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第3話
1.
MET(Metropolitan Police/ロンドン警視庁)AACU(Art&Antiques Crime Unit/美術&アンティーク犯罪捜査課)所属の警部補、リチャード・ジョーンズはタイミングを見計らいかねて迷っていた。この時間であれば、普段ならまだ寝ている筈。無理に起こして機嫌を損ねてしまわないだろうか。彼は寝起きは大抵あまり機嫌が良くない。その上、寝ているところを起こされたとあれば、更に悪い結果が待っているのは簡単に予想がついた。なるべくなら、彼の一日の始まりを悪いものにはしたくない。だが、今ここで電話を掛けずにいたら、一体いつ掛ければ良いのか? 予定が決まっているので、これ以上先延ばしには出来ない。
リチャードはしばらくの間逡巡して携帯電話を見つめていたが、仕事の件だから仕方がないか、と諦めて登録ボタンを押した。
数コール目で相手が出る。
「おはよう、随分早いね」
リチャードは腕時計を見た。時刻は9時少し前。通常であれば決して朝早過ぎるという時間ではないのだが、電話の向こう側の相手はまだ眠そうな声だ。やはり起こしてしまったか。
「悪い、起こしたか?」
「ううん、丁度、今起きたところ」
リチャードは通話相手が、起き抜けのぼんやりとした表情で、ベッドに腰掛けて話している様子を想像する。
「なに? 急用?」
「ああ。事件が起きて、レイに同行して貰いたいところがあるんだ。クラレンス・オークションハウスなんだけど……」
「僕の家から近いね」
「そうなんだ。だから直接オークションハウスで、待ち合わせ出来ないかと思って」
「いいよ。何時?」
「10時なんだけど、大丈夫かな?」
「OK、入り口入ったところのロビーに、レストランがあるだろう? 僕あそこで朝食食べてるから、10時ちょっと前に来て」
「分かった」
クラレンス・オークションハウスは、英国でも屈指の名店で、世界各国に支店がある有名なオークション会社だった。
そのヘッドクォーターであるメインオークションハウスは、レイの家から徒歩ですぐのところにある。
レイの事だ、通話が終わるとすぐに支度を済ませて出かけるに違いない。自分も今すぐオフィスを出れば、レストランでコーヒーくらいは一緒に飲めるかも、とリチャードは思い席を立つ。
「ジョーンズ警部補、どこかにお出かけですか?」
声を掛けられて振り返ると、サーシャがにこにこと笑ってこちらを見ていた。
「クラレンス・オークションハウスに行って来る」
「私も一緒に行っていいですか?」
「え? いや、スペンサー警部から許可出てないから、今回は……」
「じゃあ、許可貰ってきます!」
サーシャは即座に立ち上がると、スペンサー警部のオフィスへ走って行く。
――まずい、今すぐ行かないと。
リチャードは、椅子の背に掛けてあったジャケットを引っ掴むと、慌てふためいてオフィスを出た。出る時にスタッフルームに戻ってきたセーラとすれ違い「リチャード、どこ行くの?」と聞かれて「クラレンス・オークションハウス!」と叫ぶように言い残し、走って階段を駆け下りる。リフト待ちしていたら、絶対にサーシャに追いつかれると思ったのだ。
サーシャは事あるごとに、露骨なまでにリチャードに対して好意をアピールしてくる。リチャードは男性として、そこまでされて喜ぶべきなのだろうが、彼にはレイという恋人がいるので、彼女の好意には答えられないのだ。しかも彼女はリチャードの好みのタイプではない。下手な対応をして、彼女に無駄な期待をさせたらいけない、とリチャードは普段から気を遣っていた。
おまけに、レイとの仲は絶対に秘密だ。現職警察官と警視総監の甥の恋。彼との仲がばれたらスキャンダルは間違いない。恋人がいるのに、その存在を明かせないために、リチャードは毎回サーシャに好意を向けられる度、うまく避けるべく苦労を強いられていた。
そして更に悪いのが、レイはサーシャがリチャードに好意を持っているのを知っていて、天敵だと見なし毛嫌いしていたのだ。
もしもクラレンスに行くのにサーシャを連れて行こうものなら、朝からレイの不機嫌な顔を見せつけられた挙げ句、後々まで責め続けられることになる。それだけは避けたかった。
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