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四月四日目【予兆】
カーテンの隙間から射し込む日差しの眩しさで目を覚ます。隣には例のごとく阿佐美が眠っていた。
いつの間に……。確か、眠る前は俺は一人だったはずだが。
けれど、まあ、早朝の肌寒さに阿佐美の体温は心地良いのかもしれない。そう前向きに捉えつつ、起き上がる。真新しい制服に袖を通し、部屋を出た。
「おはよう、齋藤」
扉を開けてすぐ、聞こえてきた声に驚いた。そこには既に支度を済ませた志摩が立っていた。
「志摩、おはよう」
「うん、今日は寝癖はないみたいだね」
「今日はって……」
「昨日はすごかったからね」
「えっ、本当に?」
「冗談だよ」
「……」
「それじゃ、ご飯食べに行こうか。齋藤は何が食べたい?洋食?和食?中華?それともジャンクフード?」
「……軽いのがいいな」
「じゃあコンビニ行こうか。ラウンジで食べようよ」
「うん」
志摩はいつもと変わらない調子だった。
阿佐美がいないからか分からないが、こうして軽口を叩かれるだけでも大分気が楽になった。
というわけで、俺達は一階に移動するためにエレベーターに乗り込む。
まだ朝も早いためか機内に人気はない。一階に向かって降下する途中、二階のランプが点滅し、機体が停止した。そして、静かに扉が開く。
学生寮二階。一年生の部屋が集まったその階で停止したエレベーターの扉の前、見覚えのある二人が立っていた。
クマのぬいぐるみに、男子校にはあるまじきスカート姿。一度見たら忘れられないであろう特徴的な凸凹のシルエットに、俺も、志摩も、二人も、微妙な顔をする。
「あーあ、朝っぱらから辛気臭い顔見ちゃったなー、ツイてねー」
「……おはようございます……」
「お、おはよう……江古田君」
「俺には挨拶ないのかよ、チビ贔屓か?!」
「お、おはよう……櫻田君」
「馴れ馴れしく名前呼ぶなっての、彼女か?」
「……」
……う、すごく絡みづらい。というかどうしろと。
低血圧そうな江古田はともかく、不機嫌そうな櫻田まで機体に乗り込んできてエレベーターは一階に向かって降下を始める。
然程時間は掛からないが、その間、志摩の目が痛かった。『齋藤いつこいつらと知り合ったんだよ』とでも思ってるのだろう。白い目を受け止めることができず俺は一階で停止するまでずっと志摩から顔を逸していた。
その気まずい密室からもすぐに開放されることになる。一階のロビーに着き、扉が開いた。
俺と志摩が降りて、続いて櫻田と最後にゆっくりとした動作で江古田が降りた。
そのままコンビニへと歩き出そうとしたとき。
「先輩さぁ、会長と本当に友達なわけ?」
いきなり、櫻田に呼び止められる。
「友達っていうか……その、どうして?」
「親衛隊の皆が騒いでたから。……会長が露骨に贔屓してる転校生がいるって。あんたのことだろ、齋藤」
「……黙って聞いてりゃさあ、君、年上に対しての口、利き方なってないよね」
櫻田の問いに対し、答えたのは俺ではなく……先程まで黙っていた志摩だった。
冷たいその声に、血の気が引く。何を言い出すんだと思ったが、俺をかばってくれているのか。分からないけど、櫻田が「あ?」と眉根を寄せるのを見て頭が痛くなる。
「あっ、あの……志摩……」
「なんだよ、お前。俺は齋藤先輩に言ってんだけど? つーか、何、お前もしかしてこいつの彼氏?」
「な、何言って……ッ」
「そうだよ。……って言ったら何? 齋藤に馴れ馴れしくすんの止めるの?」
「し、志摩……っ!」
売り言葉に買い言葉。ロビーに広がる不穏な空気に、冷や汗が滲む。
というか、志摩も志摩で何を言ってるんだ。櫻田に絡まれるのは確かに面倒だけど、そこまで食い掛からなくても……。
と、二人の間でアワアワとしていると、くいっと制服の袖を引っ張られる。何事かと思えば、江古田がじっと黒く淀んだ眼をこちらに向けていた。
「……先輩、気を付けてください……良からぬこと考えてる人たちもいるみたいです……」
「え、江古田君……どうしてそんなこと知ってるの?」
「……櫻田君に無理矢理会長の親衛隊に入れられたんです……」
