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第2話

 栄樹は小さい頃から、久樹によく懐いている弟だった。歳が五つ離れているというのもあったかもしれない。喧嘩をした記憶もあまりないし、幼児期を思い出そうとすれば、トコトコと後ろを着いて歩く栄樹が浮かぶ。 「にいたん、て」とよく手を繋ぐことをねだられた。栄樹がようやく歩き始めた二歳の頃には、もう久樹は小学二年生で、身長差にお互いの手をしっかり伸ばして繋いだ覚えがある。  幼稚園児になってからの栄樹は、とにかく久樹の真似をしたがった。ノートに拙い文字を書き、勉強したつもりになったり、テレビゲームは隣で見ながらコントローラー――線の繋がっていない――を動かしたりした。久樹は幼児の頃から絵も字も覚えが早く、両親は栄樹にも期待していたようだが、栄樹はどちらかと言えば発達が遅かった。小学校に入っても背が低く、発言も幼稚で、いじめられそうになっていた所を久樹が救ったこともある。  その事実が更に、栄樹が久樹を尊敬するきっかけになったようだ。その行動は崇拝と言っても差し支えないほどで、髪型から服装まで全てを真似したり、自宅で一緒に風呂に入ったり、久樹のベッドの下に布団を抱えてやってきて、同じ部屋で眠ったりすることもよくあった。  中学三年生と、小学五年生にしては仲が良すぎるのでは、と母親が父親に零していたのを聞いたことがある。おおらかな性格をした父親は「そんなに気にすることでもないだろう。兄弟仲がいいのは結構じゃないか」と気に留めていなかった。  何かが変わり始めたのは、久樹が高校一年生になって、第二の性検査をした頃からだ。  第一の性、男と女というのは生まれた瞬間に外見で分かる――自分の認知している性と外見が一致しない時は、十歳になると本人の意思で手術を受けることが可能だ――第二の性と言われる、α、β、Ωは成長と共に傾向が見え始めるが、検査できるほどに確立するのは十五歳頃なので、高校一年生での性検査が義務づけられている。  久樹は、αだった。自分でいうのも何だが、学業も身体能力も、何もかも器用で優秀だったので、別段驚くこともなく結果表を受け取った。  この世のほとんどの人間は、βだ。βならば第二の性に無関係で平凡に生きていくことができるので、一番好ましいとされている。  Ωだと発情期に振り回されたり、他より愚鈍だったりと生きにくく、心や体の病気になってしまうことも多い。  αは基本的には賞賛を受けることが多いが、Ωのホルモンにだけは身体が抵抗することが出来ず、野生化するように理性を失ってしまうため、ハニートラップの餌食にされることが多いと聞く。αとΩは〈番〉になることができるからだ。αが発情期のΩのうなじを噛むと〈番〉が成立する。今や結婚と同様の法的効力も持ち、お互い以外と性交できない身体になってしまう。その仕組みを利用するΩがいても頷ける話だ。  自分がαだという事実には驚かなかったが、久樹には嫌な予感がした。今、小学六年生を迎え、反抗期を迎えてもいい年頃なのに久樹にべったりの栄樹は、おそらくΩだろう。  以前、弟が寝ぼけて布団に潜り込んできたときがあった。そのときの胸騒ぎを、久樹は今でも覚えている。ムラムラとする、マスターベーションをするときのような性欲ではなく、ぐらりと脳髄を揺さぶられるような感覚で勃起した。確かに、受験勉強で忙しく、しばらく自慰をしていない時期ではあった。自分の性器が射精をしたがっても何らおかしくはないが、弟に発情したような違和感を覚えたのだ。  筋肉がほんのりつき、体毛の生え始めた、栄樹のするりした脚が絡まった瞬間、無理だ、と思った。トイレに駆け込み、一心不乱に何度も射精した。  まだαだΩだと言い切れる年頃ではなかったが、成長具合を見る限り、久樹はαで栄樹はΩの可能性が高い。優秀な兄と比べられて、劣等感を抱いてもおかしくないような状況で、しかし栄樹は「自慢の兄ちゃん」だと誇らしげに自分を崇拝していた。  その無邪気な弟で、自慰をしてしまったかもしれない。いや、身体のサイクルがそう思わせただけで、偶然だったかも――ぐるぐると悩んだ数日を、久樹は忘れることが出来ない。  それからはなるべく、栄樹から離れるようにした。風呂は「さすがにもう俺もお前も子供じゃないんだから」と避け、たまに一緒に寝ることは許したが、布団を共有はしないように気をつけた。自分がαで、栄樹がΩだったら、番になることが可能になってしまう。例え兄弟だとしても、そのホルモンや本能には逆らえないと聞く。離れておいた方が賢明だ。