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03※
放課後になり、志摩とともに下校する。
自室に戻れば、阿佐美の姿はなかった。
どこかへ行ってるのだろうか。服を脱いだ跡を見つけ、俺はそれを洗濯機に放り込む。
今朝まではあんなに気分が悪かったのに、志摩とのことがあったお陰で、晴れやかとまではいかないものの気分はましになっていた。
明日から志摩が迎えに来てくれると約束もした。
ちゃんと早起きして、待たせないようにしないと。そんなことを考えながら、授業で提出された課題をしようと机に教材を広げたときだ。
いきなり、扉が開かれる。もしかして、阿佐美が帰ってきたのだろうか。
「おかえりなさ……」
い、と振り返った時、そこに立っていた大きな影を見て、凍りついた。
鼻歌交じり、ジャラジャラと複数の鍵がぶら下がるそれを指で持て余しながらも玄関口から上がってくるそいつは最も会いたくない相手だった。
阿賀松伊織。
どうして、鍵を、と考えるよりも先に、慌てて立ち上がった俺は、壁際に逃げる。
「朝振りだな、ユウキ君。元気だったか? 授業は楽しかったか?友達は出来たか?」
「……っ、ど、どうして……鍵……」
「質問に質問で答えてんじゃねーよ、つまんねえ奴だな。……優しい俺は答えてやるけどな」
「こんなもの、開けようと思えば開けられるっての、俺に掛かればな」悪びれもせず、阿賀松は鍵を見せてきた。俺の鍵でもないし、阿佐美が持ってるものかとも思ったがキーホルダーにぶら下がる鍵の数からしてマスターキーにも見えた。
それって、不法侵入じゃないか。血の気が引く。阿賀松はそんな俺の反応を笑う。
「そんなに隅っこにいくなよ。……触れないだろ?」
「……ッ出ていってください、ここから……早く……ッ!」
「なんで?」
「なんでって……ッ、ぅ、ぐ!」
いきなり、伸びてきた手に胸倉を掴まれ、壁に押し付けられる。堅い壁の感触に背骨が軋み、口から声が洩れた。
器官を潰され、息苦しさに喘ぐ。近付いてくる顔にキスされると思い、咄嗟に顔を逸したとき、左耳をべろりと舐め上げられ、ぎょっとする。
「っ、や、め……ッ」
「処女耳のくせに、随分と感度良いんだな。……ますます面白ぇ」
ねっとりと耳朶の凹凸をなぞるように這わされる濡れた肉の感触に、吹き掛かる熱い吐息に、体が震える。
嫌だ、また、こんな。あんな真似されると思うと耐えられなくて、思いっきり阿賀松を突き飛ばそうとするが、今度は逆に腕を掴まれた。
「暴れんなよ。……折られたくねーだろ?」
手首、その裏筋を爪先でなぞられる。血の気が引いた。阿賀松の目は笑っていなかった。
嫌だ、嫌なのに……阿賀松の力の強さは身を持って知っている。だからこそ、その言葉がただの脅しには聞こえなかった。
「……ッ、ぅ……」
「へぇ、ユウキ君は痛いことに弱いっと……メモしておかねえとな」
ニヤニヤと笑いながら、阿賀松は耳の穴、その奥にまで舌を挿入してくる。頭の中に直接響いてくる濡れた音に、どうにかなりそうだった。逃げたい、逃げたいのに、逆らったら本気で殺される。そう思うと、足が竦んだ。
空いた手がブレザーの裾を持ち上げ、ワイシャツの下へと滑り込んでくる。がら空きになった胴体を撫でられれば、言葉にし難い感覚を覚え……無意識に息を飲んだ。
我慢しろ、ただ触られてるだけと思えばいい、大人しくしてればすぐ飽きるはずだ。反応してもやつを楽しませてしまうだけだ。そう自己暗示を掛けるが、徐々に脇腹から胸元へと上がってくる指先に、体が反応する。指の腹でなぞられてるだけだというのに、酷くこそばゆく、もどかしさを覚えるのだ。
「随分と芳川に気に入られてるようだな」
耳朶を噛まれ、その刺すような痛みに息が漏れる。慌てて口を抑えるが、阿賀松の口から出てきたその名前に目の前が、暗くなる。
……やっぱり、見られていたのか。今朝、昇降口での櫻田の言葉を思い出し、背筋が凍り付くようだった。