な、なるほど……。俺が知らないところで江古田まで櫻田の被害を被っていたのか。
会長に陶酔してる櫻田はともかく、江古田はそれほど会長に入れ込んでるように見えない。
けれど、わざわざそれを教えてくれるということは……事は俺が想像してるよりも面倒なことになっているということか。
「親衛隊ねぇ。……信用出来ないな」
「……別に、信じるも信じないも勝手にしたらいいじゃないですか……僕はあなたではなく、齋藤先輩に言ってるので……」
「志摩、そういう言い方はよくないんじゃ……江古田君、教えてくれてありがとう」
「………………」
「あーあ、せっかく教えてやったっつーのによ、先輩、恋人は選んだ方がいいんじゃねえの?この男、ぜってー根性ひん曲がってるから」
「人を指差すなよ」
「し、志摩……もういいから。ご飯行こう、ご飯。……あの、二人ともありがとう。俺達はこれで失礼するね」
「…………」
「フンッ、もーなんも教えてやーらね」
「…………」
半ば無理矢理二人から志摩を引き剥がすように、俺は志摩をロビーから離れた通路まで引っ張っていく。
最後まで櫻田と江古田のヘイトが痛かったが……それよりも、今は志摩だ。
「志摩……ダメだよ、後輩の子にあんなこと言ったら」
「齋藤はムカつかないの?あんな風にバカにされて」
「ば、バカにっていうか……」
「俺は見てられないね。自分のことはともかく、好き勝手言われて黙ってる齋藤見るのも嫌だ」
「……志摩……」
志摩は、基本的にはいいやつなのだろうけど、たまに分からなくなる。喜ぶべきなのか、注意するべきなのか。
けれど、俺にはそもそもその資格があるのか。
「……それにしても、親衛隊まで出てきてるって……本当、齋藤何やってるの?俺、転校初日に注意してたと思うんだけど」
「……ごめん、俺も、そんなことになってるなんて思ってなくて……」
「とにかく、あまり一人にならないほうがいいのは間違いないね。会長の親衛隊絡みだと、ろくなことにならないだろうから」
「……うん」
警戒心がないつもりはないけれど、志摩みたいに周りを常に疑って掛かるべきなのだろうか。キツく言われる度に、そんな風に思えてしまう。
「俺も気を付けるけど、齋藤も気を付けてよ。……何かあったらすぐに言うこと。いい?」
「……うん、分かったよ」
「……本当に?」
「う、うん……」
「じゃあ俺の目を見て言ってみて」
ぐっと顔を覗き込まれ、一瞬心臓が停まりそうになった。深い色の瞳に吸い込まれそうになる。
じっとこちらを見られてると思うと酷く恥ずかしくなったが、それ以上に、動けなかった。目を逸らせなかった。
「……ちゃんと、気を付ける。志摩に言うから……」
なんなんだ、これは。幼い子供を諭すような志摩の口振りにとても居た堪れなくなる俺だが、志摩は満足そうだ。「よし」と頷き、「気を付けなよ」と志摩は俺の肩をポンポンと叩いた。
顔が熱い。何事もなかったかのように志摩は俺から手を離したが、触られた箇所も酷く熱くなった。
距離感が掴めない俺に対し、志摩はそんなもの最初から存在しないかのように詰めてくるから心臓に悪い。
バクバクと煩いそれを必死に宥めながら、俺達は気を取り直して朝食に向かった。
それから志摩と朝食を済ませ、教室へと向かう。
学園、昇降口。靴箱に置いていた靴を履き替え、段差を上がったときだった。
「副会長、待ってください!」
「僕たち、頑張って先輩のために弁当つくってきたんですっ」
聞こえてきたのは、まだ声変わりのしていないような高めの少年の声だ。副会長という固有名詞に反応し、声のする階段の方へと目を向ければそこには数人の男子生徒と、その中央、見覚えのある男がいた。
眠たげな目に、ゆるくパーマ掛かった癖っ毛。
絡まれているのは副会長・栫井平佑のようだ。
「あの、だからこれ……」
「いらない。……つか、他人の手料理とか食う気しねーから」
「……ッえ、あの……」
「……自分で食べれば?」
ばっさりと切り捨てる、その眠たげな声。
あまりにも身も蓋もない、それどころか取り付く島すらもないその栫井の言葉に、生徒たちは言葉に詰まる。
キツイ性格をしてると思ったが、俺は俺に限ったわけではないのだろうか。今にも泣き出しそうな顔をする下級生を置いて、栫井は歩き出す。
