた。僕の隣に立ち、手を離さないと言い、それどころか僕を守るとさえ宣言してくれた。
そういえば知ってた?晶馬くんは僕を|番《つがい》として呼ぶ時、りぃって言うんだ。みんなの前でりぃって呼んでくれたね。嬉しかった」
うひゃあ。知らなかった。そうだ、途中までは先輩って呼んでた。じゃあ途中からはうちの旦那に手を出すな、的な主張してたの?うわわ、恥ずかし!
りぃの目が蕩けそうに甘い。
「不思議だよ。選択肢は無限にあり、どれを選ぶ可能性もゼロじゃない。なのにいつでも晶馬くんは僕が一番選んで欲しい選択肢を掴み、驚きと共に喜びを与えてくれる。僕が誘導して選ばせた筈の時でさえわざわざ自分の意思だと伝えてくれた。僅かな可能性の重なりを奇跡って呼ぶけれど、君は僕に奇跡を与え続けてきたんだ。誰にも起こせない、君だけの奇跡だ。
異能を持つ僕たちは、皆と同じように母親のお腹から産まれても、気付けば人ならざるモノとなって人の群れから外れている。
世界は美しくて人々の営みは微笑ましいのに、そこは薄いガラスの向こう側で自分とは隔てられていた。だけど晶馬くんはその隔たりを取り払ってくれた。
人々が畏れる僕の『異能』は『魔法』に変わり、晶馬くんを愛する事で喜びや不安、嫉妬や安心、様々な感情を知っていった僕は世界の異物からどんどん一人の男になっていった。
君が手を引いて導いてくれたこの世界は色も匂いも鮮やかで眩しくて、たくさんの思いで溢れ返っている。それを君が教えてくれたんだ。
その晶馬くんが僕の隣に並ぶと言ってくれてる。この鮮やかな世界を一緒に歩き、この手を絶対に離さないと言ってくれてる。
晶馬くんは僕のことを魔法使いと言うけれど、本当の魔法使いは君だ。だって今、僕をこんなに幸せにしてる。
こんな子は何処を探してもいない。君は平凡なんかじゃない。世界中でたった一人、僕の大切な人」
声が震えた。笑っているのに眉間にシワが刻まれる。それを両手で覆った。
「僕の全てだ」
「りぃ……」
僕は大きなりぃを抱きしめた。
「りぃ、教えて。貴方の背負っているものは何?僕にも一緒に背負わせて」
「……うん」
落ち着いてから、りぃがゆっくりと語り始めた。
「晶馬くん。あのね、この世界には……」
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