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第2話
夏休みも終わりに近い頃、森から着信があった。
あのことがあって以来、残り少ない一学期の間はあからさまに森と高橋を避けていた。お互いに小学校の頃からスマートフォンを使っていたから番号は知っているけど、中学に入ってからはやりとりなんてしていない。
無視していると今度はメッセージが届き、『あんな思いをさせたことをちゃんと謝りたい』と、どの口が言うのか不躾にもほどがある一文が表示された。口元が歪む。ふん、と声に出ていた。
続けて、『今、家の前にいる』。怒るとか何か攻撃を加えるより、徹底的に無視をすることで森という存在自体を排除したかった。それでもふてぶてしくこちらの視界に入ってくるほどのタフさを、あの男は持ち合わせていた。
玄関の戸を開け顔は上げずに、泥が乾いて染みついた森のスニーカーをにらみつけていた。次の瞬間、森が吐いた言葉におれは戦慄した。
「兄貴には黙っててやるから、今から俺の家へ来い」
声は出なかったけれど、顔を上げ、森をにらむ目にすべてが現れてしまっていた。思った通りの反応が見れたことに少なからずヤツは喜んでいた。「とにかく、ここで話せることじゃないからよ」とニヤけた森の顔は薄暗いひずみを生じていた。
「アキ、もう一回。いいよな?」
まるで自分の女にでも言うみたいに、何が嬉しいのか突っ込んだままニヤけた顔で森が言う。昭継というおれの名前を「アキ」なんて呼ぶ奴はいない。
教育委員会のお達しで、週に二日はどの部活動も休まなければならない。ただし、大会直前の部は通常メニューを組むことが許されていて、森の所属する部をはじめ戦績を挙げている部は夏休みも毎日のようにトレーニングや練習試合が組まれていた。
レギュラーメンバーじゃない森はラッキーだった。引退試合を控え汗まみれでグラウンドを走り回っている主将や先輩達の目を盗んで、こんなことを今しているんだから。
初めてここに連れられてきた時、口をふさがれて声を上げることすらできないどころか、開いたままの口からは涎が絶えず流れ続けた。汗や唾液、そんなものやローション、自分や先輩達の体液、おれの鮮血でひどく汚れたベッドを見た森が、小さく舌打ちをしたのを覚えている。こいつは、あの時から考えていたんだろうか。先輩の目を盗んで、いつか奴らと同じことをおれにしてやろうって。
「もっと前、一年の頃からお前のこと、いつかこうしてやりたいって。……小学校の頃なんて、なにも考えずにバカなことして遊んでた、けど、な」
あぁ、いい。いいな、おまえ、ほんと……。
大きな体を前後に揺らし暑苦しい吐息の間にだらしない口から漏らすところまで、主将と同じ。同類だ。おれはこいつに売られた。部活動という狭くしみったれた世界に君臨する主将の従順なしもべである同級生の手によって、生贄として主に供された。
勝手に気持ちよくなって、うっとりしているのか、まったりと自分に酔っているのかさっきからこいつの話し方がいつもより気持ち悪くてしかたがない。自分が気持ち良ければそれでいいなんて、まるで動物だ。あぁ、そうか。だから、こいつは動物で、人間じゃないんだ。だったら、しょうがない。おれは不幸にもこの容姿のせいで自分より図体も態度もでかい動物に目を付けられてしまった。それだけだ。
『見ろよ、雪みたいに真っ白。そこにこんな色したのがついてて……、あぁ? おまえ泣いてんのか? 目うるうるさせて。たまんねぇな。やっぱこいつ、俺専用にするから。あいつらにも言っとけよ』
前にこの部屋に来た時、主将は裸にしたおれの真っ平らな胸や、涙や涎が乾いて干上がった頬をガサガサした手のひらで撫でながら、言った。俺専用。その言葉に反応したのか、その場にいた三年が薄笑いを浮かべて、
『まーちゃん、それはなくない? あいつらはわかるけど、こっちには回せよ』……。
見張りとして外に出されていた森と高橋も、その頃には部屋にいた。まーちゃんという名におれがわずかにたじろいだのを、この男はたぶん見ていたんだろう。
「いいよな? 先輩とだってヤってるんだしイヤじゃないんだろ」
イヤに決まってるだろ。触りたくもない汚いものを口に突っ込まれて、吐き出されて、脱がされて、汚らわしい手でやりたい放題に触られる。
主将。