俺は、咄嗟に壁に隠れ、息を潜める。栫井は俺達のいた通路の前を通り過ぎ、昇降口を後にした。
「……本当、何がいいんだろうね?」
「え?」
「栫井平佑。……会長は置いておいて、生徒会の中では一番親衛隊が多いんだよね。まあ、本人がああだし実質非公式みたいなところあるけど。……本当、どうせ男相手にキャーキャー言うなら他にもいるだろってのに」
やれやれと肩を竦める志摩。
先程栫井に切り捨てられた生徒たちはお互いに慰め合いながらその場を立ち去った。
……あの子達も親衛隊というやつなのだろうか。
「栫井って、誰にでもああなの?」
「まあ、あいつが愛想よくしてるところなんてろくなことじゃないなってくらい無愛想だよ。……生徒会のくせにイベントも大体サボってるし、いい加減で働かない。本当、よく生徒会なんて入ろうと思ったよねってレベルでやる気ないよね」
「……そうなんだ」
「齋藤は? どうしてあいつのことなんか気にしてるの?」
「……もしかして、何かあったの?」志摩の勘の鋭さは相変わらずのようだ。指摘にぎくりとすれば、志摩は浮かべていた笑みを引き攣らせた。
「まさか本当に……」
「ち、違うんだ……さっき親衛隊の話を聞いたから……ちょっと、気になってさ……」
親衛隊と生徒会の関係性。
会長の態度や今の栫井の態度を見る限り、親衛隊の存在をよく思っていないように感じた。
だとすれば、親衛隊という存在は志摩の言うとおり非公式のファンクラブのようなものなのだろうか。
そもそも親衛隊についてその活動内容すらまともに分からないだけに、なんとも言いようがないが。
「親衛隊っていうのはまあ、言ってしまえばファンみたいなものだけど、今はちゃんと組織として三年が仕切ってるっぽいね」
「そう、なんだ……」
「とは言え、気を付けなよ。下手に因縁付けられたら面倒だし」
「う、うん……」
空の上の話のようだ。
弁当まで作ってくれるなんて、うーん。芸能人でもないのにファンがいるというのは中々不思議な世界だが、取り巻きということなのだろうか。
それにしても、あんなに冷たくされてもよく辞めないものだな。俺だったら、無理だろうな。
俺と志摩はその場を後にし、教室へと向かう。
それから、昨日同様に授業を受けた。新しく配布された教科書と、用意した新品のノートを手に、ホワイトボードに書かれた内容をノートに取る。
教室が綺麗な上、空調設備もしっかりある。快適な環境で学べるのは有り難い。
嫌なこと全部忘れるくらい、俺は授業に没頭する。
気付けばすべての授業が終わっていた。
そして放課後。
「今日はどうしようか」「何をして遊ぶ?」と志摩と雑談しながら帰宅準備をしていたときだ。
「おい亮太、ちょっと頼みたいことあるんだがいいか?」
いきなり、教室から顔出した担任に志摩が呼ばれる。「ええ」と露骨に嫌な顔をする志摩。
「ええとか言うなよ、すぐ終わるから。ちょっと荷物運ぶの手伝ってほしいんだよ。お前委員長だろ」
「そうですけど、俺は齋藤と帰ろうと思ったのに……」
「あ、俺のことは大丈夫だから……。遊ぶのは明日でもいいし」
「……何それ、なーんかやだなぁそれ。俺は今日齋藤と遊びたかったのに」
不貞腐れる志摩。ここは志摩を立てておいた方が良かったのだろうか。
後悔したが、担任の反応はあくまで大らかだった。
「なんだ、別に一生の別れでもないだろ!終わったら好きなだけ遊べ! ほら、亮太行くぞ!」
「ええ……」
「が、頑張って……?」
「齋藤、恨むよ」
「ごめん……」
落ち込む俺に、志摩はやれやれと笑い、そのまま担任とともに教室を出た。
怒ったフリだったのだろうか。志摩の心情はいまいち読めないが、本気で怒ってるわけではなさそうでホッとした。
俺は、一度帰ることにした。志摩を待つことも考えたのだが、一応約束は着替えてからということだったからだ。
いつでも遊びに行けるように着替えて待ってた方がいいだろう。ということで一度教室を出たのだけれど。
「齋籐佑樹」
聞こえてきたその声に、全身が緊張する。
聞き覚えのある、高飛車な声。振り返ればそこには、一際目立つピンクの頭が一つ。
安久は、鋭い目でこちらを睨んでいた。
