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第1話

 高三になる兄、将継(まさつぐ)の左胸には、小さいのとそれよりもう少し大きくて濃い二つのほくろがあって、小さい頃は一緒に風呂に入るたび、人差し指の先ほどの間隔をあけて二つ並んだそれを指でつついたりくすぐったりしてふざけ合うのが好きだった。  兄さんはタマネギと雷が嫌いで、二人だけで留守番をしている夜に雷が鳴ったりしたら、脱兎のごとく布団にもぐりこんでおれにしがみつきガタガタ震えている。大人がいない家で二人きり。しかもそれが夜だったりすると、おれも決して怖くないわけじゃなかったし、兄さんがそうなってしまうことにわずかに責任を感じながらも、「ごめんね。でもだいじょうぶだよ、まぁちゃん」と、兄さんの背中をトントンとやることに優越感めいたものを感じてもいた。母親のお腹にいる赤ちゃんみたいに、くるっと身体を丸くした兄さんのまっすぐな髪に鼻を突っ込み、両腕で背中を包む。その行為は、おれにある種の感覚を目覚めさせていった。  その頃父親は単身赴任で家には居らず、兄さんが高学年になる頃には母親も本格的に職場復帰し、週の半分ぐらいは夜勤。そうじゃなくても帰ってくるのは小学生がとっくに寝入っている頃で、それが不幸だとか他人と違うなんて思う物差しをおれ達は持っていなかった。車で三十分ほどの所に住む祖母はいつも「普通、こんなに放ったらかしにしないわよ」と苦々しく言うけど、おれらにとってはそれが当たり前で普通の日常だった。  二年になってから、隣のクラスの森がやたらと声をかけてくるようになった。森とは小学校の六年で初めて同じクラスになり、家が近かったせいかお互いの家を行き来して遊ぶようになり急速に親しくなった。ただ中学に入ってからはクラスも違ったし、体育会系の部活動に励む森はみるみる身長も伸びて身体つきも変わり、お互いつるむ顔ぶれも明らかにタイプの違う人間ばかりになった。  それなのに。  二年になった途端、辞書を忘れたから貸してくれと唐突に言ってきたのをスタートに、廊下ですれ違うと声をかけてきたり、話しかけてはこないものの、まるで監視でもするように休み時間になるとうちのクラスへ入りびたるようになった。  夏休み前。午前授業で下校が早かったある日、教室を出るのを待っていたように「昭継(あきつぐ)、今日うちに来ないか? 羽柴も呼んでる。久しぶりにゲームしようぜ」と森がまくしたてた。羽柴の家は隣の校区になるから中学は別。森とおれ、羽柴はたしかに小学校では仲良し三人組といわれていたけど、なぜ今このタイミング? おれの顔は誰が見てもわかるほど猜疑心でいっぱいだったけど、二年前に比べ三十センチほど身長差ができてしまった森のデカい図体に詰め寄られ、つい「……いいけど」と答えていた。  森の部屋には先客がいて──それは羽柴ではなかった──ドアを開けたおれに向かって下品な口笛を吹いた上級生が目に入った途端、やられたと思った。立ち尽くすおれの背中を森が押した。先輩が三人と、同じクラスだけど一度も話したことのない、あぁでも森が教室に来た時に話してるのを見たことがある。確か高橋って名前の男──ご多分に漏れず森や先輩達と同じ部活動に所属している──を前に、緊張したような声で「連れてきました」と言ったのが、その日最後に聞いた森の声だった。 『女より良さそうって言われてるの、知ってるか? こんな細っこくてナマッちろいツラしてたら、いつ喰われてもおかしくない。他の部の三年だっておまえを狙ってる』  いまどき安っぽいアダルトビデオでも使わないようなボールギャグを咥えさせられたおれの上に馬乗りになった主将は、いたいけな後輩に向かって舌なめずりするように言った。「バレないように、しないとな」と鼻歌でも歌うように言いながら制服を一枚ずつはがし、自分のベルトをゆるめた。  三年生の中にも上下関係があるらしく、おれを犯していいのは主将だけだった。他の二人の先輩は最初こそ頭や肩を押さえつけていたが、おれがどうやら抵抗しなくなったのを見て、主将に「いいからあっちで見てろ」と厳命され、見張りとして部屋の外に出された森と高橋同様、傍観者へ降格。が、二回続けて射精した後に主将の気が変わったのか、つい今しがたぞんざいに扱ったばかりの同級生を呼び戻し、そいつらの前でもう一度おれに跨った。見られることで興奮する性癖の持ち主だったらしい。それとも、そんな昏い悦びにこの時目覚めたのかもしれない。