3 / 3

第3話

「はっ……ぅ、あッ」  毎週と言ってもいいほど、何度も噛んだ栄樹のうなじは、キスマークや噛み跡で内出血のようになってしまっている。それでも、栄樹は何度でも「噛んで」と言った。確認させて、兄ちゃんのものになったって、と。  今は久樹の一人暮らしのアパートでセックスをしている。栄樹と離れるために借りたはずのここも、すっかり栄樹とくっつく為の場所になってしまった。発情期の栄樹のホルモンで満たされた1DKは、のぼせそうなほど空気が濃い。  バックで尻だけ持ち上げ、後ろからずちゅっと挿入する。弟の身体だ、という背徳感は、二年以上経った今、ほとんどなかった。自分だけのΩを可愛がっている、という感覚で、久樹は弟を抱く。 「あぁああ――ッ! んん……っ」 「は、……っ、栄樹、イイ?」 「ん、気持ち……っ、きもち、にいちゃ、」  突然の挿入に、栄樹は軽く達したようで、中がうねるように動く。性器が繋がっていれば、全てが分かるのだ。どこが良くて、どこで揺さぶると焦らせて、どこを突くとイかせられるか。久樹もペニスを押し込みながら、恍惚感に浸る。この関係になって、二年経った。もう、自分達の身体はお互いなくしてはやっていけない。  あの日。  あの日、実家の玄関に足を踏み入れた瞬間、背筋を何かが這い上がった。嫌な予感が、下腹に溜まった。母親は栄樹の発情期は済んだばかりで次まで時間があるはずだと言っていたし、栄樹も病院にかかり抑制剤を手に入れた、とメッセージを入れてきた。だから安心して来て、と。 〈運命の番〉をもし栄樹が信じており、その本能に敏感なら、久樹との関係の危機に気づいているのかもしれない。だから「安心して」なのだろうか。そう思って、久樹は安心と少しの寂しさを覚えた。今まで以上に離れなければならない、と。   「ただいまー」  声に出してみたものの、母親は買い出し中で、父親は夜まで仕事だと聞いていた。栄樹が出迎えるから、と。こんなに心配しているのに二人きりにするなよ、と母親に愚痴ってみたものの「いくらあなたたちの仲がいいと言ったって、それは恋愛感情ではないでしょう?」と的を射ない回答が返ってきた。母親も父親もβなので――ちなみにβからαやΩが産まれるのは少し珍しいが、目立つほどではなくありふれている――この欲や恋慕が混じり合った複雑な本能は理解してもらえないだろう。  おかえり、という声は聞こえなかった。栄樹であれば、大型犬のように飛びついてきそうなものなのに、リビングはしんとしている。代わりに二階にある部屋から、ガタ、ガタ、と物音がしていた。栄樹は何か別の作業をしていて、久樹の帰宅に気がついていないのかもしれない。そんな安易な考えで、階段を上った。この階段を上る選択、あるいは玄関の予感、あるいは実家への帰宅を決めた時から、運命は全部決まっていたのだろう。  一段、一段、と濃くなっていく匂いに、久樹が気づかないはずはなかった。ハァ、ハァ、と自分の息が荒くなっていることも、それが階段を上る疲労からではなく、身体が興奮している吐息だとも、ちゃんと気づいていた。  Ωのホルモンがまき散らされている。それは今まで嗅いだどの香りよりも強烈で、脳を不鮮明にした。ぼんやりと、ただ本能に突き動かされるように、階段を上ってしまう。「駄目だ」と囁く理性も少しは残っていた。「登っちゃ駄目だ、取り返しがつかない」と。それでも足は止まってくれなかった。  ガチャリ、と栄樹の部屋の扉を開く。こっちじゃない。ガチャリ、と元自分の部屋であった、今は物置化しているであろう部屋を開く――  巣ごもり、というΩの行為を聞いたことがある。抑制剤の開発された今、あまり見られるものではないが、突発的に起きる発作で、衣服を盛って籠もるのだ。冬眠するように、あるいは何かから身を守ろうとするように。その衣類は、番や番に一番近い人のものが使われるそうだ。  栄樹は、久樹が実家に置いていった服を使って巣ごもりしていた。着なくなった服、高校の制服、ジャージ、元々久樹が使っていたシーツ――など、とにかく久樹の匂いがかろうじて残っているであろうものをかき集めた〈巣〉だった。 「栄樹」 「――――」  声をかけると、もぞっと衣類の山が動いた。何かを言っているが、まるで聞こえない。近づくのがまずいという自覚はあったが、一歩、足を踏み出した。一歩、たった五十センチほどの距離で、そそる香りは何倍にも濃くなり、久樹はもはや勃起していた。 「お前、ついこないだ発情期だったって……それに、抑制剤ももらったんだろ?」 「――――ッ、や、」  ごそごそと動く自分の服の塊、そして中にいる栄樹を、いとおしいと思わずに居られなかった。この感覚は、今まで性交したどのΩにも抱けなかったものだ。いとおしい、そして、かき乱される。ホルモンの香りだけで苦しいほど興奮してしまう。  やっぱり。久樹は確信した。やっぱり、俺達兄弟は〈運命の番〉だった。