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月下美人

「こんなクソ暑いとこで、誰が待ってやるかっ」  聡は口の中で苛立たしげに呟き、すぐ目の前のファストフードに入って行った。炎天下をここまで走って来たせいで、Tシャツの下は汗まみれだ。それを引かせたくもあったが、出て来た理由を思うと、帰るのが癪でもあった。 「あいつの……」  男臭い厳つい顔が浮かんだ。張りのある筋肉が高圧的に動く(さま)も浮かび上がる。 「……あいつの代わりは幾らでもいる」  腰回りが細く、足も長いあの男程に、スタイルの良さは望めないだろうが、涼しい店で他の男を見付けて楽しむことにした。そう決めながらも、カーキのハーフパンツのポケットからスマホを取り出し、あの男からのメールを確かめている。 「クソがっ」  聡は無意識に開いた画面の遣り取りに悪態を吐いた。 〝やりてー〟  聡の最初のメールがこれだった。 〝アバズレが〟  あの男から返されたのがこれだ。それでも、今いるファストフードの前で待つと、()を置かずに返事が来た。下宿先のクロキの家からなら、列車に乗るより、裏道を抜けた方が早く着ける。聡は昔風の長い廊下を足早に歩きながらそう思っていた。靴箱から自分のスニーカーを取り出し、気もそぞろに履いてクロキの家を飛び出した。そしてここまで走って来た。  熱く火照った体を冷まして欲しい。あの男になら出来ることだ。その一念だった。 「……なのに、いやがらねぇ」  聡はスマホをポケットに戻し、顔を顰めた。他の男では駄目だ。悔しいが認めるしかない。葵を思って熱くなった体は、あの男でしか満足しない。あの男は葵と同じことが出来る。自分とのあいだに何があったのかを隠すよう頼んだことも、葵と同じように守っている。 「葵か……」  それがあの男にメールした原因だった。少し前、葵からスマホに連絡があった。葵にはまだ教えていない番号にだ。誰に聞いたと尋ねると、祖父の又吉と知らされた。〝これで俺の番号もわかったよな〟と続けられても、嬉しくなかった。直接聞いて欲しかった。 〝でだ、聡、おまえ、出て来ねぇか?〟  聡はむすっとしながらも、激しく波打つ胸の鼓動に体を熱くした。やはり葵は自分のことを忘れられない。捨てられない。そう喜んだ。しかし、違った。 〝おまえさ、爺ちゃんに、夏休み中、こっちにいるっつったんだってな、爺ちゃん、嘆いてたぞ。だからよぉ、聡も誘って、みんなで海に行くってことで、予定、立ててたんだが、海の前に、田舎に立ち寄ることにした。俺ん()、もうなんもねぇけど、家の方は爺ちゃんが面倒みてくれてるって話だったしさ、そこで一晩、みんなで雑魚寝ってのもいいんじゃね?で、これからみんなと予定、決めるんで……〟  それで出て来いと言われた。 〝ふざけんな!〟  怒鳴ってすぐにスマホを切った。それなのに、葵の声を聞いただけで、体は葵を求めて反応した。苦しくてならなかった。冷まして欲しかった。あの男にメールした。あの男は遣る瀬ない聡の思いに応えてくれたはずだった。 「クソがっ」  聡はあの男のことを頭から消した。早く別の男を見付けて、どこかにしけ込む。満足には程遠くても、憂さ晴らしにはなるだろう。店に入った時から、この顔が目当ての淫靡な視線をちらほら感じ取れている。  聡はゆっくりと視線を流した。どの男も似たり寄ったりでつまらなさそうだが、気にしない。多少下手でも、ものの役に立てばそれでいい。そう思って、これならと感じた男に近付こうとしたその時、仲間の匂いに気付いたと同時に声がした。 「聡!どこに行くんだよ!こっち!こっち!」  葵の声だった。子供の頃から見慣れた格好で、聡に手を振り、招き寄せようとしている。