「まさか本当にお前のこと気に入ってるなんてなァ……。俺としては、かなり美味しいんだけど」
「……んッ、んん」
「だってさあ、考えて見ろよ。会長のお気に入りのユウキ君が俺とこんなことしてるんだよ。……俺の手垢でベタベタになってることも知らずに、あいつはお前に話しかけるんだよ。俺とキスしたこの口で、あいつと一緒に飯食うんだ。……想像してみろよ、ゾクゾクするだ」
「……ッ、ぅ、んん……ッ!」
乳輪ごと胸の突起を揉みしごかれ、意識とは別に体が反応してしまう。くぐもった声。阿賀松の言葉に、全身の血液が熱くなる。それと同時に、恐ろしくなった。
阿賀松が何を企み、考えてるのかが分かったからだ。阿賀松は、俺のことを会長をコケにする道具としか見ていない。
「ぅ、んッ、ふ……ぅ……ッ」
「……小せえな。ここも、芳川に触ってもらえるようにしっかり育ててやらないとな」
「っ、ひ、ぅ……ッ!」
指の腹同士を擦り合わせるように、乳首を潰されれば痛みにも似た鋭い刺激に視界が白ばむ。チクチクと、針を刺されるような痛みは次第に全身へと広がっていき、触られるあまりに感覚が薄れてきたのだろうか。今度は、痛みよりも阿賀松の指の感触がやけにはっきりと脳裏にこびりついた。
「ゃ、やめ、て……下さ……ッ」
「どうして? ……こんなに触ってほしそうに勃起させておいて……よく言うな」
「違、あ、ッぁあ……ッ!」
転がされ、腰が揺れた。全身を巡る血液が、下腹部に集まるのが自分でも分かる。
咄嗟に腰を引いたとき、無理矢理股の下に潜り込まされた阿賀松の膝に足を開かされた。
「っ、あ……ッ!」
「隠すなよ。……声も、殺すんじゃねえよ。聞かせろ」
キスできそうな至近距離、鼻先が擦れる。阿賀松は、俺の胸を揉み、ツンと尖ったそこを親指で押し潰す。膨らみもなければあるのは皮と頼りない筋肉だけなのに、まるで女性のそれのように円を描くように揉まれれば、頭がどうにかなりそうだった。恥ずかしくて、逃げたかった。
それなのに、壁に抑え込まれた体はその場から動くことも許されない。
阿賀松の言う通りにする義務なんてない、頭ではそう理解してるのに、耳元で囁かれれば、正常な判断が出来なくなるのだ。
「あっ、ぁ……っ、や、ぁ……ッ」
服の下、まるで性器か何かのように突起を扱かれれば、汗が滲む。なんてことはない、はずなのに。阿賀松の手の動きから意識が逸らせなくて、そのもどかしい感触に、どんどん下腹部に熱は溜まっていく。
こんなはずじゃ、なかったのに。どんどん、自分が自分でなくなっていくような、そんな気すらした。
「触っただけでここまで期待されてもなァ……昨日まで処女だった癖に、そんなにハマったのか?」
「……ッ」
違う、そう言いたいのに、膨れ上がった下腹部に指を這わされれば何も言えなくなる。それどころか、阿賀松の指先に全感覚が向いてるみたいに、他の機能が低下していくのが分かった。何も考えられない。ハマるわけがない、そう思うのに、阿賀松に無理矢理扱かれて強制的に射精されたあの快感が蘇り、自分で自分を疑った。
体の奥が震え、目眩を覚える。
「ひでえ顔だな」
そう、阿賀松が厭らしく笑ったときだ。どこからともなく無機質な着信音が響く。
阿賀松の携帯のようだ。阿賀松は制服のポケットに手を突っ込めば、端末を取り出した。
まさか、と思えば、そのまさかだ。
「……なんだよ、俺、いますげぇ取り込んでんだけど」
当たり前のように電話に出る阿賀松に、目を疑った。
手遊びでもするかのように人の股間をスリスリと撫でる阿賀松に、俺は、奥歯を噛み締め、必死に息を殺す。電話越しから聞こえてくるのは、聞き慣れない声だった。話してる内容までは分からないが、阿賀松の表情からして好ましくない相手からの連絡だったようだ。
「はぁ? 知らねーよ。なんで俺が……面倒くせぇ。……あ? なら自分でしろよ、甘えてんじゃねえ」
「……っ、ふ、ぅ……ッ」
「……今? 言ってるだろ、お取り込み中って」