離れなければならない。今すぐ家を飛び出して、栄樹の香りが届かない所まで走って、他のΩを捕まえてセックスするか、自慰でもいいからこの狂おしい性欲を栄樹以外の場所で発散しなければならない。  そう思い、かろうじての理性で久樹が一歩下がった瞬間、栄樹が〈巣〉から飛び出してきた。文字通り、飛び出して、きた。襲いかかるように久樹を勢いよく押し倒す。 「兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん、」とうわごとのように繰り返しながら、栄樹は自ら服を脱いでいった。  強すぎるホルモンに、久樹は目眩がして、普段なら押し返せるであろう栄樹の身体に対しても、全く力が入らなかった。栄樹の中で射精してうなじを噛みたい。もうそれ以外の考えを脳が放棄してしまったように。 「駄目だって、駄目、ダメ……ッは、あ」 「兄ちゃんだって、もう限界じゃん」  あの日。理性をギリギリまで保とうとした。無理だった。うなじを噛んだあと、裸のまま貪り合うことを、止められなかった。両親の帰宅でさえ、二人の世界の邪魔にはならなかった。  帰ってきた母親は悲鳴をあげて泣き、父親は茫然自失として何も話さなかった。  お祝いのメインだったはずのケーキは母親がヒステリックに潰し、父親がゴミ箱に捨てた。  ようやく二人が性交を終えたとき――もうとっくに〈兄弟〉ではなく〈番〉になった後――家はお通夜のような空気だった。  誰も口をつけないごちそうの前でダイニングテーブルに四人座り、誰も、何も、喋れなかった。謝罪をしても言い訳をしても、両親には聞いてもらえないだろう。両親もまた、叱ろうが勘当しようが何も取り戻せないと分かっていたのだろう。  兄弟同士の性交で受精したΩは、手術で堕胎されることが法で取り決められている。重度の障害児が産まれ、数日経ったら死んでしまうのだ。つまり、両親が孫の顔を見ることは一生無くなった。  番は婚姻と同じ効力を持つが、兄弟間の番では認められていない。つまり二人とも、お互い以外のパートナーを永遠に失い、法で守られることはなくなった――今や婚姻のメリットはたくさんある、例えば結婚式を挙げる場合の助成金、どちらかが病気にかかった時の補助金や休暇制度など――。  そして、何よりも世間から白い目で見られる。同性同士のカップルが「オカマ、ホモ」と差別用語で呼ばれ忌み嫌われた時代、Ωが「ごくつぶし」などと呼ばれ差別されていた時代、そういうものを乗り越えた今でも近親相姦は「おぞましい」とされている。  大切に育てた息子二人がそういう関係になってしまった今、両親はどういう胸中なのだろう。久樹は、まさか親の顔を見ることなどできなかった。  気をつけていたのに。気をつけていたのに。こんなに注意していたはずなのに、避けられなかった。〈運命〉とはこういうことなのだろうか。  絶望にうなだれていると、そっと母親が立ち上がり、肩に手を添えてきた。隣の栄樹にもそうしているようだった。 「せめて幸せであれるよう努めなさい」  母親は鳴きすぎて鼻声だったが、強かな言葉だった。栄樹は隣で号泣しているようで、鼻をすすり上げた。久樹は、深く頷いた。謝罪と感謝を込め、深く深く頷いた。  兄弟はあまりにも、二人になってしまった。しかし、二人ではないのだった。 「ん……ッあぁああッ! ああ、はぁ、ハッ、~~!」 「ん――、出す、栄樹、イっ……」 「おれ、も、イく、あ、あ、ア、兄ちゃ……ッ」  栄樹の発情期が、久樹以外に効かなくなったのをいいことに――一度番になると、番以外と性交できないように身体ができあがる――二人は発情期の度に身体を重ねた。貪り合うセックスは、獣のように激しかった。三ヶ月に一度ほどのそれは、揺るぎなく〈生〉を感じる瞬間だった。運命。産まれた意味。子供も産めない二人の性交に何の意味があるのだろうと、考えることもあったが、そんなものは無駄だった。誰がなんと言おうと、二人は幸せを分け合っていた。  たまに発情期以外の日にもセックスをしたし、それはそれで甘い時間だったが、何故かそこには照れが入ってしまう。一緒に外で映画を見たり、ウインドウショッピングをしたり、そういうカップルじみたことをしている方がよっぽど良かった。 「カップルさんですか?」と店員に聞かれたこともある。身長差もあり、顔があまり似ていないので、外に居ても兄弟よりカップルに見えるようで、栄樹はそれを喜んでいた。案外、堂々とデートできるね、と。 「兄ちゃん、手」と手を差し出されるたび、小さな頃の栄樹を思い出してしまう久樹にとって、やっぱり複雑ではあったものの、世界は久樹が思うより案外簡単なのかもしれない。手を繋いで外を歩いても、白い目で見られることはない。  母親の示した〈幸せである努力〉が栄樹とできるのならば、それは死が二人を分かつまで、ハッピーエンドなのだろう。

ともだちにシェアしよう!