葵が座るボックス席には、初対面から鬱陶しく思えたあのちんちくりんなお節介と、半身らしい双子もどきのオタクが二人に、殴り倒し損ねたすかし野郎までもが座っていた。  葵は海外コミックのキャラクター付きTシャツにスウェットパンツ、それにビーチサンダルだった。伸ばし続けている髪は、一つに結んだままにしてある。ちんちくりんは葵を真似たのだろうが、聡には体育の授業にしか見えない格好だった。双子もどきとすかし野郎は、半袖シャツにジーンズ、足元は聡と同じスニーカーだった。双子もどきのは一目で量販品とわかるが、すかし野郎のは見るからに高そうなブランドものだった。  ちんちくりんは何が嬉しいのか、ニコニコしている。双子もどきは恍惚とした表情を見せている。聡の強さと口の悪さに魅了され、聡を見ると、いつも揃ってこういった表情をする。すかし野郎は無表情だった。 「おまえにスマホ、ブチっと切られちまって、どうすっか、俺なりに悩んだんだぞ」  店内には、葵の美貌に今しがた気付いたというざわめきが起きていた。自分もその一人なのが聡には面白くなかったが、葵は聡の様子にも頓着なく、天下泰平と話していた。 「省吾のアホたれに、おまえの扱いで困った時は、かわい子ちゃんを頼れって言われてたのを思い出してさ、まさかと思ったけど、頼んでみたのよ。そしたら、おいおい、なんてこった、その通りになりやがった」 「……かわい子ちゃん?」  意味がわからなかったが、あの男に、はめられたのはわかった。体の熱も一気に冷めた。そういった聡を笑うように、スマホが鳴った。あの男からメールが来ていた。 〝月下美人〟  これは聡とあの男との隠語で、夜には抱いてやるという含みがある。文字で見るだけでも、体が勝手にぞくぞくし、期待してしまう。あの最中に、あの男が突然動きを止めて、それを口にしたからだった。 〝そうだ、出掛けにニュースでちらっと見たんだが、どこかで月下美人が咲いたそうだ〟  疼きに濡れる雫があと少しで溢れ出るというところで、あの男はアホらしい世間話を始めた。腹は立ったが、欲望に震える体はあの男に従うしかない。 〝うっ、うご……けよっ〟  聡は喘ぎ声の合間に、微かな苛立ちを込めて言った。聡をいたぶり、楽しんでもいたのだろう。あの男はお構いなしに話を続けていた。 〝月下美人、一晩だけ美しく咲く、香りは柔らかだが強く匂う、おまえに似ていないか?〟 〝うるせ……ぇんだよ、さっさと……やれっ〟 〝そう焦るな〟 〝あんたとも……この一回だけ……ってことだろ〟 〝少し解釈が違うな、同じ夜は二度ない、毎夜毎夜のその一夜(ひとよ)を、おまえはただ一人の為に美しく咲く、可愛い顔に柔らかな香りを思わせ、激しい欲望に強さを匂わし……〟 〝うっ……つっ……っ〟  肌を舐めるかのように響いたあの男の低く男らしい声に、手足の先までわなないた。そのすぐあとで、あの男の動きに痺れ、いきり立つ一瞬の刺激に葵を忘れた。愛は要らない。葵を求めて疼く熱を冷ましてくれるだけでいい。聡はそのことを思い出した。 「この借り、体で返せ」  小さく呟き、あの男のメールにもそう返事をして、葵が待つボックス席へと足を向けた。 〝あのさ、わかってる?〟  ふと胸に声が響いた。血に棲むものとその欠片は陰と陽の交わりを終えていない。今少し時間がある。そのあいだに葵を取り戻す。あの男が言ったように焦らないことだ。全てを利用すればいい。 「人としての恋愛感情に、どれ程の価値がある?葵を取り戻せるのなら、そんなもん、もう要らない」  聡はあの男のことも利用するだけと、胸に響く声にも言い聞かせ、葵へと歩いた。 それから十日経って―――。 「篠原君、そのお菓子とジュースは先輩達のだよ、食べちゃダメだって、あとで先輩達に配るものだからね」  ちんちくりんなお節介が、葵に向かって偉そうな態度を取るのを、聡は瞳の先で軽く顔を斜めにして眺めていた。 