お前らにはやらせないけど、そこで見ながら抜いてもいいぜと何を気取っているのか妙な調子で言った。  主将とかいう呼び名の獣がおれの中に突っ込んで、ああとかいいとか、生まれたばかりの赤ん坊にも劣る知能の低さしか持ち合わせていないことを証明するのに十分な声を上げる。その獣が本能をむき出しにする様を、どいつもこいつもが指を咥えて眺めながら、溜まりに溜まった汗と欲望を突き破るように股間を膨らませていた。 『あの時よりはマシだ』。おれはずっと念じるように心の中で繰り返した。  小三の秋だった。学校の帰り道、あと少しで家につくあたりで前方に停まっている車が見えた。片側は畑、片側は赤や緑の屋根を乗せた家並みの間の、車がやっとすれ違うことができるぐらいの道幅に地元の人は車なんか停めない。  横を通り過ぎる時、助手席の窓がすーっと開き、サングラスをした女の人が「この辺で一番近いお医者さんてどこぉ?」と派手な色のついた声でおれに聞いた。お医者さん……、て歯医者? 眼医者? 「えーと、」と前方を指そうとすると、指の先に挟んだタバコの煙をフーッとこっちに吹きかけ、「案内してもらおっかな」と言い終わらないうちに後部座席のドアが開き、ぬうっと現れた巨体に腕をつかまれ車に引きずり込まれた。 「あ」とか「ぎゃ」とか言うヒマもなかったのか、言ったのか。『あぁちゃんはほっぺがつるんとしてキュッと小顔だよね』と母さんがよく言っているおれのコンパクトな顔の下半分を大きな手でつかむように押さえているのは、さっきの巨体だ。スモークがかかった窓から、暗い青空にぽっかり呑気に浮いている雲が見えた。  動き出した車内にはもうあと二人の大人がいた。たぶん男と女。黒いマスクに黒い髪、車の中は黒でいっぱいだった。まだ自由のきく足を全力でバタバタさせると、黒い男女のうちの一人が『痛ってぇなぁ』と言いながらおれの靴を脱がし、足の裏に火のついたタバコの先を当てた。その傷みに何をしたって絶対にかなわない大人の力の強さを思い知らされ、涙も出ないぐらい怖かった。『あぁちゃんにニコッと笑ってお願いされると、いらないものでも買っちゃう』と祖母は言ったけど、この人達はおれが笑おうが泣こうが離してなんかくれないだろう。  さっき引きずり込まれた場所に、まるでごみでも捨てるように車から放り出された頃には、辺りは薄暗くなっていた。汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔やヨレヨレの体操着を誰にも見られないように、走って、次の角を左に曲がってまた走って。五分もしないうちに家についた。  ランドセルの中の教科書やノートの底から鍵を取り出しながら、早く早くと口走っていた。急がなくちゃ、またあの黒い人達が追いかけてくるかも。  誰も待っていない家の中は真っ暗でシンとしていた。まぁちゃんは修学旅行に行っていて明日の夕方まで帰ってこない。母さんは今朝「二十時頃には帰れるから、ご飯は先に食べててね」と言っていた。  いつも通りのがらんとした真っ暗な室内に寂しさを覚える暇もなく、慌ててお風呂場に駆け込み着ているものを全部脱いだ。いやなにおいが付いた体操着や下着、靴下をそこらへんにあるシャンプーやせっけんで洗い、四人に舐められ、触られた身体を念入りに洗って何度も何度もうがいをして口をすすいだ。  二十時を過ぎて帰ってきた母に、二階からおかえりとだけ言ってベッドにもぐり込み頭から布団をかぶった。誰にも言うわけない。自分に起こったことを口にするのも恐ろしい。いやだ。どこか遠くにいる父さんでも、さっき帰ってきた母さんでもない、今すぐまぁちゃんが帰って来て隣で眠ってくれたらいいのに。それだけを願っていた。  森の部屋から解放されるまでの数時間、おれは獣の辱めをみすみす受け入れたわけじゃない。身体が引きちぎれるぐらい抵抗もし、逃げようともした。けれど、母や兄の手前、容易に目につくところに派手なけがをするわけにはいかない。小三のあの時の記憶がぐちゃぐちゃに蘇り混乱する脳内を必死になだめ、落ち着かせ、悪夢のような時間が一刻も早く過ぎるのを待った。頭の中では、その場にいる奴らをひとりずつ呪詛めいた言葉のナイフで刺し、助けを乞う鼻先を蹴り上げ、煉獄の火でひとかけらの炭も残らないぐらいにあぶり殺すさまを思い描いていた。

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