だんだんと距離を置く久樹に、栄樹はとてもさみしそうにしていたので胸は痛んだが〈もしもの場合〉を想定しなくてはいけない。もし二人が〈運命の番〉だったら、近くに居ては一生離れられなくなってしまう。 「俺、やっぱりΩだったよ」  そう言って帰ってきた高一の栄樹は、落胆していた。予想はしていただろうが、やっぱり今後の人生が生きづらいという烙印を押されるのは辛いものがあっただろう。夕飯の席だったので、父と母は顔を見合わせていた。大学二年生だった久樹は、 「今は抑制剤とかもあるし、困ることは少ないだろ」と励ましながら、内心すぐにでも家を出よう、と考えていた。 「でも兄ちゃんがαだし、俺、兄ちゃんと番になれるな」 「おい、冗談いうなよ」  父親が笑い、そこからもう性の話はしないまま食事を終えた。久樹も一緒に笑いはしたが、冗談を、冗談と受け止められていなかった。  家を出ることには家族みんなが反対し、高一にもなって栄樹は泣きじゃくったが、久樹は強行突破で家を出た。アルバイトで貯金をしていたのも、こうなることを予想していたからだ。 〈運命の番〉。都市伝説だという者もあれば、私たちは運命の番でしたという者もある。確かめる方法などなく曖昧で、経験者に言わせれば会った瞬間にわかる、らしい。  それこそ本能なのかもしれない。久樹は自分と弟が運命の番ではないかと感じていた。恐れていた。かわいく無邪気な赤ん坊だったことすら思い出せる弟と、二人で性交をしながら生きていくことを考えると、その禁忌具合にぞっとした。しかしぞっとする中、微かに悦を感じることに、久樹は気づいていた。運命の番など、都市伝説であればいい。もし本当に存在するのだとしたら、弟から逃げ続ければ――久樹にとってもそれは、とてもさみしいことだ――最悪の事態は避けられる。  そして、運命の番でなくとも、αとΩであれば番になることは可能だ。栄樹が発情期を迎えるより先に、誰かと番になってしまうのが一番いい、と久樹は考えていた。 「あのさ」  声をかけてきたのは、大学で同じ科の山崎という男だった。  久樹はどちらかと言えば社交的ではなく、友達の多さで言えば、断然、栄樹の方が上だ。山崎とは数回話したことがあったが、名前が出てくる程度で親しいわけでもない。一匹狼を気取っているつもりもなかったが、久樹は一人でいることが多かった。ので、今日も食堂を兼ねているテラスで一人で本を読んでいた。 「何?」  ふわっと匂う香りに気づいた。抑制剤を使っていても、近くに寄ったαには分かる程度にΩのホルモンは漂う。「お前さ、αだろ? だから――」誘われていることに気づいたので、久樹は少しだけ考えを巡らせてから、腰をあげた。 「家とホテルと、どっちがいい?」  山崎とのセックスは、悪くはなかったが良くもなかった。Ωとαいうだけでは相性に関係はないらしい。山崎も、αとするのは初めてだと言っていたが、二人ともおそらく同じ感想を抱いていただろう。山崎はうなじを差し出さなかったし、久樹も無論噛む気持ちになれなかったからだ。  誰かと番になっておきたい、という久樹の思いは難航しそうだった。もしかして、番になるには恋愛感情が必要なのかもしれない。弟を可愛がるのにかまけていて、恋愛と無縁ですごしていた久樹は、山崎が出て行った自室で途方に暮れて大の字になり、ため息をついた。  栄樹が初めての発情期を迎えた、という知らせは、久樹が実家を出て一年後に母親から届いた。Ωとして初の発情期は、その後苦労するとはいえ、Ωとして番を作ったり身ごもったりできるようになったという喜ばしい知らせなのだ。  その間、大学で「Ωなら誰とでも寝る男」としてすっかり定着した久樹は、焦る気持ちを抑えられなかった。番となる人間をずっと探していたが、〈α〉として強く発情する人間がいても〈久樹〉としてうなじを噛むことを拒んでしまうのだ。結局誰とも、番やパートナーになれていなかった。 「お祝いの席を設けるから帰っておいで」と電話で言った母親に「でも俺はαだよ、もしものことがあったら――」と尻込みしたが、ちゃんと発情期とはずらすから、家族なんだから、と念を押された。『久しぶりに兄ちゃんに会いたい』と栄樹がメッセージを送ってきたことも決定打になった。  そして、安直に実家に帰ってしまった。どういう結末を迎えるか分からないまま――  今の久樹は、後悔も、自責もしている。しかし同時に、褒めたいとも思っている。感謝すらしている。あの頃起こった全てに。

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