「本当に、昨日、突然、メイ先輩から連絡があった時は、驚いちゃったよ。先輩達も一緒に行くって言われて、びっくりしちゃったけど、日程も時間もそのままで、ホテルも列車のチケットも用意してあって、僕が予約したのもキャンセルしてくれるって、そこまで言われちゃったら、お願いするしかないよね。だけど、車両貸切なんて思わなかったな、メイ先輩のすることって、本当に驚きだよね。先輩達が来ること、メールしなかったのもね、みんなに知らせなかったら、みんなの驚いた顔が見られるよって、メイ先輩に言われたからなんだ。僕もびっくりさせられたから、メイ先輩の悪戯に乗っちゃった。僕、みんなの驚いた顔を想像して、朝からずっとドキドキだった。だけど、みんな、そんなに驚かなかったね、大勢の方が楽しいし、嬉しさの方が大きかったのはわかるけど、僕、ちょっと寂しかったな」  ちんちくりんの長ったらしい馬鹿話がいつまで続くのか、聡には見当も付かなかった。イライラさせられるばかりだが、不思議と黙らせられない雰囲気もある。それは葵も同じなのだろう。ちんちくりんに好きに喋らせていた。 「そうそう、昨日、メイ先輩から連絡があった時、サキさんも来るのって聞いたんだ、お菓子とジュース、人数分用意しなきゃと思ったからね。だけど、サキさん、受験生でしょ、この夏休みが勝負だし、遊び過ぎたから、真面目に夏期講習を受けるんだって、それで来られないって聞いて、僕、凄く残念に思ったんだ。おっきくて怖そうに見えるけど、話してみると楽しい人だもん。だから、僕、お土産買って来るねって、メールしちゃった……って、聞いてる?篠原君?……って、だから、それ、食べちゃダメだって!」 「委員長さ、(こま)けぇことはどうでもいいんだよ、それにだ、先輩どもは一端(いっぱし)の大人を気取ってんだぞ、ガキの食いもんなんかにゃ、興味ねぇって」  絵柄は変わったが、飽きもせずに、海外コミックのキャラクター付きTシャツにスウェットパンツ、ビーチサンダル姿の葵がオヤジ臭い口調で、体育の授業のような格好のちんちくりんに反論を始めたが、それも手にした菓子を取り上げられたからだった。  このおかしな旅行は、葵と一緒にファストフードにいた四人とのはずだった。それが待ち合わせの十七番線ホームには、葵が言う一端(いっぱし)の大人を気取った五人の先輩どもがいた。列車に乗ってからは、ちんちくりんなお節介が立てた計画らしく、クソガキ達の遠足のような騒がしさだ。一端の大人を気取った先輩どもが幾ら他人のふりをしようが、彼らもクソガキの仲間入りということだ。  聡は田舎へと向かう列車の中で、無表情を貫くすかし野郎の隣で、段々と叫び出したくなっていた。目の前には、双子もどきのオタク二人が、恍惚とした表情と共に座っている。通路を挟んだ向こうには、葵とちんちくりんが並んで座り、前には赤褐色の肌をした先輩がちんちくりんだけを見詰めて一人で座っている。その後ろに、残りの四人の先輩どもが、貸切だというのに、他人のような顔付きで向かい合わせに座っていた。そこにあの男がいる。  聡はちらりと後ろに目を向け、あの男を見た。あの男は聡の視線に気付き、聡の思いを理解するように片頬だけで薄く笑った。聡はさっと前に向き直り、その目を葵に向けた。葵は取り上げられた菓子とジュースのことで、ちんちんりんに文句を言い続けている。叫びそうになった。しかし、ぐっと口を絞って耐えた。  聡はあの男が見せた皮肉な笑いに逆らうように、気持ちを強くした。それには田舎の駅に着くまで何度も、同じ台詞を呟かなくてはならなかった。 「こんなのは俺の葵じゃない、こんなのは……」

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