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第5話 初めての朝

 翌朝は、いつにない疲労感の中で目覚めた。  完全に寝不足だった。こんな日がこれから毎日続くのかと思うと、暗澹たる気分になった。  夜中に一瞬生じた父性愛は、今朝はもうどこかに吹き飛んでいた。あれは気の迷いか幻だったと悟った。 「松田さん、歯を磨いて下さい」 「は?」 「僕の歯を」 「俺が?」 「はい」  勿論といった顔でにこやかに返事をする颯也に、俺は異議を唱える気力も失せた。  これはやはり人として問題だろう。これほどまでに徹底して何もできない。否、しないとは。 「じゃ、口開けて」  これも取扱説明書にあったことだ。  俺は諦めて歯ブラシを掴んで颯也と向き合った。  颯也の口腔は驚くほど清涼で綺麗だった。裏側に至るまでシミひとつない真っ白な歯がぎっしりと並んでいる。  彼の世話を託された以上、これから先、この歯が一本でも虫歯に侵されるようなことがあれば、それは全て俺の責任ということになるのだろうか? だとしたら、なんというプレッシャーだ!  歯磨きを終えると、次は洗顔だ。髪にヘアターバンを被せ、洗顔フォームを塗り付け、指先でくるくるとマッサージをするようにまんべんなく行き渡らせた。  そして洗面台に屈ませ、横から掌を差し入れて充分にすすいだ。指にキュッキュッとした感触を得たのを確かめて、すすぎが完了したことを知る。  左手を颯也の後頭部に添え、右手に持ったタオルで顔を拭いた。そっと、ガラス細工を扱うように気を遣った。  この綺麗な顔と肌に、ニキビどころか傷ひとつ付けることさえ許されない。それはもはや強迫観念だった。この緊張感に俺はいつまで耐えられるのか? 「もしも、君に虫歯やニキビができたりしたら、全部俺のせいになってしまうのかな?」  おそるおそる訊いてみた。 「大丈夫です。松田さんは歯磨きも洗顔も上手でしたから」 「いや、だから、そういう問題じゃなくて」  俺が上手いか下手かとかいう問題ではない。訊いているのは責任の所在である。  ああっ、なんという巧みな論点のすり替え! なんてやつだ、西村颯也!  これから毎朝、俺はこんな面倒と緊張を強いられるのか⁉  お願いだ。自分でやってくれ! できるだろう。やろうと思えばできないわけはないだろう。幼稚園児だってできるのに。まず、自分でやろうという意志を持ってくれ!  俺は心の中で叫んだ。  それから、ジュースを飲ませ、昨日のうちに麗羅が用意していたクロワッサンを小さくちぎって口に入れてやった。それを何回か繰り返し、最後は口元を拭いて朝食完了だ。  その後は、食後の歯磨きだ。  そして、服を着せて……ああっ! 彼はまるで赤ん坊だ。否、王様かもしれない。  きっとそうだ。だとしたら、俺は召使だ。貴族から転落した悲哀に満ちたグラディエーターだ。ラッセル・クロウだ。せめてカッコイイものに例えさせてくれ。  本来なら、コーヒーを片手にスマホのニューヨークタイムズを読みながら小鳥のさえずりに耳を傾ける商社マンの優雅な朝……とまではいかなくとも、ギリギリまで惰眠を貪り、朝食も摂らずに出勤、という極めて気楽な朝のはずなのだ。  それが、脅迫観念に囚われたり悲哀を覚えたりと、朝からいろんな感情に翻弄されるはめになった。  そして何より、面倒臭いことこの上ない。俺はとんでもない荷物を背負い込んでしまったのかもしれない。  今さらながら、後悔の二文字が頭をよぎった。  俺は意を決し、颯也に言ってみることにした。麗羅に告げ口される懼れがなくもないが。 『松田さんてば、あの取扱説明書通りにやってくれないんだ。自分でやれなんて言うんだよ』  とか何とか。  それを聞いた麗羅が、 『最低だわ! 理仁亜って、そういう人だったのね。信頼を裏切るなんて』  と怒る。