正常位が好きなヤツの、見たくもない上半身に見つけたあるものを思い出す。それをかき消すように大きく首を振る。盛大に勘違いをした森が、ひたすらにやけた気持ちの悪い顔を近づけてくる。あれもこれも、もうどうでもいい。この緩慢な時間が早く終わることだけを望むだけだ。ただ、この男に兄さんのことで脅されるのは不愉快極まりない。この男が何を知っているのか。それだけを突き止めたい。
両手首は背後に固定され、アルファベットのOの字の形のままボールを突っ込まれた口の端から唾液は垂れ流れ続けていた。涙なんか一滴もこぼれない。それどころか、森がしてくることに肉体がどんなに反応しようともそれを上回るほどの怒りばかりがこみあげてくる。
何を思ったのか、不意に森が拘束具をゆるめ生ぬるい舌を口の中にねじ込んできた。目を開けたままの顔が至近距離にあるせいで、視界が暗い。「目、開けてんじゃねぇよ」と鼻の先を舌で舐めようとするのを顔を背けて振り切り、睨みつけた。
「お前、何がしたいの?」
「ヤリたいだけだよ。アキと」
「普通は女とするだろ。おれ、女の代わりか?」
「さぁ。けど、おまえは兄貴にヤッてもらえない代わりに、おんなじまーちゃんにヤられて良かったよな」
薄い氷にピシリとヒビが入った。少しずつゆっくりと裂け目が広がっていく。
好きなんだろ? 兄貴のこと。そう言いながら森が、じっと動かないおれの鼻先をさっきの仕返しとでもいうように嫌な音を立てて舐め、唾液を絡ませる。鼻から頬、耳、唇から首、肩にかけてじっとりと湿った筆先で線を引くように唇と舌が移動していく。
「俺、見たんだよ。六年の時、お前の家に何度か遊びに行っただろ。お前の部屋の机のさ、一番端の引き出しに入ってたあれ。水色の封筒。誰かからラブレターでも貰ったのかと思って、お前がトイレに行ってる時に見たら──」
「やめろ」
「『まぁちゃん』て兄貴のことだろ? あの日、俺が帰る時にちょうど部活から帰ってきて、『まぁちゃん』『将継兄さん』って呼んでたもんな」
…………。
「男が好きって時点でどうかしてんのに、よりによって兄貴が好きって。そんで、好きな男にはヤッてもらえないどころか相手にもされなくて、好きでもない男にまんまとヤられて。なぁ? そんな奴が『普通は』とか言ってんの、オカシすぎて嗤うわ。お前がまず普通じゃねぇんだよ。黙って好きでもない奴のを咥えて、ヤられて、適当に慰めとけば? ……」
そこから先、森が何を言ったのか覚えていない。
ただ、異様にゲスい表情をした森がたまらなく醜く、唾を吐きかけてやりたいぐらいだった。もしこの国にパージ法が施行されて、一年のうち十二時間だけは殺人やその他何をしても罪に問われないなら、おれは真っ先に森を手にかける。
そう決めた時、窓の外で何かが小さく光り、その数秒後にはゴロゴロと雷鳴が聞こえ、雨が降り出した。雨は、瞬く間に文字通りバケツをひっくり返したような勢いであたり一面をめった打ちにし始めた。すぐそばに落雷したような轟音がし、窓ガラスがガタガタと揺れる。森はそんなことを気にも留めず、おれの中に挿れたままスマートフォンを取り出し撮影をしようとしていた。おれは、ヤツの一瞬の隙をついて上半身を引いた。何かを言おうと口をパクパクさせながらスマートフォンを握りしめた森の、醜く膨れて反り返った陰茎を思いきり踏みつけ、散らかった服とカバンを手に部屋を出た。
『今日は前期末の試験で部活はないから夕方までに帰るよ』と、朝出ていく時に兄さんが言っていた。
先週ひどい夕立の後に雷が鳴った時、『タマネギは克服できたのに、雷はまだちょっと怖いっていうか』と苦笑いしておれのそばを離れなかった。
まぁちゃん。兄さん。
鼻水をすすり、涙があふれた目をこすりながら「あぁちゃん」とおれを呼ぶ幼い声。兄さんが雷をダメになったのはおれのせいでもある。
おれがまだ保育園に入ったばかりで、兄さんは小学校に入る前か、入ったばかりの頃。夕方、二人で留守番をしていて、二階のベランダで遊んでいた時に雨が降り出した。おれはちょっとしたいたずら心で兄さんをベランダに残し、掃き出し窓の鍵をかけた。そうしているうちに雨は強くなり、雷までが鳴り始めたけれど、室内からあっかんべーをしながら兄さんをからかっていた。最初のうちは「開けて!」と笑っていたが、雨と雷鳴が強くなるにつれ、明らかに兄の表情が変わり、いつまで経っても鍵の開かない窓ガラスを小さな拳で叩き始めた。「待って!開けるから!」と言ってもきかず、泣きながら叩き続けたガラスにひびが入り、握りしめた小指のあたりから血が流れ出した。その時、暗かった空に強い稲光が差し、それまで聞いたことのないような雷鳴が轟いた。しばらくして帰った母によれば、近くの公園の木に落雷したという。ベランダでびしょ濡れの上、手から血を流して泣きじゃくる兄と、その横でただただごめんねを繰り返しながらもらい泣きする弟。おれがまぁちゃんだったら、ふざけていたとはいえ簡単には弟を許さない。なのに兄さんは、二人ともが母親に叱られたことから、『やっちゃったね』と笑って、それ以来雷を極度に怖がるようになったこと以外は、それ以前と何も変わらなかった。
