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02

 教室には既に登校していた生徒たちの姿が多くあり、賑わっていた。  挨拶しようにもタイミングが見つからず、結局真っ直ぐに自分の席までやってくることになったのだけれど……。  隣の席に目を向ける。志摩は、まだ来ていないようだ。  ……志摩。会いたいような、会いたくないような、そんな気持ちが織り交ざっていた。  昨日、志摩の部屋まで訪れた後、阿賀松とのことがあった。……志摩の前では、普通でいたかった。  何も疚しいことなんてない、そう胸を張ってればいい。頭では理解してても、いざ、この時間になると必要以上に緊張してしまう。  不意に、教室の扉が開く音がした。慌てて顔を上げれば、そこから入ってきたのは別の生徒だった。  ……何を、ドキドキしてるんだろうか。馬鹿みたいだ。  気を取り直して、授業の準備でもしようかとしていたときだ。不意に、数人の生徒たちが机の傍にやってくる。 「あのさ、齋籐君」 「えっ? ……あ、はい……」  話し掛けられるなんて思ってなくて、俺は咄嗟に姿勢を正した。クラスメートたちはニヤニヤと笑っては、目配せをし合う。……なんだろうか、なんとなく、様子がおかしく思えた。  そして。 「あの……三年の阿賀松って人と付き合ってるって本当なのか?」 「……はい?」  一瞬、思考がフリーズする。  誰が……誰と?何だって?  目眩を覚えた。まさか、ここまで早く広まるとは思わなかった。もしかして、俺がいなくなった後にあの男が何か流したということか?  だとしたら……最悪だ。 「……っ、ちょっと、待って……あの、違う、本当……違うから……」 「でも、今朝廊下でキスしてたって聞いたんだけど」 「それは……ッ」  無理矢理、と言い掛けた、その時だった。 「……誰と誰が付き合ってるって?」  その甘い声は、背後から聞こえてきた。  俺は、振り返るのが怖かった。クラスメートたちは、俺の背後に立っているであろうそいつを見て顔を青くした。そして、そそくさと机から離れていく。 「し、ま……」 「おはよう、齋籐。今日は随分と早いね」 「う、うん……その、早起きしちゃって……」  こんなことが話したいわけじゃないのに、志摩の態度はあまりにもいつもと変わらなくて、つい絆されそうになる。  ……けれど、今の、絶対聞かれていたよな。  そう思うと、気が気でなかった。 「志摩、……あのっ」 「そういえば、昨日はごめんね。予定すっぽかしちゃって」  さっきの話は誤解だから。そう言いかけた矢先、志摩はそんなことを言い出した。  確かに、そのことも話したかった。聞きたかった。  けれど、間違いなく今の話について言及されるだろうと構えていただけに、突然昨夜のことを掘り返されて戸惑う。 「い……いや、確かに心配したけど……何かあったの……?」 「何かっていうか……ま、急用だね。本当は齋藤に連絡しないとなって思ったんだけど、ごめんね、時間なくてさ」 「ううん、いいよ、気にしなくて」 「……そう? ありがとう、齋藤。……十勝からも聞いたよ、わざわざ訪ねてきてくれたんだよね?」 「……う、うん……ごめん」 「なんで謝るの? 寧ろ、すっぽかすなって責めてくれたっていいのに」 「……」  いつもと変わらない志摩に、段々不安になってくる。あまりにも変わらなさすぎるのだ。  けれど、気にしていないのならばそれはそれでよかった……ような気もする。  そんな俺を見て、志摩は、目を細める。そして、ゆっくりと口を開いた。 「……正直に話すとね……俺、二つ上に兄貴いるんだけどさ。そいつ、いま入院してるんだよ。そんでいきなり病院から容態が急変したって連絡入ってさ、それで呼び出されたってわけ」 「え……っ?」  初耳だった。志摩にお兄さん、しかもそんな事情があったなんて。 「そ、それは……仕方ないよ、寧ろ、志摩は全然悪くないよ」 「本当……齋藤って疑わないよね」 「……え?」 「齋籐が気にする必要はないよ。今の嘘だから」 「……ッ、は?」 「ごめんごめん、あんまり齋藤が文句言わないからどこまで信じるのかなって思って。でも、本当齋藤って素直っていうか、ふふ、いやごめんって、拗ねるなよ」 「……」 「おーい、齋藤ってば」 「……でも、冗談で良かった。……様態が悪くなったお兄さんはいないってことだよね?」 「…………そうだね」  志摩の目が細められる。 「嘘なんだから、そうに決まってるじゃん」と笑う志摩に、俺はほっとする。別に騙されようが、志摩の嘘も可愛いものだ。きっと、本当のことを話す気はないのだろう。俺もそれ以上追求することはしなかった。けれど。 「それで?」 「え?」 「誰と誰が付き合ってるって?」  まさかこのタイミングで掘り返されるとは思ってもいなかっただけに、その言葉に、俺はすぐに反応することが出来なかった。 「な……何が……?」 「阿賀松伊織と廊下でキスしてたんでしょ?いま言ってたじゃん」  しかも、全部聞いてたなんて。  分かってて敢えて俺の口から聞き出そうとする志摩に、俺は、何も言い返すことが出来なかった。  下手に誤魔化したところで、志摩には通用しないだろう。 「……教えてくれないの?」  黙秘する俺の手を取った志摩は、そのまま指同士を絡める。  近い、近い、近い。慌てて距離を取ろうとするが、志摩の指は絡んで外れない。指の付け根とその谷間を擦られ、息が詰まりそうになる。 