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憎くて愛しい俺のエネミー 19

 走りながらシャツの袖で涙を乱暴に拭う。  めそめそ泣いている場合ではない。いまはとにかく逃げなくては。森正をどうやって更生させるかについては、落ちついてからしっかり考えることにしよう。 「おい、木村! なにがあったのか知らないが、いいかげんに止まれ! 最終バスはとっくに出たんだぞ。街まで走り続けるつもりか?」  思いがけないほど近くから岸田の声が聞こえてぎょっとした。慌てて振り返ると、二、三十メートルほど後ろに、妙にきれいなフォームで俺を追いかけてくる岸田の姿があった。もっとずっと引き離したつもりでいたのに。  俺は焦った。このままだと下手をすれば追いつかれるかもしれない。どうにかして岸田を振り切らないと。  ちょうどいいタイミングで、進行方向の左手に雑木林が見えてきた。よし、雑木林に入ってしまえば上手いこと岸田を撒けるはずだ。この俺は足が速いだけではなく小回りだって利くのだ。  すかさず雑木林に飛びこむ。足に絡みついてくる雑草を乱暴に掻きわけて、木と木の間を器用に走り抜ける。  当たり前だが雑木林の中は暗い田舎道よりもいっそう暗い。明かりとなるのは枝葉の透き間から射し入る月の光だけだ。  ちょっとホラー映画っぽい雰囲気だが、いまは雰囲気にびびっている場合じゃない。岸田にとっつかまろうものなら、ホラー映画が可愛く思えるほどの怖ろしい目に遭うのだ。 「いつまで鬼ごっこを続けるつもりだ? なにがあったのかちゃんと話してみろ。相談にならいくらでも乗るぞ」  岸田が草を踏みわける音が聞こえる。  いけしゃあしゃあとは正にこのことだ。そうやって優しい言葉で俺を騙そうとしても、そうは問屋が卸さない。 「木村、寮にもどってちゃんと話をしよう。いつまでも逃げまわってなんていられないだろう? もうバスもない。タクシーなんかはもちろん通らない。それにこのあたりは街中と違ってまだまだ冷えこむんだ。野宿しようものなら下手をすれば凍死するぞ」 「さっきからごちゃごちゃうるせえぞ、この変態教師! 寮にもどるくらいならここで野垂れ死んだほうがまだマシだ!」  俺は走りながら振り返って怒鳴った。 「うわっ!」  いきなり視界がぐるっと回転した。木の根っこらしきものにつまずいて転んだのだ、と理解したのは、身体が草の上に投げ出されたときだった。  衝撃のあまり動きが止まった。慌てて身体を起こしかけたときには、足音はすぐ背後に迫っていた。  地面に転がったままの格好で振り返ると、ほんの一メートルほど離れたところに岸田の姿があった。肩で荒く息をしているのが薄暗がりでもわかる。 「大丈夫か、木村。怪我はないか」  岸田は俺に近づくと、右手を差し出してきた。 「ほら、つかまれ」 「うるせえ! 俺に触るな! あっちにいけ!」 「……ずいぶんな言われようだな。いったいなにがあったんだ。ちゃんとわけを話してみろ。理由によっちゃ脱走を見逃してやらなくもないぞ。まだ門を閉める前だったし、入寮初日でもあるからな」  岸田はおとなしく手を引っこめると、溜め息を吐いて両手を腰に当てた。 「……すっとぼけやがって。森正に聞いたぞ。転入生はみんなの、その、性欲処理の手伝いを無理やりさせられるんだって。まずはあんたの相手からさせられるんだって。教師のくせによくもまあそんな卑劣な真似ができたもんだな。あんたみたいなのを世間じゃ外道って言うんだよ!」  俺は後ろ手をついた体勢でじりじりと後ずさった。立ち上がればどうしたってその瞬間は隙ができる。いつどのタイミングで立ち上がるか、それが問題だ。 「木村、おまえが暮らしている国はなんていう国だ?」  岸田は静かすぎるくらい静かな声で訊いてきた。俺に罵倒されたことも、寮での悪事がバレたことも、露ほども気にしていないみたいな口ぶりだ。

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