森の家から自宅まで数分。雨の中をわき目も振らずに走った。
玄関には帰ってないはずの母の靴だけがあった。「昭継?」と呼ぶ声が聞こえダイニングに向かうと、テーブルには二人分の食事の用意だけがあった。ずぶ濡れのおれを見るなりタオルを取りに風呂場へ向かう背中に「兄さんは?」と聞くと、
「あら、聞いてなかった? マサ今日はデートなんだって。さっき電話があって、テストの後に参考書を買いに付き合ってほしいって頼まれたんだって。そのあと一緒に夕飯も食べてくるそうよ」
へぇ……とだけ答えて先に風呂に入ると告げると、「食事、待ってるね」と母は微笑んだ。
向かいに座る母は、何が楽しいのか「ほら、マサって奥手っていうか、おとなしいじゃない」だの、「彼女は積極的な子なのかしら。そうやって引っ張ってってくれるコのほうが良いわよね」だの、けらけらと笑いながら話している。来春からは父親の転勤生活が落ち着くらしく、四月からは何年ぶりかで一緒に暮らせるわよとか、どれもこれもおれにとってはありがたくない話ばかり。母に悟られないよう、コップにお茶を注いでいる時も、テーブルの下で静かに拳を握りしめた。
さっき風呂で思い出した。
兄さんのことで糾弾された後、森が吐き捨てるように言った言葉。
『自覚ないかもだけど、お前結構気持ちよさそうな声出してんだよ。女みたいなさ。主将も俺もヤリたいだけで、お前は俺たちが出して気持ちよくなるための道具なんだよ』
考え始めたら吐き気がせりあがってきた。
小さな頃から、一番身近にいたのが兄だった。
学校の帰りに車に連れ込まれた夜、今日あった出来事は一生誰にも言うまいと誓った。できれば思い出したくも考えたくもなかった。ただ一刻も早く兄が帰ってきて、一緒にテレビを観て笑ったりふざけたり、そんないつも通りの時間を過ごしたかった。
しばらくしたある日、いつも通り夜勤の母が用意しておいてくれたカレーを温めて食べ、どっちが皿を洗うか風呂の用意をするか話していた時、つけっぱなしのテレビに映る映画が目に入った。どこかの国の女優と、旅行の本ばかりを扱っている小さな書店で働く男が恋に落ちる物語だってことは後から知った。
ぎこちなく向かい合っていたおじさんと女の人が、次に画面を振り返った時にはキスを交わしていた。そのシーンに照れたのか、『あ、あきつぐっ。水のおかわりいるか? 入れてくる』とあわてて兄が席を立った。おじさんの家の壁やドアはシミひとつなく真っ白で、まぁちゃんは『ふきふきしたらウチもあんなにきれいになんのかな?』『きれいだなー』と、恥ずかしさを隠すように関係ないことを口にしては笑っていた。
その時におれはわかった。おれの体は、きれいじゃない。あのことがあったせいでおれは汚れてしまったんだって。お風呂に入ったりトイレに行った時にしか見えないところを、見知らぬ人達に触られて、それ以上にもっとひどいことをされた。毎日お風呂で洗っても洗っても、どうしても消えない何かができてしまった。まぁちゃんがいなかった日に。
おれ、もう……。
気づいたら、カレーが半分ぐらい残った皿には涙がぼとぼと零れ落ちていて、ガタンと音がして顔を上げたら、向かいにいたまぁちゃんが立ち上がって「あき、つぐ」と今にも泣きそうな顔でこっちを見ていた。
「どうした?」って聞かれても何も言えない。だから聞かれる前に「学校でイヤなことがあって。でももういいんだ」と言ったおれの肩を、まぁちゃんはぎゅっと抱きしめてくれた。雷が鳴った時におれがまぁちゃんにしてやるように、「大丈夫。あぁちゃんはいい子だから」って。涙も出ないぐらいに怖く、感じたことのない傷みを隠すように抱えて眠ったあの日のことが後から後から思い出されて、まぁちゃんの腕をぎゅっと握ったまま離すことができなかった。
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