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第2話
――そう言えば、リチャードは僕を天使だって言ってくれたっけ……
レイはそう思い出すと、無性にリチャードに会いたくてたまらなくなる。
――今日、仕事終わったら会えないかな……夏のホリディについて相談したいし。
ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、リチャードにメッセージを送ろうする。
だが丁度その時、レイは二人のフランス人客と入れ替わりに、誰かが中へ入って来たのに気付いて視線を上げた。通常、ギャラリーのドアには防犯上鍵が掛けられており、客が外から入ってくる場合は、ドアベルを鳴らさなければ解錠して入れて貰えないが、内側から外へ出る場合は鍵を開ける必要がないので、入れ替わりに入ってくる客は何もする必要がない。
そしてレイは新たに入ってきた客を見て、思わず座っていた椅子から立ち上がる。
「ジュリアン……」
「やあ、レイモンド久しぶりだね。相変わらず、僕好みの可愛い顔をしてるじゃないか」
レイの目の前に、背が高くブルネットの髪で、整っているがどこか冷酷そうな顔立と冷たく光るグリーンアイズが目立つ男性が立っていた。
「……なんでお前がここにいるんだよ」
「相変わらずつれないな。そんな怖い表情は可愛い顔に似合わないぞ」
「ベルリンにいたんじゃないのか」
「あっちの仕事が上手くいってね。今度ロンドンに支店を出すんだ。それでベルリンの方は共同経営者に任せて、こっちの店は僕が仕切ることにしたんだよ。今日は同業者として挨拶に来たんだけど、そんな冷たい態度を取られるなんて心外だな」
「……僕に挨拶しに来る義理なんてないじゃないか」
「そんな事はないよ。きみには色々と世話になったからね」
「世話? どの面下げてそんな言葉が言えるんだよ」
「口の悪い僕の可愛いレイモンド、まだ分からないのかい? 挨拶なんて単なる口実に決まってるだろう? きみに会いに、わざわざベルリンから飛んできたんじゃないか」
そう言うと、ジュリアンは口元に酷薄そうな笑みを浮かべる。見た人間が思わず、ぞっとするような表情だった。レイは真っ直ぐに、ジュリアンを睨み返して言う。
「そんなの嘘だろ? 何企んでるんだよ」
「四年前に比べたら、随分疑り深い性格になったようだね。昔はあんなに素直で愛らしかったのに」
「……お前がそうさせたんだろ? 言いたいこと言ったら、さっさと帰れよ」
「素っ気ないなあ。そんなところもまた、たまらなく可愛いんだけど」
ジュリアンはレイに近づくと彼の顎を掴み、無理矢理自分の顔に近づける。
「可愛いなんて言って悪かったよ、レイモンド。……四年会わない間に、きみは随分綺麗になったな」
「気安く触るな」
レイは、自分の顎を掴むジュリアンの手を払いのける。
「今夜、食事でもどうだい? 昔の話を色々しようよ」
「冗談じゃない。僕は何も話すことなんてない!」
「そうかい? 四年前の話題が色々あるじゃないか」
「思い出したくないに決まってるだろ?!」
レイは辛そうに俯く。ジュリアンは、ネズミを追い詰めたネコのような意地悪な表情で、レイを見つめる。
「僕はこの四年間ずっときみを忘れずにいたのに、きみは僕を思い出したくないのか?」
「あっ、当たり前だろ……僕にあんな真似しておいてっ……」
ジュリアンはそう言ったレイの腕を掴んで、自分に引き寄せようとする。レイは「やめろよ!」と叫んでジュリアンを押し返し、デスクを挟んでもみ合いのような形になる。
その時だった。
「すいません、うちのオーナーに手を出さないで頂けますか? それは売り物じゃないんで」
後ろから冷静な声がして、ジュリアンが振り返る。そこには買い物袋をぶら下げたローリーが立っていた。
「またお前か」
「またお前か、じゃないですよ。僕はここで働いてるんですから、ここにいて当然でしょう? それよりも、四年前も確か僕はあなたに、オーナーには手を出さないで下さい、ってお願いしたような気がするんですけど」
「……そうだったかな」
ジュリアンは掴んでいたレイの腕を放す。
「あんまり、おいたが過ぎるようでしたら、警察に電話しますよ?」
ローリーは右手に持った携帯電話を、ジュリアンに見えるように掲げる。
「……もう帰るよ。レイモンド、気が向いたらギャラリーのオープニング来てくれ」
そう言って、ジュリアンはジャケットのポケットからビジネスカードを取り出すと、レイのデスクの上に載せ、ギャラリーから出て行った。
レイは彼がギャラリーの外へ出て視界から消えると、気が抜けたように椅子にへたり込む。
「……ローリー、何でもっと早く助けてくれないんだよ」
「何でって、買い物行けって言ったのはレイじゃないか。丁度戻ってきたら、あの男がレイの腕掴んでもみ合ってたから、声掛けただけだろう?」
「ごめん。……助けてくれてありがと」
「あの男が、まさかベルリンから戻って来てたなんて、全然知らなかったよ」
「僕もだよ……もう二度と会わないと思ってたのに」
「レイ、大丈夫か?」
「……うん」
レイは力なく頷く。
「紅茶かコーヒー淹れようか?」
「紅茶にして」
「濃い目、ミルクなし?」
「……よく分かったね」
レイは顔を上げてローリーを見ると、口の端に自嘲気味の笑みを浮かべて言う。
「あの時はコーヒーを濃い目でミルクなしだった。いつもはミルクたっぷりのコーヒーしか飲まないのに」
「ミルクなしのコーヒーは、あの時以来飲んでないよ」
ローリーはレイの返答を聞くと軽く微笑んで、紅茶を淹れる為にバックオフィスへ入って行った。
――あの男がロンドンに戻って来たなんて……何も起こらなければいいんだけど。
嫌な予感に、レイの表情も自然と暗く沈んだものになる。
そして自分の目の前に、ジュリアンが置いていったビジネスカードがあるのに気づき、苦々しい顔をすると、すぐに手に取って側にあったゴミ箱に捨てようとしたが、その手を止めてしばらく考えた後、デスクの引き出しの一番上に放り込んだ。
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