そんな麗羅の顔がリアルに浮かんだ。  しかし、それでも黙っていられなかった。たとえ麗羅から託された取扱説明書、もしくは指令書に背くことになったとしても。 「あのさ、颯也、君はもう大学生なんだから、自分のことは自分でやるようにしたらどうかな。歯くらい自分で磨こうよ。その方が断然スッキリするしさ。顔も自分で洗った方がサッパリしない? それから、服も自分で着る。自分の手でカップを持って、パンは男らしくかぶりつく。ねっ、それでよくない?」  一気にそう言った後、俺はため息をついた。これで麗羅から嫌われる。最悪の場合は、捨てられる。 「はい。松田さんがそう言うのなら、やってみます」  颯也は何の異議も唱えなかった。 「……え? そう」  言ってみるものだ。姉に告げ口する気配も感じられない。  さんざん逡巡した自分って、いったい? 「僕だって、松田さんに迷惑をかけたくありません。すぐにできるようになるのは難しいかもしれませんが、努力しますから、長い目で見て下さいね」  しみじみと颯也は言った。彼もこのままではいけないと自覚しているのだろうか。 「いや……焦らなくていいから。急になんて、そりゃ無理だよね」  殊勝なことを言われ、俺はあろうことか自ら譲歩してしまった。 「松田さんって、優しいんですね。でも、僕は、あなたの優しさにいつまでも甘えていてはいけないと思うんです。当然ですけど、あなたは姉さんたちとは違うから」  そう言う颯也の神妙な面持ちを見ていると、突き放すのは可哀想になってきた。  それどころか、世話が面倒だと思った自分が養育放棄(ネグレクト)の親のような気がして、罪悪感さえ覚えた。 「いや……君のお姉さんたちのような行き届いた世話ができるように、俺も努力するよ」  相手にだけ努力させておきながら自分が何もしないのは、人として間違っているのではないかと思えてきた。  魔法にでもかけられたように、いつしか趣旨が変わっていた。  結局、俺はこれからも颯也の世話をすることに変わりないのだ。しかも、彼の姉たちのように愛情に満ちた行き届いた世話を目指して。  つまり、俺は颯也に完全に籠絡されてしまったのだった。否、もはや洗脳だ。 「ところで、男性の身体って、やはり硬いんですね、いろんなところが」  颯也が思い出したように言った。 「いろんところって……」  筋肉か? それとも、男性特有の自然現象のことか? 「颯也、君も男だったらわかるだろう」 「そうですけど。ただ、あまりにも女体との違いが著しかったので」  颯也は髪に手を遣りながら、照れ笑いのような表情を浮かべた。 「姉さんといっても女性の身体だ。そんな年頃になるまで一緒に寝ていて、ムラッとくることとかなかったの?」 「ありません。姉ですから。というか、女体には免疫ができていますので、何も感じないです」 「可哀想に。じゃ、むしろ、男の身体に反応するとか?」  つい恐ろしいことを訊いてしまった! 言った途端に、俺は後悔した。  もしも、ここで颯也が肯定しようものなら、これから先、身の危険に怯えながら生活しなければならなくなる……⁉ 「僕は同性愛者ではありませんので、それもないです」  あっさりと彼は否定した。  おかげで俺の杞憂は瞬時に消えた。 「もはや人間じゃない」  茫然とする俺の呟きを聞き留めたのか、颯也は言った。 「姉たちは、僕をエンジェルと言います」 「なるほど」  やはり人間ではなかったか。 「そろそろ行きましょう」  涼しい顔で颯也は言った。  それにしても、エンジェルは果たして男なのか女なのか? はたまた性別など超越しているのか? そもそも人間ではないのだから、男でも女でもないのだろう。  考えるだけ無駄だった。 つづく

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