1 / 82

第1話

 ―プロローグ―  初夏の陽射しが眩しい6月のある日、レイモンド・ハーブリーブスは自分の経営するホワイト・キャッスルギャラリーのいつもの定位置であるデスクに座って、ぼんやりと外を眺めていた。表通りに面した側が、一面の大きなガラスになっており、街行く人々や通り過ぎる車がデスクに座っていてもよく見える。実はこのガラスは特注の遮光ガラスになっていて、外からは曇りガラスのようにしか見えないが、内側から見ると普通の透明ガラスなので外がよく見えるのである。  6月は英国では、一般的に一年で一番良い季節とされている。そのため毎年この時期は、アスコット競馬やウィンブルドン、エリザベス女王の公式誕生行事など、様々な社交イベントが行われる。  この日も澄み切った青空がとても綺麗で、レイは外を眺めながら、ランチは何を食べよう、今年のホリディはどこへ行こうか、と取り留めの無い思考を巡らせていた。 ――去年のホリディはローリーと南仏に行ったんだよね。今年は……リチャードと、どこかに行きたいな。きっとあんまり長いお休み取れないだろうし、近場でいいところどこかないかな。リチャードのことだから、どこに行きたい? って聞いてもレイに任せるよ、って言うに決まってるし……  レイはリチャードと二人で過ごすホリディを想像して、密かに胸を踊らせた。考えてみたら、付き合い出してから旅行と名の付くものには、これまで一度も行っていない。まだ何も決まってないのに、初めて一緒に旅行に行けるかもしれないという期待で、レイは嬉しくてたまらなくなる。 ――ブルージュなんてどうかな……ユーロスターで気軽に行ける距離だし、運河沿いをのんびり散歩して、ショコラティエで買い物して……リチャードはビールが好きだから、ベルギービールの美味しいお店に連れて行ったら喜んでくれそうだし……そうだ、スクエアの近くに確かミシュランスターの三つ星取ってるいいレストランがあったっけ。ちょっと住所調べておこうかな。  そう思い、レイが机の引き出しからラップトップコンピューターを取り出そうとした瞬間、ドアベルが鳴った。ちらり、と入り口に目をやると中年の男女が立ってる。知った顔ではない。一般客らしい、と見定めて解錠ボタンを押す。二人は何やら楽しげに話しながら、ギャラリー内に入ってきた。そのまま店内の展示を、会話しつつ見て回っている。耳に入ってくるその言葉は、英語ではなかった。どうやらフランス人観光客のようだ。  この辺りはバッキンガム宮殿や、トラファルガー広場などの有名観光地にも近く、ギャラリーにも観光客が多く訪れる。これからの観光のハイシーズンともなれば、かなり多くの観光客がやって来るだろう。だが、その中で購入してくれる上客は一握りだ。大抵は冷やかしの客だった。  どうやらこの二人連れもそう言った類いの客だったらしく、ギャラリーの中をぐるりと一回りすると、レイの方を向いて男性が「Merci(ありがとう)」と言って、ドアの取っ手に手をかけた。レイは「De rien(どういたしまして)」とにっこり笑って答える。そのレイの顔を女性客が見て、頬を赤くすると小走りで男性に近づき、彼の耳元で何か呟いていた。はっきりとは聞こえなかったが、レイの耳に「Ange(天使)」と言う単語だけが入ってくる。

ともだちにシェアしよう!