「っ……た、ただの噂だから……本当……」 「……本当に?」 「ほ、本当だよ……」  至近距離、瞳の奥を真っ直ぐに覗き込まれ、鼓動が加速する。  俺は、志摩から目が逸らせなかった。暫くの沈黙の末、志摩はパッと俺から手を離した。 「そ。ならいいんだけど」  そして、何事もなかったかのように変わらない笑みを浮かべ、志摩は自分の席へと座る。  ……心臓がまだ煩い、指が離れたはずなのに、手に残った感触はこびりついて離れなかった。  午前の授業が終わり、休憩時間に入る。  志摩と昼食は何食べようかなんて話ながら通路を歩いているときだった。  通路奥から見覚えのある派手なピンク頭が見えたと思った矢先だ、ズカズカズカズカと勢い良くこちらに向って大股で近付いてきたそいつは、いきなり俺に掴み掛かってくる。 「どういうつもりだ!」 「っ、え?! な、何……?!」 「まさか本当に伊織さんと付き合ってると思ってんのかよ、アンタ」 「ちょっ、い……いきなり、なに言って……っ」 「一回抱かれたくらいで自惚れるなよ。伊織さんはな、お前のことこれっぽーっちも、全く! 微塵も!なんとも思ってないんだからな!!」  鼓膜が破れそうになるほどの大声。何を言い出すんだこいつは、人前で。  掴み掛かってくる安久になにがなんだか分からず狼狽えてると、見兼ねた志摩が安久を引き剥がしてくれる。そして。 「……なんの話?」  こちらを見る志摩のその冷え切った目に、背筋に冷たい汗が流れた。  やばい……何か言わないと。「違う」「誤解なんだ」と口にするが、志摩の冷ややかな眼差しは変わらない。  それどころか、志摩を睨み付けた安久は、にやりと嫌な笑みを浮かべた。 「……へえ、齋藤佑樹お前色んなやつに媚売ってんだね。よりによって志摩亮太だなんて……ほんっと、趣味悪すぎ」 「媚だなんて、別に……ッ!」  自分が馬鹿にされるのはまだいい。それでも、志摩まで馬鹿にされるとなると話が別だ。  志摩と安久が知り合いということにも驚いたけど、何より驚いたのは。 「……齋籐、俺なら大丈夫だから」  つい言い返そうとしていた俺の肩を掴んだ志摩は、そう優しく宥めてくる。  志摩の方が怒りそうなものなのに、何故そんなに落ち着いているのか俺には不思議だった。  けれど、相手が安久だからこそか、志摩の考えも分かり、俺は喉まで出掛けた言葉を飲み込んだ。 「なぁーにが、『大丈夫だから』だよ。良い子ちゃんぶってるつもりなわけ?悪いけど、気持ち悪いし似合ってないよ、それ」 「悪いけど、退いてくれないかな。そこにいられちゃ邪魔なんだけど」 「なら一人でさっさとどっか行けばいいだろ、厄介者のアンタには用ないんだけど?」 「退けっつってんの、随分と使い物にならない耳だね?」 「そんな耳、要らないんじゃない?」と、志摩が安久に掴みかかろうとしたのを見て、咄嗟に俺は「ちょっと、志摩」とその腕を引っ張った。そのときだ。 「おい、何やってるんだ! そこ!」  通りがかった男性教師が騒ぎに気付いたようだ。  バタバタと大きな音を立て駆けつけてくる教師に安久は面倒臭そうに舌打ちをし、その場から逃げ出した。素早いやつだ。  伸ばしかけた手を引っ込める志摩。 「志摩、俺達も行こう」 「……そうだね」  先生に怒られる前に、俺は志摩の背中を押してその場を離れた。  志摩のお陰で助かったが……正直、生きた心地がしなかった。あんな大きな声で阿賀松とのことをバラされ、平常心でいろと言う方が無理な話だ。  一先ず俺達は腰を落ち着けるためにラウンジへと向かった。  移動する間、志摩の様子がおかしかった。それも無理もないと思うが、やっぱり少し怖くなってくる。  ……今度こそ、嫌われるかもしれない。そう思うと、気が気でなかった。  校舎内、ラウンジ。  自販機で飲み物を買った俺達は、ベンチに腰を下ろしていた。 「齋籐、なんで安久に目付けられてんの」 「……その、なんというか……」 「……あいつが言ってたの、本当なの?」  オブラートに包んではいるが、志摩が言いたいことはすぐに分かった。無理矢理とはいえ、阿賀松と関係を持ったこと。それを問い質され、そうですと頷けるほど図太い神経はしていない。俯いたまま何も言えなくなる俺に、志摩は、深く息を吐く。 「……そんなに言いたくないなら言わなくていいよ、別に」 「……っえ……」 「だからそんな顔しないで」 「っ、し……ま……」  もしかしたら、今度こそ絶縁される。そう覚悟していただけに、志摩の言葉は酷く暖かくて、塞ぎ込んでいたものが一気に溢れそうになった。 「それにしても、面倒なのに絡まれたね。……どうせ、あの男のことだから齋藤だって本意じゃなかったんだろうし」 「……」 「あぁ、ごめん……思い出したくなかった? ……けど、また何かあったら俺に言ってよ。……少しは力になれると思うけど」  その言葉は心強くて、ずっと、俺が求めていたもののようなそんな気すらした。 「ぁ……ありがとう、志摩……」 「ちょっと……齋藤、なに泣いてるの。ほら、鼻水垂れてるから」  いいながら、ハンカチで雑に俺の顔を拭ってくれる志摩。  志摩がいてくれて、本当に良かったと思う。受け入れてくれる、味方してくれる人間が一人でもいるだけでここまで心強く思えるのだから。  そうだ、あの頃とは違うのだ。四面楚歌で友達と思っていた人間も全員敵だった、あの頃とは……。

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