こちらに目を向けた阿賀松はそう言って俺の耳にキスをする。べろりと舌で舐め上げられた瞬間、吐息に混じって声が漏れてしまった。慌てて口を抑えるが、聞こえてしまったのだろうか。阿賀松はニヤニヤと笑うばかりで、手を止めるどころか楽しそうに俺の腿をなで上げる。今度は膨らみに触れないよう、付け根から腹部を掌全体で柔らかく撫でられれば、びくりと腰が震えた。
「……分かったよ、行けばいいんだろ、行けば。首洗って待ってろよ」
股の間、滑り込まれたその指に衣類越し、肛門付近を撫でられたときだ。阿賀松は通話を終了させ、俺から手を離した。
「……ぇ……ッ、」
「どうした? ……やめろっつってたのはお前だろ?」
「……ッ!」
呆けた顔を晒してしまったことに、死にたくなるほどの羞恥が込み上げてくる。慌てて阿賀松の胸を押し返せば、今度は簡単に阿賀松は離れた。
「……続きはまた明日だな」
阿賀松はそう笑い、俺の唇を撫でた。
慌てて顔を逸らせば、阿賀松は笑いを堪えるどころか声を上げ、そのまま部屋から出ていった。
なんなんだ、どういうつもりなんだ、あの人は……。
一人残された俺は、中途半端に掻き乱され、熱を持った自分の体を見て余計情けなさを覚えた。
どうして、俺は何を残念がってるんだ。こんなの、おかしい、おかしいだろ。必死に熱を抑える。
それでも、芯を持ったそこはそっとのことでは治まらなかった。
どれほど時間が経っただろうか。風呂に入って、阿賀松に触られた感触全てを洗い流そうと試みるが、余計体が熱くなり、結局、俺は風呂場で一回射精することになった。
自分で自分を慰めるような真似したくなかったが、それでも、このままでは耐えられそうになかった。そのおかげか、大分体も楽になったが、気は滅入るばかりだ。
風呂を上がって髪をタオルで拭いていると、扉が開く音が聞こえてきた。
まさかまた阿賀松だろうかと思えば、今度は阿佐美がそこにいた。
「ゆうき君、おかえりなさ……」
「し、詩織……ッ!!」
「っ、と、うわわ、何、どうしたのっ?」
俺は、阿佐美が帰ってきたことに安心して、つい阿佐美に駆け寄った。どうやら外へ出掛けていたようだ。相変わらず表情は見えないが、上着を着ていた阿佐美は俺を抱きとめると、照れたような驚いたような、心配の色も混じった表情を見せた。
俺は、さっきあったことを阿佐美に伝えた。阿賀松が勝手に鍵を使って部屋に上がり込んでいたこと。
流石に何されたまでは言うことはできなかったが、あらましを伝えると阿佐美は「あ」と慌てて上着のポケットを漁っていた。そして、みるみる青くなる。
「ご、ごめん……ゆうき君、それ、俺の鍵かも……」
「えっ?!」
「ご、ごめん! 本当ごめんね!」
「えっ、じゃあ……今……」
「鍵なかったから寮長から借りてたんだよね……」
「…………」
「ちゃんとあっちゃんからは取り返しておくから、ごめんね、本当。……あっちゃんにはキツく言っとくから、ね?」
よほど反省してるのだろう。そう謝ってくる阿佐美の頭には見えない耳がしょんぼりして折れてるのが見えるようだ。
「いいよ、大丈夫だから……今度からは無くさないようにね……」
というかあの男阿佐美から盗んだのではないかとも思えたが、これ以上言及する気にもなれなかった。
それにしても、阿佐美と阿賀松の関係も分からない。阿佐美が阿賀松を怒ってる図がまるで想像出来ないのだ。
一先ずまたいきなり部屋に上がりこまれることはないかもしれないが、正直、生きた心地がしない。
「そうだ、ゆうき君……ご飯食べた?」
「いや……まだだけど」
「それじゃあ、ご飯食べに行こうよ」
あまり人前には行きたくないというのが本音だが、断ってばかりでは阿佐美に不審がられるかもしれない。それに、腹が減っているのも事実だ。
俺は、正直気が進まないが、気分転換のため阿佐美と食堂へと向かうことにした。
◆ ◆ ◆
午後六時。日もすっかり暮れ、部活動帰りの生徒たちで賑わう食堂内、その人の多さに俺は目を疑った。朝も中々多く思えたが、夜はそれ以上だ。殆どの席が人間で埋まっている。