「なんで、ここに……」
「お前、伊織さんってものがありながら性懲りもなく生徒会の連中とつるんだだろ?……伊織さんはご立腹だよ、アンタを連れてこいってさ」
だから、と口を動かす安久に、俺は考えるよりも先に走り出した。
落とさないようにと鞄を脇に抱え、形振り構わず廊下を駆け抜けていく。
「ッ! 待て! おいこら!」
安久の声が後方から聞こえてきた。
運動は、得意な方ではない。けれど、それでも右足と左足を交互に出して、がむしゃらに駆け抜けていく。人にぶつかりそうになってもお構いなし。
人を掻き分けるように、俺は安久から逃げ出した。
また、阿賀松だ。やっぱり、芳川会長とのこと知ったんだ。
バクバクと心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
「なんで逃げんだよ! 止まれっていってんだろ!」
安久の怒声に、周りの生徒たちはこちらに目を向ける。恐らく、俺のすぐ後ろには安久が走って来ているはずだ。
いまの俺には走ることに集中するだけでいっぱいいっぱいで、確認する余裕もない。
手摺を掴みながら一段飛ばしで階段を降りる。どこになにがあるのかわからない。やけくそだ。安久がどこかに行けばいいと思っていた。
枝分かれになった通路を走っていき、安久の足音が大分離れたのを確認し、俺は、近くの教室に身を隠した。
瞬間、ふわりと鼻腔を擽る薬品の匂い。それと、太陽の匂い。
振り返れば、一人の生徒が驚いたようにこちらを見ていた。焼けた肌に、色を脱いたような金髪頭には身に覚えがあった。
「あ……お前……っ」
相手も、俺に見覚えがあったようだ。
そうだ、この男は確か安久と一緒にいた、確か……仁科。
「どうしてここに……」
と、辺りを見渡す。白いカーテンに無数の薬品棚。
そして、空の教師机。……保健室?
「……けが人、ってわけじゃなさそうだな。……お前、ここが保健室って知らなくて来たのか?」
困ったように、仁科は息を吐いた。
やっぱりそうだ。俺は周りを見ないで走ってきた内に、保健室までやってきたらしい。
「っ、すみません……気付かなくて……」
「だろうな。……今、委員は俺しかいないから。……怒られる前に戻れよ」
委員、ということは仁科は保健委員なのか?と驚く俺に、仁科は「一応、保健委員長」と小さく付け足した。
……見えない。意外だ。
「あの……」
仁科は、安久のように俺を捕まえないのだろうか。疑問に思い、思い切って尋ねようとしたときだ。廊下の方からバタバタと足音が聞こえてくる。安久だ。
「……この足音は……」
「おい」と仁科に呼ばれる。
どうしたのだろうと思えば、仁科に肩を掴まれ「そっちに隠れてろ」とやつはカーテンに仕切られたベッドを指差した。迷っている暇はなかった。俺は頷き返し、言われるがままカーテンの奥へと身をひそめる。
それから暫くもしない内に扉が開く音が聞こえた。
「仁科!! 齋藤佑樹来なかった?!」
「おい……いきなり大きな声出すなよ」
「来なかった? って聞いてんの!」
「来てねーよ。……けど、外でなんかバタバタ音はしてたな」
「ふーん、外ね! 了解!」
それからすぐに扉の閉まる音が聞こえてくる。
続いて、バタバタとけたたましい足音が廊下に響いた。その足音も、暫くして聞こえなくなった。
完全に聞こえなくなってから、仁科の足音がこちらへと近付いてきた。そして、カーテンが開いた。
「……行ったみたいだぞ」
「あ、りがとう……ございました……」
「いや、いい。……帰るなら今のうちに出ていけ。また戻ってくるかもしれねーしな」
「……」
どうして、助けてくれたのだろうか。
仁科は阿賀松たちの味方ではないのか?
「……? なんだ?」
「あの、どうして……」
「……ああ」
言い淀む俺に、察したのだろう。仁科はどことなく歯切れの悪いまま「誰だって後味悪いのは耐えられないだろ」と口にした。それ以上何も言わなかったが、それだけでも十分だ。
俺は「ありがとうございました」ともう一度頭を下げ、それから保健室を後にした。
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