そしてそんなホール内を忙しなく行き交うウェイターとウェイトレス。
人、人、人。飛び交う声も会話も優雅なクラシックのBGMも全てが混ざり合って、何がなんだか分からない。
「今日は空いてるね」
「えっ、す、空いてるの……?」
「酷い時は食堂前のベンチで番号札渡されて待たされるからね」
「ば、番号札……」
「それじゃ、何食べようかな」
そう、阿佐美が歩き出したときだ。
「あれ、佑樹? ……おーい!ゆうきー!」
大声で名前を呼ばれ、その声がする方へと目を向ければそこには十勝がいた。
そして、その横には。
「齋藤」
「今朝ぶりだな」
五味と、芳川会長の姿もあった。
そしてその横には、見覚えのある男子生徒もいた。
地味だが、酷く冷たい目をしたその無表情の男子生徒は間違いない、講堂でステージの準備をしていた生徒会の一人だ。彼は俺に一礼だけして、それからすぐに会長に向き直る。
「それでは、自分はこれで」
「ああ、後はお前の好きにしろ」
「……畏まりました」
そう頭を下げ、黒髪の男子生徒は食堂を後にした。
残されたのは会長、五味、十勝の三名だ。そこに栫井の姿ではないが、先程の男子生徒も含めるともしかしたら生徒会メンバーで食事にきたのだろうか。
「奇遇だな。君たちもこれから晩飯か?」
「は、はい」
「ナイスタイミングだなー佑樹、知ってる?ここって俺ら専用の席があるんだよ。座る場所ねーなら連れて行ってやろうか?」
「今朝連れて行ったぞ」
「えっ?! 今朝?! 会長手早くないですか!!」
「馬鹿言うな! 人聞きの悪いことを言うのはやめろ!」
「あいたー!! 五味さん、五味さん、会長が殴った! 五味さん見ましたよね!」
「今のはお前が悪いぞ、十勝」
「…………」
賑やかというか、生徒会らしくないところは寧ろ十勝の長所なのかもしれないとすら思えてきた。
すんすんと泣き真似をする十勝を無視して、会長はこちらに向き直る。
「二人で食事に来たのだろう。……まだ席が見つかっていないのなら俺達と一緒にこないか?まあ、無論、君たちさえよければだが」
「でも、いいんですか? 今、生徒会だけの場所って……」
「何を言ってるんだ、君は今朝も一緒に座っただろう。……それに、俺達はそんなルールを作った覚えはない。周りがそう勝手に決めては常に空けてるからそれを有難く使わせてもらってるだけだ」
「そ、そうだったんですね……」
何やらワケアリのようだ。俺は、阿佐美に目配せする。俺からしてみれば席を探す手間が省けて万々歳だが、問題は人見知りの激しい阿佐美だ。
ちらりと見れば、阿佐美は「ゆうき君に任せるよ」と口パクしてきた。
「それじゃあ……ご一緒してもいいですか?」
「もちろん! 皆で食べたほうが楽しいしな!」
「……まあ、そういうことだ。歓迎する」
そう阿佐美に目を向ける会長。阿佐美は、何も言わなかった。
正直、俺は意外だった。少なからず阿賀松と仲がいい阿佐美は会長たち生徒会と一緒にいるのは嫌がるかもしれないと思っていたからだ。けれど、阿佐美はあくまで興味はなさそうだった。
……食べられたらどこでもいいということか。
◆ ◆ ◆
食堂二階席。
引き続き珍妙なメンバーだが、ムードメーカーな十勝のお陰で場が妙な空気になることはなかった。
「阿佐美さ、髪切らねーの?俺、実は阿佐美の髪を切るのずーっと楽しみにしてんだけど」
「え……き、切らないし多分切るとしたらちゃんと美容室行くからね」
「えー! なんで! 俺、結構友達のとか切るからプロってるぞ、ほら、こう、ガリガリって」
「それは剃ってるんじゃ……」
「五味さんのこれも俺が剃ったんだぜ、きれいだろー!」
「お前っ! 先輩の頭を撫でんじゃねえ!!」
「うわっ! 五味さんが怒った!!」
「おい、食事中に騒ぐな!!」
そう注意する会長の声も中々大きいが……。
思ってたよりも悪くない空気だ。転校生だから知らないだけか、思っていたよりも俺の知らないところで人間関係というものは既に出来上がってるようだ。当たり前のことだが、見たことのない阿佐美を見てるようで少し寂しかったりもする。……これが疎外感というやつだろうか。
「齋藤君、箸が進んでいないようだな」
「え、あ……す、すみません……」
「そうじゃない。……今朝から顔色も悪かったし、具合が悪いのではないか?」
心配してくれてるのだろう。俺は、会長の気遣いが余計居たたまれなくて、つい、言葉に詰まる。
「……悪かったな、無理に誘って」
「え、ぁ……違います、寧ろ……その、誘っていただけて俺、嬉しかったです……」
「……そうか」
なんだろう。会長の様子がおかしい。
なんとなく、今朝よりも余所余所しく感じるのだ。
「そうそう、会長は気にしすぎなんすよ、いくら会長が気を悪くしたって阿賀松たちはまーたしょうもないイチャモン付けてくるんスから……あいたッ!!」
「こんの馬鹿十勝……ッ! あれだけ会長の前であの野郎の名前出すなって言ったのにお前は……っ!! ……って、ハッ!!」
「……」
「……ッ、……」
無表情の芳川会長と、真っ青になる五味と十勝。俺は、三人の表情から全てを悟った。
先程、阿賀松が部屋に尋ねてきたときから、引っかかっていた。あんなに阿賀松が上機嫌だったわけ。それは、何かしらのアクションを会長にして、その反応が返ってきたからではないか。そう思うと、辻褄が合った。それと同時に、血の気が引く。
「齋藤君……少し、良いか。君と話がしたいんだが」
そんな風に聞かれて、断れるわけがなかった。箸を持った手が震える。それでも、逃げるわけにはいけない。逃げ道など、ないのだから。
「……はい」
俺は、箸置きに箸を置いた。
ゆっくりと席を立ち、会長とともに二階席奥の通路へと向かう。
後方、三人が残ったテーブル席から五味の怒鳴り声と十勝の泣き声が聞こえてきたが、それもすぐ、聞こえなくなった。
「悪いな。わざわざ手間を取らせて」
「い、いえ……」
通路内は静かで、一階の食堂から聞こえてくる声すら壁に隔たれてるように遠く聞こえる。
こんな場所にまで連れてこられる理由は、分かっていた。阿賀松のことだ。
冷や汗が滲む。怖くて、会長の顔を見ることもできなかった。
「あの、それで……お話って……」
「……阿賀松のことだ」
「……ッ」
分かっていたはずだ、こうなることは。
それでも、会長の口からその名前が出てきた瞬間、死刑宣告を受けたようなそんな気分になる。
それよりも、驚いたのは、会長のことだった。
「……すまなかった」
そう、会長は腰を折り、俺に向って頭を下げたのは。
「か、会長……っ?」
「俺の、せいだろう、……あいつに絡まれたの」
「っ、それは……」
「俺が君を贔屓するような真似をしたせいで、勘違いしたのだろう。君が、俺にとって特別だと」
「……っ」
実際、口にされると酷く恥ずかしかった。
淡々と続ける会長に、俺は「頭を上げて下さい」と慌ててその肩に触れる。
「齋藤君……」
「気にしないでください、俺も、ちゃんと嫌だって言えなかったのが悪いので……」
「それに、俺は会長に誘ってもらえて嬉しかったです。……ご飯とか」出来る限り、精一杯の笑顔を作った。
痛みにも慣れていた。あんな風に触られたことはなかった分ショックは大きかったものの、耐えようと思えばまだ耐えられる。
けれど、こうして俺に優しくしてくれた人が、自分の行動を悔やんで頭を下げることだけは耐えられなかった。
会長は、苦悶の表情を浮かべる。
「君は……」と何かを言い掛けては、眉間にシワを寄せ、その言葉を飲み込んだ。
「君は……俺を拒絶する資格がある」
「そ、そんなこと……! っ、俺は……したくないです……」
会長がそう思うならともかくだ。俺からはその善意を拒否するマネはしたくなかった。畏れ多いと言った方が的確だからだ。会長はそういうが、俺にはその資格はないのだからだ。
「……君には、敵わないな」
そして、会長は浅く息を吐いた。
呆れられただろうかと、俯いたとき、頭の上、会長の手が置かれる。それからわしわしと雑に頭を撫でられた。
「か、会長……っ?」
「……ありがとう、齋藤君」
「……っ、会長……あの、俺……会長に話しかけてもらえて、嬉しいです……だから……」
「ああ、君さえよければ、よろしく頼む」
「……悪かったな、さっきのは聞かなかったことにしてくれ」そう、微笑む会長の耳から微かに赤い。それでも、会長の手は暖かくて、俺は、その会長の笑顔にぎゅっと胸の奥が締め付けられるような……そんな錯覚を覚えた。
会長は、真面目なのだろう。それで、罪悪感を覚えて、自分を犠牲にしようとしたのか。
俺には、何故この人が阿賀松たちに嫌われてるのか分からなかった。分からなくてもいい気すらしていた。
「そうだな……問題の芽は、摘めばいい話だ。君に無理をさせる必要などない、それを見失っていたとは……愚かだな、俺も」
「……会長?」
「食事中、引き止めて悪かった。……戻ろう」
「は、はい……!」
背中を軽く叩かれ、俺達は阿佐美たちが待つ二階席へと戻った。来たときよりも足取りは軽やかだった。
阿賀松のような人間ばかりではない、志摩や、会長、阿佐美のように俺の話を聞いてくれる人もいる。
それが分かっただけでも、俺にとって希望だった。単純だと笑われようが、どんな劣悪な環境でも、自分のことを理解してくれる味方が一人でもいればそれは何よりの原動力になるのだ。
二階席に戻り、残りの食事を口にする。
何事もなかったかのように雑談し、食事を続ける俺たちを見て五味と十勝は不思議そうな顔をしていたがそれも束の間、いつの間にか復活した十勝のお陰でまたテーブル席は騒がしくなる。
俺は、自然と笑えていた。
……。
………………。
「それじゃあ、俺これからデートあるからおさきに失礼しまーす!」
「あまり夜更かしするなよ。……おい十勝テメーもだ、ちゃんと消灯時間までには学校に帰ってこいよ!」
「りょうかーい」
「全く……」
「齋藤君、君も、何かあればすぐに言ってくれ。昼間は大体生徒会室にいる。……場所、分かるか?」
「ぁ、はい……大体なら」
「そうか。ならいい。いつでも待ってるぞ」
「……ありがとうございます」
学生寮一階、ロビー。
デートへ行くという十勝はそのまま学生寮から出ていく。
五味と会長はこれから生徒会室に戻るという。もう夜になるのに生徒会も大変そうだ。
俺と阿佐美は、会長たちと分かれてエレベーターに乗り込んだ。
「……お腹いっぱいになったね、ゆうき君」
「……うん」
「……ゆうき君、会長さんに何か言われたの?」
静まり返ったエレベーター機内。
不意に尋ねられ、俺は驚いた。阿佐美は、真剣な顔をしていた。
「……何って……大したことないよ」
「そう、なの? ……なにか……イジメられなかった?」
「そ、そんなことあるわけないだろ。……寧ろ、その逆というか……」
どうやら、あの空気の中連れ出された俺のことを心配していたらしい。不安そうな顔をしていた阿佐美に、「とにかく、何もなかったよ」と念を押す。
「そっか……それならよかった……ごめんね、疑って……」
「いや、いいよ、けど……会長はそういう人じゃないよ……」
会長が謝ってくれたこと、それを言えば信じてくれるのかもしれないが、俺はそれ以上何もいわなかった。
なんとなく、あのときの出来事は二人だけのものにしたかったのだ。自分でもおかしな話だと思うが、会長だって、俺に謝ったことを第三者に伝えられていい気にならないだろう。そう思ったのだ。
阿佐美は「そっか」と優しく笑う。それから「ごめんね、会長さんにも悪いことしちゃったな」と申し訳なさそうに項垂れた。
阿佐美も阿佐美で、心配してくれただけなのだ。寧ろそれは俺にとってはありがたいことなのだろう。
静かに開く扉から俺達は三階へと降りる。
満腹になれば、今度は眠くなる。今日はなるべく早く休んで、明日に備えよう。そんなことを考えながら、俺は自室の扉を開くなり、ベッドに飛び込んだ。
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